栗の木の神様

邑楽 じゅん

栗の木の神様

 秋も徐々に深まる、小さな山村。

 山の裾野から名残惜しそうに顔を出す夕陽に照らされて、周囲の田畑では風に巻かれた黄金色の絨毯がその身を擦り合う。

 でも農作物の手入れをする人影もない。

 道を行き交う人の姿もない。


 今日は里の葬儀。


 村で葬式があった日にゃ、丘にある栗の木の下を通っちゃならねぇ。

 栗の木に住むいたずら者の神様が、不用意に通った者を一緒に連れていく――。


 だから畦道が交わり、農業用の水路が通る村で唯一の『街道』である丘の上を歩く者は誰もいない。

 ここで古くから伝わる言葉だから、みな一様に言い付けを守る。

 そして殯が終わるまで村は静まり返る。

 斎主の悲しみに心を寄せる者も居るだろうが、実態は忌み事として里の者達は敬遠するかのように家に籠る。それがここの風習であった。



 そんな人気の失せた寂しげな道を、とぼとぼと歩く幼い少年が居た。

 他の村の子とは違って、着物ではなく舶来のシャツに釣りズボン。男の子といえば坊主頭だが、この子は襟足を刈り上げて前髪は額で切り揃えた『チャン刈り』だ。

 

