皇妃桜の樹の下には

江古田煩人

皇妃桜の樹の下には

桜の樹の下には死体が埋まっていると書いた作家がいるが実際のところそれは単なる創作だというわけでもなく、墓石さえも用意できない貧しさの中においてせめて故人を弔うために手近な花の木を植えた、というのがその始まりであるらしい。そう言われてみるとなるほど、黒々とした無骨な黒い枝から匂い立つように咲くあの薄桃色の花弁ほど妖しげでなおかつ人を惹きつける、墓碑にふさわしい花もそうそうないだろう。無垢な白地にうすら甘い死臭をまとわせているような桜の花が、連雀れんじゃくヒエイは苦手だった。

 境内の周囲をすっかり埋め尽くすように咲いている桜のせいか、真夜中の緩慢寺かんまんじはどこか現実離れしたような気配に満ちていた。ガラ通りの南区からほど近い大路に位置するこの寺は普段の参拝客こそ少ないが、春先になると満開の桜、ことに境内に植わっている樹齢五百年の巨大な皇妃桜おうひざくらを目当てに東興とうきょう中から客が押し寄せる。花見に便乗して夜遅くになっても境内で酒盛りをする馬鹿が湧くのも毎年のことなのだが、今夜は不思議と境内に人の姿はない。夜風を受けてちらほらと舞い落ちる桜の花びらをうるさげに払いのけると、ヒエイはペンキのはげかけたベンチに腰を下ろした。桜の花びらが長袍チャンパオの裾に二つ三つ張り付いて、濃紫こむらさきの布地がそこだけ白抜きしたように見える。

「おや連雀さん、こんばんは。まこと穏やかな月夜でございますね」

 本堂の少し向こうで掃き掃除をしていた山羊人が、ヒエイの姿を認めるなり軽く会釈をした。緩慢寺の住職である猿渡眼厳さるわたりがんげんは僧侶らしく斑地まだらじの毛皮を短く刈り揃えて角を丸めた、一見穏やかな好青年なのだが、その柔和そうな外見とは裏腹に境内でいたずら半分に騒ぎ立てるような参拝客にはことのほか厳しい。きっと今夜もうるさく騒ぐ花見客を追い払っていたところなのだろう、だからこんな時間まで箒を片手に境内に留まっていたのだ、とヒエイは一人で納得した。眼厳は掃除をやめると、ヒエイに向かって軽く手を合わせた。

「花見……ではないでしょうね。いやはや、遅くまでお勤めご苦労様です」

 労わるような眼厳の言葉にヒエイも軽く頷いた。普段通りに振る舞っていたはずが、どうやら疲れの色は眼厳にしっかり見抜かれてしまっていたらしい。

 昔から木の芽時とはよく言ったもので、春先になると街のあちらこちらで妙なものが湧く。それは裸に外套を羽織っただけの痴漢の類でもあるし、その肩の上でとぐろを巻いている黒々とした邪気の類でもある。不審者の後始末なら丹本自警団に任せておけば済む話だが、その肩に取り憑いているものも一緒にとなるとそうもいかない。この時期に決まって増える気狂いを木の芽時のせいだと片づけられる人は気楽なものだが、信心深い年寄りなどは春先になるとこぞって寺社に出向いては邪気祓いをせがむのだ。ヒエイのような奏上師やその手のまじない師、また眼厳のような神職に携わる人間にとって春先は最も忙しい時期であり、それはお互いの共通認識となっていた。

「この寺へも、もう何人もご祈祷にいらっしゃっていますよ。昼間はご祈祷、夜はこの通り夜っぴて境内の掃除です。お互いに大変でございますね」

「どうして毎年、春になると妙なものが湧くのだろうな」

「長い冬を越した後の陽気がそうさせるのでしょうね。どうも春はいろいろなものが開放的になっていけない、たちの悪い花見客などその最たるものではありませんか。ごみを残していくだけならまだ私が掃き集めれば済むのですが、酷いものだと桜の枝を手折っていく者もおりまして。ただでさえ掃除に手を焼くのに、桜が散るまでは毎晩、寝ずの番です」

 ため息混じりにそう言うと、眼厳は坊主頭をこりこりと掻いた。一日でも掃き掃除を怠ると散り積もった桜の花びらでまたたく間に境内が埋まってしまうのだろう、眼厳の足元に掃き集められた花びらはこんもりと白い小山のようになっており、その中にちらほら見え隠れするのは煙草の吸い殻と潰した酒のパックらしい。ふと気づいてみるとヒエイの足元にも何か固いものが転がっている気配があり、拾い上げてみるとそれは赤いエナメルのハイヒールだった。酔っ払いが脱ぎ捨てていったのだろうか、踵がぐらついてしまっているそれを眼厳の方へ振ってみせながらヒエイはうんざりしたような顔をした。花見と乱痴気騒ぎを履き違えた輩は、ときにとんでもない置き土産を残していく。

「ああ、申し訳ありません……全く、どうして靴を忘れていくものだか」

飢野うえのの公園じゃ、桜並木をまるまる切り倒したそうだな。花見客があんまり騒ぐものだから」

「桜に罪はありませんのに」

 ヒエイの手から片足だけのハイヒールをつまみ上げると、眼厳は顔をしかめてみせた。これだけの迷惑を被っても眼厳は桜を切り倒すどころか花見禁止の看板すら立てようとせず、毎晩のように繰り返される酒盛りを夜通し追い散らす方を選ぶのである。どうして花見を止めないのかといぶかしがるヒエイに、眼厳は本堂の脇にどっしりと根を下ろしている皇妃桜を示してみせた。

