真相究明:浄玻璃の鏡
犯人は、あの夜から一日を待たず逮捕された。
俺はすぐに瀬居町署に駈けだして、署にのこっていた霊野刑事に取り次ぎを願い出て、犯人である人物を伝えた。先刻失貌症と称して捜査に一切の協力もせず、幽鬼のような顔をしていた人間からの証言に、彼らは戸惑いと、また明確な不審を声に混ぜていたが、息せきかけてきた俺の必死な形相に刑事の勘が呼応したのだろうか、一応、俺が口にした犯人の身元を調べ始めた。
すると、どうだ。すぐに犯人みずから出頭したのだ。
出頭理由について、犯人は、
「警察が自分を捜査し始めたのが分かった。顔を見られたからには、もう言い逃れできないと思って出頭した」
と、述べたという。
「莫迦なやつだ。見た人間は失貌症だ。証言などあってないようなものなのに」
と、あざ笑ったというが、俺は背筋がぞくりとした。
あのとき、俺は犯人がこちらに気づいていないものだと思い込んでいたが、溶けた蝋人形のごとき肉塊は、頭をあげずともその目で、窓から覗いている俺を認識していたのである
ともすれば、口封じのために殺されていた可能性もあり、こうして五体満足に生活できている感謝を述べるため、俺は昼下がりの古小烏をのぼった。
古小烏は人家はすくなく、かわりに不思議と陶器を出している店が多い。歩きしなに携帯で調べてみると、元禄の頃、この地域で良質な粘土が採掘できたことから、目抜き通りの坂の両端に多くの窯元がならぶ職人街だったという。ここで作られた陶器は、炭泥層の土壌が作用して、焼き上がった黒い地肌がカラスの羽根のように紫色を帯びることから小烏焼きとして親しまれた。
戦災で多くの窯元が倒壊の憂き目に遭い、小烏焼きの灯火は消えかけたが、戦後ふたたび小烏焼きを再興しようと地元の有志が発起し、その機運に職人が乗る形で新たな小烏焼きの工場ができ、ふたたびこの丘陵地に窯と、そのえんえんと棚引く煙突の煙がたちのぼる土地となったという。――そんな古小烏の丘の天辺に、その窯の噴煙をすべて一身に吸い上げたような黒い邸がある。
ステインで磨き上げられた木造建築は、アーチ型の窓枠や日本建築に見られないバルコニーを備えながらも、その風格は厳粛として古き日本を感じされるような、大正のモダニズムをのこした荘厳な二階建ての居館であった。
館内は、来客に胸をひらいて迎えるかのように、玄関ホールに堂々と階段が坐しているが、この館の主人は二階を使わず、またこの館に主人以外、住人はいない。
一階は左翼右翼ともに正対称で、居館というより古い迎賓館の趣きがある。わが美しき骸骨は、その一階の右翼、どんずまりにある樫の扉の奥にある八角形の洋室で起居していた。
「やあ、はくびょう」
と、俺は美しき骸骨を呼んだ。
もう午後二時過ぎだというのに、はくびょうはいまだ天蓋付きのベッドで惰眠を貪っている。部屋に四つあるカーテンを順に開いていくと、西日の片鱗をおびた薄いセピア色の日差しが、ベッド脇に置かれた車椅子に昼を告げ、シーツに埋もれた艶やかな白い頭頂部を照らしだした。
やがて地表を見上げるモグラのように、はくびょうは顔をのぞかせた。
「それはなんだ?」
「それとは?」
「その変な名前」
「君の名前だよ、はくびょう」
「僕の?」
「君は何度きいても名前を教えてくれなかっただろう。だから『白い病』をもじって白病と名付けてみたんだ」
この館の門柱に表札が工具で無理矢理剥がされた痕があった。はくびょうはどうやら自らの名前を俺だけではなく、世間からも隠したいらしい。そこまで拒絶するならば、俺もふたたび尋ねることに気兼ねして、それならばと考えついたのが、この『はくびょう』という愛称であった。
「イマイチだな」
「君の『ふうがん』よりマシだろう」
対して、はくびょうは俺をふうがんと呼んだ。名前の風岸をもじったのだろうと思っていたが、名の由来を聞くに寄れば、性感染症である
「それで?」
花柄のシーツから、はくびょうは不機嫌そうに眼窩をのぞかせる。