 少年はうなだれて足元を見ながら歩いていた。

 視界には行き交う道と、その角に古ぼけた地蔵が見えた。

 だからここがちょうど丘の上で、栗の木の下あたりだというのは少年にもすぐにわかった。


 その時だ。

 なにかが頭髪を越えて頭皮を深く削ったように錯覚した。

「いてっ!」

 鋭い痛みで咄嗟に頭頂部を押さえる。

 見れば足元に毬栗いがぐりがころんと落ちていた。


 少年が涙目で頭を撫でながら頭上の栗の木を見上げると、和装で坊主刈りの、少しばかり年上らしき男の子が、いたずらっぽい笑みを浮かべている。

「痛いなぁ。なにするんだ」

「お前が下ばかり向いて歩くからじゃ。危ないぞって教えてやったんじゃ」

「なに言ってるんだ。お前がいがぐりを投げなければ危なくないじゃないか」

「世の中なにがおきるかわかんねぇ。こうやっていがぐりが落ちてくるかもしれねぇんじゃ」


『チャン刈り』の少年は自分の頭に落ちてきた毬栗を靴で壊すように、何度も地団駄を踏んだ。

「お前はいったい何者なんだ! 栗の木に登ってて見下ろしてえらそうに」

 すると坊主刈りの少年は、次に投げるために控えていた毬栗を指先でそろりと持ち上げながら笑う。

「俺は神様じゃ。栗の木の神様じゃ」

「神様? バカなこと言うな。お前みたいな神様がいるわけない」

「でも里で葬式があったじゃろ? 葬式の日は丘の上の栗の木に神様が現れるって言うじゃろ? だったら今ここに居る自分は神様じゃ」

「そんなの迷信だ。葬式の日に栗の木にいたら、みんな神様なのか?」

「そうじゃ」

「お前が神様だって言うのなら、うちがその葬式の家だって知ってるだろ! 斎主の家の者になにをしてくれるんだ! どんだけ僕が困ってると思ってるんだ!」

「もちろんじゃ。だから、いがぐりを投げてやったのじゃ」


 坊主刈りの少年が何を言っているのかわからず、『チャン刈り』の少年は頭上に居る栗の木の相手を睨みつける。

 だが、坊主刈りの少年は毬栗を放ると手招きをした。

「ここに来てみろ。俺が神様だってわかるぞ?」

「木に登れって、どうしてそんなことを言うんだ? なんでお前が神様だってわかるんだ?」

「なんだ? 登れないのか? お前みたいに、いがぐりが頭に落ちてきただけで泣くような情けない奴だと、やっぱり怖がりなんじゃあ」


 焚きつけられた『チャン刈り』の少年は両手を強く握り締めると顔を紅潮させる。

「何度もバカ言うな。僕だって木登りくらいできるんだ」

 すると、坊主刈りの少年は自分が腰掛ける枝から立ち上がると、するすると枝伝いに降りてきて右手を差し伸べる。

「ほれ、ここまで登ってこい」

 憎たらしくて腹立たしい相手だったが、こうして掌を出されると『チャン刈り』の少年も素直に自分の手を伸ばして、しっかりと掴む。

「さぁ、その低い枝に左足を掛けるんじゃ。その後は右の枝じゃ」


 それからしばらくして、どうにか『チャン狩り』の少年は坊主刈りの彼が座る、栗の木の太い枝に辿り着いた。

 慣れない木登りと自分の背丈よりも高い場所に居る恐怖で、少年は手足を這わせながら恐る恐る幹の上を移動する。

 ようやく坊主刈りの少年に対峙した『チャン刈り』の彼は、震える手足を抑えるかのようにしっかりと周囲の小枝を掴みながら相手を見据える。

「僕もここにきたぞ。神様の名を騙るお前に負けたわけじゃないんだ」

 だが、相手は余裕の笑みで木の幹を叩く。

「ほれ、俺の隣に座るんじゃ。ここじゃ」

 訝しげに言われるがまま、少年は栗の木の枝に腰を下ろす。

「これがどうしたんだ?」

「いいからまわりを見てみろ。どうじゃ?」



『チャン刈り』の少年は周囲に視線を配った。

 そこで初めて見る光景に唖然とする。

 自分の背丈と同じくらいの稲穂が育つ田畑を優に超えた目線。

 小高い丘の街道から見るよりも遥かに小さな家々。

 言わば、それはまるで箱庭であった。

 山々に囲まれた村の里にある建造物ひとつひとつを見れば、それを為す個々が手の中に納まる小さな模型のようである。

 対して村の全体を見回すと、自分の背丈の目線からは到底知れない里を俯瞰した風景が眼前に広がる。

 だが、人の姿はまるでない。

 皆、村での言い付けを守り自宅で葬儀の時間が過ぎるのを待っていた。

 西を向けば、村全体を照らしつつも裾野に消えようとしていた太陽が、先程と同じくまだその姿の一部を覗かせていた。


 彼は目を大きく見開くと、瞳を輝かせる。

「すごい、里が見渡せる。しかも誰も里を歩いてない。すごいな。いや、ホントにすごいよ」

「お前『すごい』しか言ってねぇぞ」

「だってすごいんだもん。しかたないだろ」


 しばし周囲の景色に圧倒された彼は、改めて隣の坊主刈りの少年を見る。


「お前はホントに栗の木の神様なのか?」

「そうじゃ。俺は神様じゃ。里の連中は誰もこの景色を知らねぇ」

「でもこの栗の木に登ったら、いつでも同じ景色を見れないのか?」

「今日は葬式の日じゃ。村の者は誰の姿もねぇ。だから誰も俺がここにいることを見止めねぇ。それこそが神様の理由にはならねぇか?」

「人に見られなかったら、誰でも神様になれるのか? だったら僕も神様なのか?」

「お前も俺も、他の大人には誰にも気づかれてねぇ。それだけで理由は充分じゃ」


 木の枝から下ろした両足をぶらぶらさせながら、坊主刈りの少年は『チャン刈り』の子に問い掛けた。

「たしか今日の里は、お前の家が葬式だったな?」

「そうだ」

「お前は家で葬式をしてて辛かったか? 苦しかったか?」

「よくわからない。僕も初めてだから、わからない」

「でもお前は最初に会った時、しょぼくれてたな」

「なんせ僕も葬式が初めてだったから、すごく困った。周りの大人はみんな落ち込んでる。どんな顔してていいのかわからなかった」

「そんなの気にするな。お前の顔色を気にしてた大人はいたか?」

「僕のことを誰も気にしてなかった。声を掛けても相手にもされなかった」

「だろ? 大人みたいに細かいことばっかり気にしてちゃいけねぇ」

 坊主刈りの自称神様は乳歯が何本も抜けた可笑しな笑顔を浮かべる。

「俺とお前はこの景色を見れた。それだけで里の神様である証拠じゃ」


 それを受けて『チャン刈り』の少年は改めて栗の木から里を見下ろす。

 いよいよ山肌にその姿を消そうという西日に照らされて目を細めるが、眩しくて眉間にしわを寄せている訳でも無い。ただ眼前の光景が見られて嬉しいという素直な彼の反応であった。