「見事なものでしょう。皆さんこれを目当てに境内にいらしているのに、花見を禁止したらかえって顰蹙ひんしゅくを買いますよ。かといって、切り倒すなんてもってのほかですが」

「随分と長く咲くんだな。他の桜は散り始めているのに」

 ベンチから見上げた皇妃桜は、降り注ぐ月明かりの元で黒々とした枝木をいっぱいに広げ、重みで枝が垂れしなるのではないかと思わせるほど満開の花をその無骨な腕にずっしりと抱えて静かに佇んでいた。境内の周りに咲いているものとは比較にならないほどの甘い匂いが、ある種の香のように花弁から湧き出ては周囲の空気をすっかり薄桃色に染め上げている。春先に出る不審者は皇妃桜の花粉が原因だなどと面白半分で囃し立てる者もいるのだが、それもあながち出鱈目でもないかもしれない、と思わせるほどその香気はねっとりと強く、濃いものだった。

「いやな匂いだ」

 ヒエイの正直な呟きに、眼厳は怒るどころか笑ってみせた。

「ヒトが感じるんですからよほどの匂いでしょう。私などはもう鼻が麻痺してしまって全く感じませんが、参拝に来られる獣人の方は匂いがきついとよくおっしゃっていますよ。それもまあ、皇妃桜の都合なので人間がどうこうできる事でもありませんが」

「花の匂いじゃあないぞ、これは」

 そう呟くと、ヒエイは桜の樹から顔をそむけるようにして小さくうめいた。月光を受けて白光りする花びらを長いこと見続けていたからか、明かりのない境内は暗闇の中へ沈んでしまったように見える。艶やかな花弁をひらめかせる皇妃桜の周囲はずっしりと重い午前一時の暗闇にいちめん覆われてしまっており、その暗闇からは確かに、ガラ通りの細い路地のあちこちに潜んでいるものと同じ[[rb:饐 > す]]えた生臭さが漂っていた。だから桜は好きではないのだ。舞い落ちる桜の花びらに混じって闇の奥から二つ三つの白い目がこちらを伺うようにちらつくのもヒエイの気のせいではないだろうが、それをわざわざ何も知らない顔の眼厳に教えてやるほどヒエイは分別知らずではなかった。いくら神職でも、その全員が霊感を持っているわけではない。黙り込むヒエイをよそに、眼厳は人のよさそうな笑顔を浮かべたまま皇妃桜のごつごつした幹をそっと撫でた。

「夜半にこうした話をするのも薄気味悪いと思われるかもしれませんが、実のところ、この下には本当に何者かが埋まっているのだとか。私も先代の住職から聞き伝えられた話しか知りませんが、この桜の樹が何かの碑であることには間違いないようですね」

 眼厳がだしぬけにそんな話を始めるのだからヒエイの内心は穏やかではなかったが、このある種異様な桜の樹の謂 《いわ》れに興味をそそられないでもなかった。

「何を埋めたんだい」

「それが分からないのでしてね。資料として残してあるとは思うんですが、なにせ植えられてから随分と経つでしょうし、せっかく残っていた記録も戦災で全て焼けてしまったそうなんです。残念ですが、この寺にそうしたものは何も残っていません」

「これだけ立派な桜を植えたのだから、下にはそれなりのものが埋まっているのだろう。まさか、掘り返すわけにもいかないだろうが」

「あなたも同じことをお考えのようですね。しかし、わざわざ貴重な皇妃桜を植えたというのにその下に埋まっているものの正体を誰も知らないというのもおかしな話だと思いまして、私などはその正体を隠すつもりで誰かがわざと記録を焼いたのではないかと考えているのですよ」

 強い西風が、どおと音を立てて幹を揺らした。途端に地面から巻き上げられた花びらが桜色のもやとなって視界を塞ぎ、甘ったるい匂いが喉を塞ぐ。風に吹きまくられる花弁に混じって土の上でかすかに揺れているのは、確かに女の小指だった。ぞろりと幹を取り囲むように突き出された小指の群れはその白い肌をなまめかしく光らせながら風の動きに合わせて踊るように揺らめいている。ほっそりとした指先が時折鉤かぎのように曲がり、それが指切りの仕草と全く同じだと気づいた途端にヒエイは思わず立ち上がると知らぬ間に膝の上へ積もっていた桜の花びらを思い切り払い落とした。払えど払えど手指へまとわりついてくる花弁の感触は奇妙に生々しく、雨に濡れたわけでもないのにその細胞一つ一つがじっとりとした湿気を孕んでいるように感じた。

「どうかされましたか」

 眼厳の声に我に返ってみれば、皇妃桜は先程と何も変わらない様子でその重たげな枝を静かに揺らしており、地面を流れる風がヒエイの手に張り付いた花弁を一枚また一枚とさらっていった。月明かりに照らし出された地面には無論、降り積もった桜の花以外に何もない。押し黙ったままのヒエイに顔を近づけると、眼厳は深刻そうな顔でもう一度囁いた。

「どうかされましたか。あの、まさか、何かをご覧に」

 眼厳の言葉を遮るように手を振ると、ヒエイはベンチにどっかりと腰を下ろした。見えていないのならそちらの方がよほどいいに決まっている。何も知らない顔の皇妃桜は相変わらず、その全身からむせかえるような濃い匂いを発散させたまま闇の中に佇んでいた。

「……それにしても、今夜は特に強く匂う気がしますね。まるで、なんでしょう、女のおしろいのようじゃありませんか」

「女のおしろいか」

 その場を取り繕うような眼厳の言葉に、ヒエイは短く返事を返した。

「だからこんなに色良く咲くんだよ」

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