「それでとは?」
「何の用だ。僕は夜型のロングスリーパーなんだ。一日十六時間寝ないと気が済まない」
「まるでコワラだ」
「そのコワラの棲み家に我が物顔で押し入って、君はどうするつもりだね?」
「まだ詳しく聞いていない。事件の詳細も、ましてどうして犯人があの人物なのか」
「一応の説明はしたはずだけど?」
「納得はしている。でも理解出来たかといえば難しい。そもそも何故、鏡をみた人間が、人の形をなしていくのか、その説明から頼む」
俺は近くにあった洋椅子をベッドの脇に引き寄せると、そこに腰をおろした。はくびょうも溜め息をひとつついて上半身を起こした。
「君の『溶貌症』だが、年越しの事故とやらで昏倒したのが原因だろう。ふうがん、君はおそらくそのとき、MRIでも見つからないほどの小さな傷が大脳底部の紡錘状回中部についた。その損傷でまず失貌症のような症状が出た筈だ。だが、おそらく、その失われた機能を、別の脳が補った。――支配したと言い換えても良い」
「そんなことが、出来るのか」
「君は幻肢痛を知っているか?」
「失われた四肢が痛むというアレか」
「では、欠損した部位を撫でられることもご存じかな?」
欠損してなくなった四肢を撫でるなど、幽霊の脛を蹴り上げるようなものである。まず有り得ないと斬ってるようなものだが、それが可能だという。
「脳というのは、使われなくなった箇所を、そのまま放置しない。シナプスに情報という生体電気の行き来がなくなったのを知ると、その領域は隣接する脳領域が借り受ける。たとえば、右脚が欠損し、右手の運動を担う筈だった脳領域が活動をしないと、そこに隣接する右膝の脳領域がその部分を緩やかに補い始める。それは完全なものではなく、ひどくいびつだが、欠落した機能を補おうとして知覚を共有する。
だから右脚に幻肢痛が襲われたとき、右脚の脳領域をおぎなっていた右膝をなでさすると、不思議とその人物は右脚をなでさすられたように感じる。――このような脳の補助的作用が、君の紡錘状回中部で起きたのだよ。君は人間の顔を『人相』として統括的に認識し、記憶する能力を失った。そしてとある脳機能がそれを補った」
「とある脳機能?」
「同じ紡錘状回に属している、人間の表情の意図を読み取る機能だ。その脳領域が、君の欠損されて使われなくなった脳領域を支配し、過剰に活動し始めた。――つまるところ、君は他人の表情を、他人により異常なまでに理解した。そして君はひとの感情や認知、自意識、まして妄想にいたるまで、その表情や仕草から正確に、そして過剰なまでに読み取り、予測して、それを脳に投影した」
「それで貌が溶ける?」
「視覚情報のオーバードーズだよ」
過剰摂取による嘔吐とは言い得て妙だ。膨大な視覚情報を読み取りながらも、詰め込まれたものを消化することができず、ありのまま認知に投影したとき、世界は吐瀉物のように混在したものとして現れたのだという。
「だが、それなら他人が鏡をみたとき、俺の認知機能は回復するんだ?」
「逆だよ、ふうがん。君の認知能力が正常に戻ったのではなく、鏡をみた人物が自分の姿形を正しく認知したんだ。君の霊能力じみた過剰な脳は『他人が認知している自己』を、ありのまま、姿として映している傾向がある」
「あの姿が認知している自己像だと?」
「みな、自分の姿を正しくとらえている訳じゃない。その証拠に、いまから鏡を見ずに自分の姿を描けるだろうか? 絵心はなくとも模写ぐらいは出来るはずだが、それで果たして、どれぐらいの人間が正確に書き写せる? おそらく十人に一人もいまい。そして絵をかくという意識しているレベルでそれほどまで稚拙ならば、自分の形を意識していない人間が、視覚情報に頼らず、無意識下で感知している自己像は、おそらく、海にただようクラゲのように、まったく形を為し得ていない。――その崩壊を一時的とはいえ食い止めるのは、ふたたび自分の自己像を確固なまでに認識する必要がある」
「それが鏡」