「ここが僕の里だったのか」

「そうじゃ。どうだ、お前の里は美しいだろ?」

「あぁ、きれいだ」


 それからもしばらくは栗の木から里を見下ろしていた二人だったが、やがて坊主刈りの少年は村のはずれに視線を向けた。

 寺の隣にある焼き場から故人を荼毘に付した葬送の列が帰ってくる。

「もう、お前んちの葬式のことは忘れられそうか?」

 その問いに『チャン刈り』の少年はうなずく。

「うん、だいじょうぶだ」

「これから大変なことがたくさんあるだろうが、気張れるか?」

「この景色を見たらなんとか頑張れそうだ」


 隣の彼の言葉を聞いた坊主刈りの少年はとびきりの笑顔を向けて肩を叩く。

「そろそろ俺もお別れじゃあ。お前もこれから何があっても頑張れよ」

「わかった。僕も陽が落ちる前に行かなきゃ」

「それじゃあな」


 すると『チャン刈り』の少年の姿は西日に晒されていたのとは異なる淡い光が全身を包んでいくと、みるみる薄らいでいく。

 やがてシャボン玉のような七色の泡となって上空へと昇っていた。

 それを見送った坊主刈りの少年は、空に向けて手を振る。

「気をつけてけよ」




「こりゃ、惣太そうた! なにをしてるんじゃ!」

 突然に声を掛けられた坊主刈りの少年は木の下を確認する。

 見ればそこには彼の母親が偉い剣幕で立っていた。

「お前、今日は村の庄屋さんのせがれの葬式じゃ! 尚更静かにしてねばならねぇのに何で栗の木に登ってるんじゃ!」

 慌てて木枝に順に手足を這わせながら、彼はある程度の高さになってから丘の上に飛び降りた。

 そこを待っていたとばかりに、母親は息子の頭に握り拳を振り下ろす。

「いってぇな! 俺は神様ごっこをしてたんじゃ!」

「そうやって毎度バカなことを言って、何を考えてるんじゃ」

「神様と一緒に神様ごっこをしたんじゃ!」

「わかったわかった。早く家に帰るぞ」

 まるで引っ張られるように手を引かれた少年は、せわしなく足を運ぶと母の後についていく。


「なぁ、おっかぁ。俺、ホントに神様を見たんじゃあ」

「そうか。以前もそんな妙な事を言っとったな。大層なことじゃ」

「おっかぁは人が死んだら、みんな神様になると思うか?」

 村の殯の最中に向けられた息子からの奇妙な発言に、母は怪訝そうにしている。

 里での忌み事なら余計ないざこざは避けるべき。それは大人の誰もが暗黙のうちに承知していることであった。それがたとえ家族の語らいであったとしても。

「死人がみんな神様や仏様になったら、この世はありがたい物だらけじゃ。そんな事を信じている大人はおらん」

「なんじゃあ、それ。ホントなのにな……」


 母親に手を引かれながらも、丘を下る道の反対側にある庄屋の家に視線を向ける。

 亡くなったのはその家の息子だと言う。

 息子は自分よりも歳は少し下。

 金持ちの庄屋らしくハイカラな服を着た大人しい子だった。

 自分は一緒に遊んだことはないが弟や妹のそばに居たのは憶えている。

「あいつはちゃんと雲の上に行けたかのぅ。天の国に行けたかのぅ。里で一番高い栗の木から登っていったから、道も迷わないじゃろ」


 すっかりと山裾に落ちた太陽が照らす黄昏の里の空を立ち昇る煮炊きの煙とともに惣太は上空を何度も見ていた。

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