古小烏での出逢い
どこをどう歩いたのだろう。
気づけば、小雨に降られて、濡れそぼっていた。
夜も更けるというのに、足取りは家路を目指さず、針路を失った帆船のようにそぞろあるくに任せて行き着いた先は、ゆるやかな坂がのびる丘陵地だった。
明滅する信号にぶら下がった標識は、そこが『古小烏《ふるこがらす』という土地であるという。カラスと銘打つだけあって、坂の上は樹木がしげり、めいめい蟲やそれを喰らう鳥の鳴き声がする。
見上げれば、彼方の坂の途中に、小さなバス停が最後にくるバスを待つように、庇の下から雪洞のような仄かな電灯を灯していた。
からり、からりと。
そこを目指して登っていくひとつの影がある。
車軸は緩やかにまわる。フードを被った車椅子の人物はバス停の方にむかっていく。電動車椅子のようで、速度は鈍重きわまりなく、折り悪く、その人物が目指すバスが、うしろから噴煙をあげて押し迫っていた。
乗り遅れるだろうことは明白だった。カタツムリが必死に葉の上を這うように進む。俺はそれを横目に、早々に立ち去ろうとしていた。
が、直ぐさま踵を返した。
人とみるには無残な成れの果てで、車椅子に乗ろうが、杖をつこうが、同情をもよおす要素はひとつもない。それでも、手助けしようと走った理由をつけるなら、萎えそうな良識を振るうことで、少なくとも、自分はまだ健全な精神でいるという、誰に向けてか分からない必死の弁明だった。
「バス、乗るんだろう!」
後ろの補助軸をつかむと、返事もきかず、坂をのぼりあがっていく。
「え、え?」
車椅子の中で狼狽える声が聞こえるが、一向に無視した。話し合えば、ようやく点火した弱々しい熾火さえ冷え切って、すぐさま消え去りたい衝動に駆られてしまう。
バスもどうやらこちらの意図が分かったと見えて、バス停の前で長らく停車して、補助のために車掌と思わしく黒い塊が出てくるところだった。
「このひと、バスに、乗る、ので」
思った以上に息があがった。人の乗った車椅子をおして、坂道を全力疾走したのだから、当然かも知れない。荒い呼吸をなだめているあいだ、自分の呼吸で内容は聞こえないが、車椅子の人物と車掌は何やら話しこみ、鬱蒼とした夜の坂には似つかわしい、男性的で弾けるような笑い声が轟いた。
「お兄さん、取り越し苦労だよ」
「え?」
「このひと、丘の上の邸のひとだよ」
彼がそういって指さした先に、古色蒼然とした洋館が建っていた。
「どんまい、どんまい」
車掌はタラップをあがり、やがて折り戸のドアが閉まった。噴煙をまいて丘を登っていくバスを見送ると、ひどく居たたまれない静寂が俺を包んだ。
(急いでいたのは、降り出した雨のせいか)
今更分かったところで、なんとなる。
俺は自分の浅はかさに項垂れるように立ち去ろうとして、こちらを見上げている車椅子の人物の視線に気づいた。考えてみれば、急にうしろから押されるという恐怖体験をしたのだ。思い違いとはいえ、ひとこと謝罪しなければなるまい。
「すみません。どうやら早とちりだったようで」
「・・・・・・いえ。べつに」
か細い声量ながら、銀鈴をふるような伸びのある声だった。
群青色のコートに身を包み、フードを目深にかぶって顔を隠している。俺は居たたまれなくなって、一礼して、脇を通り過ぎていこうとした。
(あれ?)
が、ふと頭を疑問が掠めた。
車椅子の人物には、形がなかったか? 群青色のレインコートは色を単一に保持して、タップにかけられた両脚は、幼児のクレヨン画ではなく、確かに革靴を履いている。これ程までに明確な形をみたのは、殺された一題公職の死体のほかにない。
雨雲は去り、月光が濡れた路面をかがやかせる。
「あ」
と、声をあげたのは、俺ではなくその御仁だった。
牛歩のように進んでいた車輪が、しゃっと音を立てて、その場で滑った。急に濡れた路面にタイヤの摩擦が噛み合わず空転したのだ。車椅子は、そのまま、ゆるやかに坂を下り始めた。
「危ない!!」
俺はまろぶように駈け降りて、その肘掛けに取りすがった。車体に軽い慣性がかかり、その御仁は急ブレーキを踏んだように身体を前後させ、自然フードが掻きあがった。
車椅子の御仁は、気息奄々たる吐息をはいて、九死に一生を得たことを実感しているようだった。か細く、あの鈴を転がすような声で、
「ありがとう、ございます」
と、いう。
俺はどこか面映ゆくなり、
「いや、先ほどは迷惑をかけましたし――」
そういって顔を上げて、息を詰まら赤ちゃん赤ちゃん 俺の視界に、その顔がみえた。溶け出していない、輪郭をもった貌である。
俺はその顔を食い入るようにみて、感嘆たる溜め息を吐いた。――それは酷く複雑な吐息で、驚愕と悩乱、困惑と歓喜とが混じり合い、溶け合って、ひとつの形を生み出そうとしていた。
「あの、なにか?」
「あなたは、その、若しかしてですが」
「・・・・・・なんですか」
「死んでいますか?」
すると、車椅子の御仁は、あっと声をあげて、わなわなと震えた。
それはその御仁が囚われた困惑や不安などではなく、まったく新しい歓喜にむせぶような律動を伴って、ごうと月夜に吼えた。
「嗚呼、僕が分かるのかい!!」
かれ、或いは彼女は、肘掛けを掴んだ俺の手を、白い枝木の手で重ねた。
その貌は、一面蒼白の頭蓋骨だった。
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