「そうだ。鏡によって自己像が再構成された人間は、君の『認知』を映し出す目にもまた、正確な形として映る。服飾関係の店や、トイレ、あとは夜闇に反射して鏡のように見渡せるガラスなんかで、自分をみたとき、君の目には、自己を正しく形としてとらえた人たちが、肉塊ではなく、とけていく蝋人形のように見えてきた。
あの夜、スタバで計ったのは、その持続時間だ。あの店のトイレは洗面所のほかに、ドアの内側に鏡があってね、出ていくとき、必ず自分の姿を確認することになる。だから実験には絶好のスポットだった。ひとがどれくらいの速度で、自分の姿形を認知の外へと忘却していくか、その時間を計っていた。――およそ三分から四分。それが答えだった」
答えとはつまり、一題公職を殺害した人物である。
はくびょうは、俺の奇病を通して発見した犯人に到る道筋を、こんこんと話し始めた。
「この事件は目撃者が君であったために、事件は有耶無耶になったように思えたが、しかしながら君の奇病によって、また発覚したといえるものだ。犯人は一題邸の浴槽に押し入り、窓からホテルを覗いていた公職氏を風呂場へと引き摺り混んで、理髪用のひげ剃りで彼の首をかっきった。その凶器となる理髪用のひげ剃りは、いつも洗面台のミラーキャビネットの中に牛革のケースと一緒に収められていた。つまり犯人は、かならずキャビネットを開き、あるいは閉じるとき、みずからの顔を見ることになる」
「だが俺が見た犯人は溶けていた」
「だから犯人は、鏡を見ることなく、ミラーキャビネットから理髪用のひげ剃りを持ち出せた人物であり、キャビネットを開いた一題六職と一題関職には無理だ」
「だとすれば、残るのは一題華職か」
はくびょうは頷く。
「彼女が洗面所に入ったとき、ミラーキャビネットは一題六職によって開け放たれて、そこから探していたアイライナーを見つけたと証言している」
「だが、犯人として指名したのは別人じゃないか!」
叫喚めいた声をあげると、はくびょうはクツクツとわらう。
「そうとも。なぜなら彼女は鏡を見ていたからね」
「だが、ミラーキャビネットは見てないと」
「だが彼女は化粧の途中だった」
「あ!」
アイライナーは目蓋の線を入れる化粧だと記憶している。おおかた、それは他のアイメイクをしたあとの仕上げで使うものだ。つまり華職はアイライナーを探す前、自分の手鏡で顔を見ていた。
そう、容疑者であった三人のうち、長男の一題六職、長女の一題華職、そして次男の一題関職は犯人には該当しない。だが、ひとり、関係者のうち、長男の一題六職がキャビネットをあけ、長女の一題華職が閉じる間に、浴槽に忍び込み、殺害できた人物がいた。
「それで・・・・・・店長。蔵本永大」
「そう、君が勤めていたラブホテルの店長だ。彼は君を休憩に向かわせ、いつものように裏庭にいることを確認すると、一題家にしのびこみ、入浴を見はからって、首を切り裂いた。そしてその姿を君に見られた」
「だが、外部犯の可能性もあったはずだ」
「いっただろう、ふうがん。この事件は君の奇病によって犯人が特定されたんだ」
「俺の病気で?」
「いいかい。一題公職は浴槽の窓からホテルを覗いていた。だが、その窓には格子があった。にも拘わらず、双眼鏡はその格子から外に落ちている。ふつう、浴槽に引き摺りこまれたとすれば、双眼鏡は浴槽側におちるか、あるいは鎹のようなコの字型の格子に受け止められて、外に落ちることはまずない。
だが、双眼鏡は格子の外に落ちていた。――とするならば、双眼鏡はわざわざ犯人の手によって、格子と平行に傾けて、わざと外に落とす必要がある」
「だが、目撃されたところで顔はおろか、服や輪郭もみえない」
「・・・・・・君は本当の病を蔵本にいったか?」
はっとした。
そうだ。蔵本にもまた、失貌症としか伝えていない。
「失貌症は顔の判別はできなくとも、服装は記憶できる。だから蔵本はおそらく、容疑者として挙がった三人のうち、そのひとりと見紛う格好をしていたんだろう。しかし、君はそれすら混在してわからず、証言をしなかった。蔵本にはそれが、奇妙に映った。
