脳髄探偵

世に不思議なことは数多ある。そのひとつに自分の奇病も属するからこそ、大抵のことは驚かないつもりだったが、さすがに骸骨の食事を拝見するとなると、死んだように沈黙した驚愕の蟲も、夏虫のごとく一斉に騒ぎ出した。


「なにひとつ食べないよ。死んでいるからね」


 当初、そうムキになって固辞してみせた。


 そんな白骨死体に、店員が気安く話し掛けていたところをみるに、やはりかれ、或いは彼女も、埋葬された墓地から這い出てきたリビングデッドの類いではなく、俺の奇病によって、歪み見えている一形態に過ぎないことが伺い知れる。


 だとすると、死した人間と称する美しき白骨も、実存する形は人間とおなじ形態なのだろう。頑なに拒否する白骨をしりめに、こちらの独断でスキムミルクとシナモンロールを頼み、自分の注文品とあわせて会計をした。美しき白骨はひどく憤然としながらも、介助の手も借りることなく、慣れた様子でテーブル席の向かいのソファーに移りかわった。


「食べないのかい」

「食べたところでどうなるというのだ。すくったケーキの切れ端も、下顎の隙間から落ちていくだけだ」


「それは是非拝見したいな」

 俺はシナモンロールをフォークで小さく切り分け、整った白い歯列の横一文字に、ついっと押し付けた。面白いことに、シナモンロールの切れ端は、歯の少し手前で不可視の柔らかい弾力によって押し返された。どうやらそこに唇があり、矢張り不可視の肉体があるらしい。


 美しき白骨は、厚みのある透明な贅肉の膜に覆われていた。奇態な身体の持ち主は、最初こそきつく噛み締めた上下の歯を開ける素振りもみせなかったが、強情相手に強情を通したところで埒があかないと思い到ったのだろう。紙ナプキンを膝にひろげた。


「分かったから、しばしまて」


 俺のぶんも含めて二枚、大腿骨にふわりとのせると、フォークの先のスイーツをほおばった。ついと鼻先をあげて、睨んでいるのは分かった。無論、鼻はなく、そこには三角形の小さな凹みがあるのみだ。そして美しき白骨は憤然という。


「ほらみろ、汚らしく落ちただろう」


 咀嚼されたシナモンロールは、下顎からこぼれ落ち、膝の紙ナプキンに落ちていく――ことなどなく、丸呑みのような形で、消失した。まとった透明な贅肉のように、またうつい肋骨のあいだに、たしかに消化器官があるのだろう。それをかれ、或いは彼女は一切認めず、落ちてもない紙ナプキンを汚らしく見下ろしている。


「ほら、みろ」

「見ろといっても、そこにはなにも」

「いいから、みろ」


 するとどういう原理であろうか、忽然とそこに与えたシナモンロールの切れッ端が、胃液に溶かされたようにドロドロとした内容物となって、紙ナプキンの上に広がりだしたのだ。


「ほれ、もうひとかじり」

 美しき白骨がフォークをもってシナモンロールを放りこむ。咀嚼する素振りこそすれど、次の瞬間には、ナプキンの上に粥状のスイーツが小さな丘をなした。


 忽然と胃の内容物が現出する光景に目を見張るが、その一方で猛烈な違和感がある。粥状のドロドロとした咀嚼物が付着しているというのに、下に引かれたナプキンが一切水を含んで変色しない。本来ならば、内容物のまわりを輻射状に浸透する水分がうす褐色のナプキンを染め抜くというのに、一切その気配がなく、不審に思って指先でさわると、投影された映像に触れたように、何の感触もなく突き抜けた。


「どういう原理だい」

「それを語るには、少々、自分語りをしなければならない」


 わざとらしく、気が進まないのだと、下顎をついっと斜め上にあげてみせる。顔面を覆う血や肉、表情筋もないというのに、この奇怪な御仁は感情豊かに思える。俺が是非にと促すと、しぶしぶという風を装い、みずからの病について語り始めた。


「端的にいうと、僕は生きる屍だ」

「生きる、屍?」


「世にいうリビングデット、あるいはゾンビだ。肉が腐れ、知能はおとり、徘徊する亡者。僕はつまりソレなのだが、幸か不幸か、知性だけ保たれたまま、腐れ落ちて骨と化した、一風変わったゾンビなのだよ」


 ぞぞぞとスキムミルクを飲む。これもまた忽然と膝下に現れて、たらたらと脚へソ

ファーへと垂れ落ちていくが、まったく染み渡っていく様子はない。


「あるいは脳髄だけが、どこか別の場所に保管されて、感覚から切り離された肉体が腐敗して骨だけ残った。だが知性は残って仕方なく、骨の身体を動かしているのようなもの」


「まるでSFだな」

「実にその通りなのだよ。しかし、精神病理はこの一種の奇跡に、無粋な名称をつけてくれた。――コタール症。或いはコタール妄想。どうだ。天上の神様のミステイクが、なんだか煙草を煮詰めて抽出されるタールのような、粘性を帯びた黒い液体を彷彿とさせる不快な名前だろう。だが、これは精神科医の名前らしいから、これ以上悪く言うのは忍びない。だから個人的には『白い病』と呼んでいる」


