目撃者に到る煩悶
「・・・・・・失礼します」
俺は霊野刑事の質問を無視して踵をかえした。
質問を返すべき相手が、七人の内、どの溶解人間か判ぜられず、ともすれば手錠につながれている容疑者に答える愚を犯したくなかった。
エントランスに出ると、俺を待っていたかのように、待合席のソファーから重い腰をあげた人影がある。その塊は規則的に三度、一定のリズムをもって手を叩いた。さながら室内に飼った犬猫を呼び寄せる合図は、雇用される際に、俺が彼に求めたものだった。
「災難だったな」
聞き馴染みのある低音が、一塊のとけた蝋から生じる。いまだ近づかれると鳥肌がたつほどの奇態だが、その不快さを隠して平生を装える程度には、彼に慣れてきた。対外的な微笑もお手の物である。
「店長も聴取ですか」
「オーナーが殺されたんだ。一応、俺も容疑者のひとりだ」
我々が勤めるグランドホテルビーナスは、市内の湾岸地区にあって、人目をはばかるようにやって来る男女を歓迎する宿泊施設である。愛欲の塔にむかって飛んでくる番いはみな一様に目をギラつかせながらも、情欲を悟られないように忍ぶようにやってきては、黙々とロビーで支払いを済ませる。
簡単な支払いと清掃作業。溶け出した人間を一瞥することもない。バイト先として、ラブホテルはこれ以上なく重宝していた。
「今回も、裏庭でサボってたのかい」
「一応、休憩時間です」
「だとしてもだ」
蔵本店長は溜め息をもらした。
「オーナーにどやされるのはこっちなんだぜ」
「もう喚くこともできませんよ。死んだんですから」
「・・・・・・そうだったな」
まだ気持ちの整理がつかないのだろう。オーナーの
「だが実の子どもに殺されるとは、やりきれないだろうな」
容疑者となったのは、当時公職邸に居た三人の子息たちだった。
子息といっても皆大人である。殺害当日は公職の
三人のうち、長男の
見たといっても、無論、七色の溶けた蝋のような外観だが、なにかと耳に触るような高い声で文句をつけているので記憶にのこっていた。どうやら六職は名義上『グランドホテルビーナス』のオーナーらしく、何度も役職を鼻に掛けて、店長を事務室や公職邸の応接室に呼び出して、無理難題を浴びせかけていた。
オーナーというよりクレーマーのような男で、いつも文句の端々に、
「親父が死ねば、名実ともに俺がお前の上司、いや神様だ」
と、喚くのだ。
六職は事件当時、三兄弟のなかで最初に洗面所に入ったのを、二人の兄妹が目撃している。――時刻は午後九時頃。六職は常日頃から片頭痛に悩まされており、そのときも急な痛みに洗面所に入って、ミラーキャビネットを開いた。洋画の影響か、彼は痛み止めを薬箱ではなく、洗面台のミラーキャビネットを開いた収納スペースに入れていた。そこには彼の頭痛薬だけではなく、公職が風呂上がりに使う、理髪師が使用する折り畳みの刃が収納された、一本のひげ剃りが牛革のケースの中で眠っている。
使われた凶器はこれであった。
「――正直ね、覚えてないんですよ」
六職は取調に対して、憮然として答えたという。
「こちとら気圧の影響で頭が痛くなってね。キャビネットからピルケースを取って、洗面所の水で飲み下したことは覚えてますけど、そこに親父のひげ剃りがあったかどうか、そんなことまで覚えちゃいませんよ。浴槽と洗面所を隔てるドアも磨りガラスで中まで見えませんしね。――そのあと? そのまま二階の自室で寝ました。ちょうど俺が部屋に入ったのを、華職が見てます。よく覚えてますよ。忙しなくパフを叩きながら出てきたもんで、ぶつかりそうになった」
公職邸は洗面所を出てすぐに右手に階段がある。それをのぼり、左右に分かれた廊下を左にずっと進んだ突き当たりが、長男六職の自室であり、そのひとつ手前が長女の
華職は事件当時、部屋から出たところを、六職とすれ違っている。
「アイライナーを探してたの」