おそらく彼はそのあと、あらためて失貌症について調べたんだ。そして失貌症の人間が顔を覚えられずとも、その顔のパーツは個々に記憶できたことを知って、愕然としたはずだ」
「――モンタージュか」
「君の証言でかかれたモンタージュは、けっして君は認識出来ないが、かわりに刑事たちはそれが誰の顔か判別出来る。そんな疑念に襲われていたとき、君の新たな証言で刑事たちが蔵本の周囲を探り出したため、蔵本は観念してしまったというわけさ」
失貌症と騙っていた俺でさえ知らなかったのだ。彼もまた、はくびょうの如く、神経症の知識など持ち合わせてなかったのだろう。白を切り通せばよいところを、彼はみずから自白する形となってしまったとは――。
「なるほど、ようやく合点がいったよ」
「ならもう今日のところは良いだろう、さあ、僕に再び惰眠を貪らせてくれたまえよ」
「いや、あとひとつ」
「まだあるのかい?」
シーツをかぶってすぐにでも寝ようとするはくびょうは、心底嫌そうな声をあげる。
「最後のひとつだよ。――君はなんで、俺を館に招いたんだ」
事実、これは俺が押し掛けたのではない。
事件の後、はくびょうは態々自分の邸宅を案内し、また俺さえよければ、ルームシェアをしないかと持ち掛けてきたのである。介助の手が足りないという訳ではないのだろう。はくびょうはその夜、館を縦横無尽に行き来して、来客である俺を接待さえしてくれた。
「洗脳治療を辞めたのさ」
「洗脳?」
「『電気椅子』のことさ」
はくびょうはコタール妄想を癒やすため、診療科で服薬とカウンセリング、そして脳にはりつけた電極から電流をながすことで、沈黙した脳の該当箇所を再び甦らせる、いわば脳の心臓マッサージなるものを受けている。――はくびょうは、それを断念したという。「なぜに?」
「簡単なことだ。もっと簡便に脳髄にパルスを流す方法を思いついたからだよ」
眼球などないはずの二つの洞から、嬉嬉とした印象が放たれている。いや、実際はそこに確かに眼球があり、そこからおそらく、満々たる好奇な光が放射されているのだ。
「それは?」
「事件だよ。ふうがん。この死に絶えた脳細胞に霊妙なる閃きが与えられたとき、僕は始めて人間の肉体を取り戻せる。――そこには君が必要だよ」
「俺が?」
「無論。僕はコアラを凌ぐロングスリーパーであり、出不精だ。その点、君は他人が蝋のように溶けても尚、社会にすがつこうと世俗で涙ぐましい努力をつづける若人。ましてや他人の認知や認識、妄想までその『風眼』は見て取れる。ならば、必ずや君には、思いがけぬ災難や不幸、更にはそれを凌ぐ妄念や殺意に行き逢うだろう。いわば歩く悪意と妄念の誘蛾灯。それを喰らう僕はコウモリだ」
ケケケケケと、まさに骸骨らしき怪奇な笑い声をあげる。
「なに、僕のことは用心棒だと思い給えよ。それにこんな洋館、そうそう棲めるものじゃないぜ」
「そう、かもしれないな」
そういって俺がベッドの近くの窓を開けたときだった。
はくびょうの言に呼応するように、一陣の風が邸に吹き込んだ。
俺たちがいる右翼の寝室から、風圧で扉を叩きあけ、おおきな掌が館の中を一斉になでるように、邸全体を大きく鳴動させる。ともすれば怖れを覚えるようなけたたましいざわめきであったが、お互いに黙りこくって大家鳴りを聞いていた俺とはくびょうは、それが止むと目配せをして、とたんに破顔した。
その風は、怪しげな気配を一切感じさせない清廉なひと旋毛だった。
まるでこの怪奇邸までもが、新参者の俺を歓迎しているような気分になり、俺ははくびょうの手を握った。
「それでは宜しく頼むよ」
はくびょうは真っ白な枝のような指先で握り返し、俺達の新生活が始まったのだった。
失恋とそれにまつわる12の殺人 織部泰助 @oribe-taisuke
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