白皙の卓越した洞察
かれ、或いは彼女という言い回しは、畢竟、このためだ。
車椅子の人物は、月光に照らされて青々とかがやく白砂のような、美しい白骨だったのだ。重ねた手は雪花石膏のように艶やかで、吐息は甘い白檀のようだった。おお、このようなことがあって良いものだろうか!
命枯れて形を成した一題公職の屍骸をみて、醜悪きわまる人語を解した溶解人間としか会話ができないものかと嘆き悲しんでいたのだ。咄嗟に全ての人間を殺し尽くして、正しい姿に戻すのが自分の役目ではないかと嘯く影があったのも事実だ。
そう、俺は死体としか目を合わせられない。
そう嘆き、それを認めたくない故に善行をふるった。顔も判別できないのに目撃者に挙手して、車椅子にのった彼、或いは彼女を、バスの乗車に間に合わせようとしたのだ!
ああ、しかし、これはコロンブスの卵的発想じゃあないだろうか。
つまるところ、生きている死体と話すことが出来れば、俺はようやく、ひとがひとたるを得る社会性を再習得して、また心地よいコミュニケーションの輪に戻れるのだ。
「――分かるかい? 俺のオンリーワン!」
「その前に説明すべき事があると思うんだけどね」
かれ、或いは彼女は、美しい頸椎をまげて、嗚呼、まさに今生の生きとし生けるものの中でもっとも優美で愛嬌のある仕草をしてみせた。感涙!
「君のためなら、何でも説明しよう。俺の名前は
「ついでに刑法も跨いでいるようだが?」
「まさか。法廷遵守は俺のポリシーだ」
「じゃあ、今のこれは?」
「はてな。妙なことを言う」
俺もかれ、或いは彼女に習って首を傾げてみせた。
「デートだが?」
補助軸を掴みながら、俺は軽やかに坂道をおりていく。先刻まで野放図に歩いていたこともあって、坂から左に曲がって程なくするとスターバックスがある。カフェインを嗜みながら、シナモンロールに舌鼓を打ち、店がクローズになるまでお互いの話しをするには格好の場所じゃないか。
「承諾もなく連れ去るのは誘拐というんだ。ひとつ学んだな」
「君と出会って様々なことを教わっている。さっきは恋を学んだ。つぎは愛について語りたい」
「それなら役所だ。そのまま右にまがってくれ」
「素晴らしい。もう将来を見据えてくれたのか!」
「勿論さ、ハニー。人間誰でもやり直すことは可能だ」
「へえ、見えてきた。しかし、君、あれは警察署だぜ。しかも瀬居町署だ」
なんということだろう。漫然と歩いていた俺は、森に遭難していた人間が元の場所に戻ってくるかのごとく、単に周囲をそぞろ歩いてただけらしい。
「請け負うよ。君に必要なものが、あそこにある」
「しかし、ダーリン。警察署に戸籍係はない思う。婚約届が欲しいなら市町村の役所かゼクシィを買うべきだ。現に数時間前まで、俺はあそこにいた」
「ははん、前科一犯か」
「まさか。ただ、ちょっと殺人事件を少々」
「殺人」
かれ、或いは彼女は座席の上でぐるりと上半身をねじまげて、底の見えない沼みたいに黒い双眸で見上げた。
「面白そうだな。未解決か?」
「残念ながらそうだ。唯一の目撃者が無能でね」
「それは違う」
かれ、或いは彼女は楕円型の卵のような頭を揺する。
「目撃者は必ず有益な情報を持っている。有用か無用かを問われるのは、捜査する側のほうだ」
「至言だな。だが今回ばかりは刑事も白旗を振るしかなかった」
「なぜ」
「その男は失貌症だった」
「それこそ馬鹿馬鹿しい。失貌症は顔を記憶できる」
「そうなのか?」
「失貌症。正式には相貌失認症というが、これは大脳底部の、
「だから顔の区別がつかない?」
「だから顔のパーツの記憶はたしかにある」
美しき白皙の骨がいう。
「相貌失認症の人間は、人相が判別できないだけで、どこに目があり、どんな鼻だったかは記憶されている。それをひとかたまりの情報として抽象的に記憶できないだけなんだ。だからモンタージュは描ける。つまりだね、もしもその目撃者が失貌症を理由に証言をしないのであれば、それは出来ないのではなく、したくないんだよ」
かれこれ発病してから一箇月あまり、この詐病を告げることで無用な同情を多く賜ったが、これ程まで易々と嘘が暴かれたのは初めてだった。ましてや、蕾が春の訪れを知って花開くような爽快さをもたらされるとは――。
「実のところ、それは俺のことなんだ」
「なに?」
「といっても証言に嘘はない。嘘をついたのは病気のほうでね」
それから俺は本当の病状を語った。病人というのは、こと自分の症状は針小棒大に騙りたがるものだが、この美しき白骨の診察をまえにして、俺は無用な尾ひれは避けるように努めた。
それが功を奏したのだろう。聞きながら重ね合わせていた両掌を、それはくねくねと動かした。ヒモを縒り合わせるような動きが、しだいにたぐるような手つきになり、やがてふたたび静かに合掌された。
「君は以前、事故か何かで、頭部をぶつけた経験があるだろう?」
千里眼で見通したかのような断乎たる口ぶりだった。事実、大晦日から元旦にかけて、少々込み入った事故、もしくは事件とも呼べるものに行き逢ったのだが、そのとき、側頭部を殴打されて一時昏倒していた。俺もそれがおそらくこの幻視の原因だろうとは予測していたが、MRIの結果、脳に出血はなく、その傷口さえ頭髪にかくれて、外傷をみることすら出来るはずもない。
「なぜ分かったんだい?」
「それが仮説の第一歩だからさ。しかし、君が実際問題、他人が顔や服の区別なく溶け出してみえることや、にもかかわらず、死した人間は平生かわらない形をなして、また、僕のように『白い病』に疾患した人間を、その正しい姿のまま、視認できるというところからして、なるほど、面白いと思ったのだよ」
「面白い?」
「こっちにいこう。道すがらに事件について聞かせてくれよ」
「いいのか?」
「なにをいう。君から誘ったのだろう」
白々と細い指先がさしたのは、日付が変わるというのに、いまだ煌々と軒を照らしているスターバックスの看板だった。
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