「カレル・チャペック?」

「奇跡の名前を他人から拝借するのなら、医者より作家を選びたい」


 ふたりは顔を付き合わせて話している。

 外は数匹のコウモリが、店の蛍光盤にあつまる飛来虫めがけて掠め飛んでいた。


「コタール症か。寡聞に知らないな」

「不老不死妄想者が増えても困るだろう」


「じつに同情する」

「といいながら、なにやら面白そうな顔をしているが?」


「これは失礼」

 こらえようとしたが、どうも苦笑を禁じ得なかった。

「いや、なに、少しばかり奇妙だなと思って」


「生きる屍が奇怪じゃない訳がない」

「いや、それじゃない。ただ君の言説が事実だとすれば、俺は君の『妄想』を正しくとらえていることになる」


「信じがたい?」

「信用を美徳としない性質でね」


「同感だ。信用とはつまり思考の放棄にすぎない――。そうだな、たとえば君よ、テーブルに触れてくれないか」


「ふむ。さわった」

「ざらついた木目の感覚、わかるかい」


 俺はこくりとうなずく。間伐材で組まれたヒノキのテーブルは、指の腹に荒々しい木目を伝えてくる。美しき白骨は、それをみて、頷いてみせる。


「では、テーブルに触れた指は、その感触を脳に伝えているね」

「無論、そうだ。知覚器官が脳に刺激をおくって、触れていることを理解する。中学生の生物で習うような簡単な仕組みだ」


「それ、変だと思わなかったかい?」


「え?」

「つまり脳は知覚するまで、その刺激の正体を知らないわけだ。知覚が脳に情報を伝えるまで、コンマ0秒。つまり世界と自己認識にはコンマ0秒のラグがあることになる。僕らは生きている限り、コンマ0秒だけ過去を生きている。――だが、脳はそれを許さない」


 中性的で、銀鈴を振るうような透き通る声は、次第に沼に引き摺り混むような凄味を帯びていた。


「君の年齢は二十歳だがが、一度や二度、ボンヤリとしていたために、あるはずのない階段をあるとおもって、はっとおどろいて転びそうになったことはあるだろう」


「最近も体験したよ。存在しない段差があると思い込んで、宙を踏むような足運びになったんだ」

「そう、そこなんだよ。そこが肝なんだ」


 骨同士を連結する筋繊維もない指先が、イソギンチャクのようにゆらゆらと揺れる。


「僕らが階段で脚を踏み外すのは、階段を踏む前に階段がどういう高さで、どういう材質のものを踏むか、脳が予測して身体を動かしているからだ。つまるところ、脳みそというのは、知覚する前に予測している」


 そういって机を指先で撫でる。


「脳というのは、刺激を近くして現実を捉えているのではなく、予想した世界と知覚した世界をすりあわせて現実を解している。つまりだね、脳は実感を得る前の、そのコンマ0秒間だけ、妄想の世界で生きている。それを連綿と断続的に続けている。――ああ、そうさ。脳とは畢竟、妄想器官なのさ」


「妄想、器官」

「そして僕らの、この脳というこの妄想器官は、ほかの人間よりちょとばかし誤作動を起こして、知覚した世界と予想した世界のすりあわせを間違って、知覚した世界に重きをおいてしまう。僕が生きる屍を自負しているように。君がひとが溶けて見えるように――」


「つまり俺が見ている世界は、俺が予測している世界の風景なのか」


「そして君の予想は、他人より過剰すぎたんだ。――さて、ここからがこの喫茶店にきた理由だが、その過剰さを計るために来たのだよ」


「なんだって?」


「きみ、じつは顔が溶けていない人間を、たまに見ることがないかい?」

 俺は、ぽかんと口をあけた。

「・・・・・・よく分かったな」


「だが、長くは続かない。そうだろう? 一瞬、顔かたちが確かでも、次第に溶けてしまう」

「まさにそうだ。時折だが、人の形をなしている人物がいる」


 まるで不意に出た涙で厚みを増した瞳が、近眼の目に鮮明な世界をみせるような現象であったから、どうも確信がもてないでいたのだが、それを病状すら知らなかった白骨の探偵は解き明かす。


「その人物は、服飾を扱う店やトイレから出てきたひと、或いは夜、ガラス張りの店を行き来する人などに、その兆候が現れなかったかい?」

「そうだ。まさにそうだ!」


「ならば僕はおそらく、その瞬間を予言できるとおもう」

「本当か」


「さきほど女性がトイレに入った。ボブショートで明るめの茶髪。ライトグレーのパンツスーツで身長は一六五センチほどだが、パンプスを履いていたから、一七〇を見積もって良い。――そろそろ出てくるはずだ」


 美しき骸骨が言った通り、内からスライドドアがひらき、女性用のトイレからひとり、姿を現した。普段ならば顔と服との輪郭もなく、色が混在した粘性のひとかたまりだが、今回ばかりは、女性のまるい顔に輪郭がのこり、その茶髪の髪先と頬にキッチリとした区別がつく。しかし、それも彼女が席に着く頃には、蜂蜜が縁から垂れるように、段々と輪郭をぼやかしていく。溶解の兆候だ。


「ダメだ。見続けるんだ。せめて顔の識別が出来なくなるまで」

 目を逸らそうとした俺に、美しき骸骨は釘を刺す。どうやら時間を計っているようで、骨の右手には携帯がタイマーとして活用されていた。


 美しき骸骨はこれを数人試した。トイレから出てくる客を確認させ、溶けるまでの時間を計る。驚くべきことに、トイレから出てきたその全てが人間として成形されており、時間が経つと熱に溶けていく蝋人形のように、たらたらと溶解して蝋溜まりとなった。


「――三分二十秒。さっきの被験者たちも大方同様の数値だ。つまり、彼らは三分から四分のあいだ、その人としての輪郭を保てるわけだ」


 熟考の末に導き出した答えが実験で立証された研究者のように、美しき白骨は、しきりに首を縦にふった。


「これで二つのことが分かったよ」

「ふたつ?」

「ひとつ。君はやはり紡錘状回の一部を損傷していること。そしてもうひとつは――」


 骸骨は嗤った。

 表情を表す血肉もないのに、それが酷く狡猾な捕食者のように見えた。



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