店長の談では、四十の出戻りで、小太りで団子鼻の女だという。ひどくせかせかとした性格で、そのときも化粧をしながら洗面台にむかっていったらしい。
「ひげ剃り? そんなの知らないわよ。ああ、でも俺が洗面所に入ったとき、キャビネットが開けられたままで、俺はそこからアイライナーをみつけて、ちょちょっと、そこで化粧して、部屋に戻ったわよ。――お父様の様子? さあ、知らないわよ、そんなもの」
最後の三人目、次男の
「その、歯を磨きたくて」
先日歯科で神経まで触れた虫歯を治療したばかりで、そのときの治療が骨を砕くような激痛で、それ以降、なかば脅迫的に食後に歯を磨くようになったというのが、ほかの兄姉の言である。常に誰かに詫びるような面持ちと店長に評された彼は、取調室でもひどく恐縮していた。
「キャビネット? ええ、開けましたよ。歯間ブラシを取るためにね。そしたら、ええ、すぐに分かりました。父さんの皮のケースに血がついてた。それも深ぞりして付着したような血じゃない。苺ジャムの瓶をひっくり返したような。それで浴槽を開けてみたら、その、あの惨状でしょう?」
第一発見者となった彼は、浴槽をみて、そこで首を掻っ捌かれている公職の死体を発見したという。
警察が頭を抱えたのは、この証言のほかに、なんら事件に関する目撃情報ないことだった。彼ら三兄弟は、少なくとも公職の遺産により死の恩恵をうけることは確実であり、また事件が家の中で終始しているため、彼らの証言を確かめる術はなかった。
警察も血眼になって捜していたところに、目撃者としてやって来たのが、この三人にも負けず劣らずの無価値な証言者だったのである。
「服装などもまったく分からなかったのかい?」
「湯窓から見えたのは顔だけでしたから。それに犯人は駆けつけたときには、浴槽から立ち去ろうとしていました」
「・・・・・・・そうか。それは残念だ」
それから俺と店長は瀬居町署を出た。店長曰く、数日はホテルのほうも開けられないという。なにせ殺人事件があったのは、ホテルの真後ろに佇む豪邸である。
俺はなぜ居宅と背中合わせにラブホテルなど建てたのか、最初こそ皆目見当も付かなかったが、あるとき、休憩時間に他人をさけるように誰も居ない裏庭に身を潜めていると、一題邸の三階建ての屋根裏の小窓から、公職と思わしき巨漢の肉塊が、螺鈿の双眼鏡をのぞかせているのを見つけた。
ホテルは一題邸にむかって弧を描くように凹んでおり、部屋の窓側がずらりと三面鏡のごとく並んでいる。彼はその一部屋ひとへやを双眼鏡で覗いては、他人の性交を覗き見して悦にひたっているようだった。殆どの使用客は、広漠とひろがる夜海に肢体をさらしてカーテンを引く用心もせず、カーテンをひいたとしても、室内の明るさと薄いシルクのカーテンとで、秘事を包み隠すことなく公職老へと開陳していた。
「もう夜も遅い。帰りのバスはあるのか?」
「ええ。少し急げば間に合うと思います」
「なんなら送ろうか?」
「いえ、結構です」
「今日はすぐに寝ることだ。顔が分からないとはいえ、殺人現場を見たんだからな」
彼はそういうと署の駐車場にとめていた黒のセダンに乗り込んで、夜の街に消えていった。俺もその場を後にしたが、重い影をひきずるように足取りは鈍重だった。
――顔がわからないとはいえ、殺人現場を見たんだからな。
去り際の犯人を目撃したと蔵本には言ったが、実際は犯行の一部始終を全て目撃していたのだ。それにはこんな訳がある。
俺がいつものごとく、裏庭で暇をつぶしていると一題邸の一階の窓が開いた。
格子のかかった窓からもうもうと湯気が立ちこめるのをみて、すぐに浴槽だと分かった。ついで見覚えのある双眼鏡が窓辺に置かれたのをみて合点がいった。
「お盛んだな、好色爺め」
案の定、双眼鏡を格子の横軸にかけて、触手のような指がそれに這う。
俺は公職と異なり、ひとの情事を覗く趣味も、ましてやそれを覗く莫迦を笑う趣味もなく、その場から立ち去ろうと腰を上げた。すると格子窓に顔を押し付けんばかりに近づいていた肉塊が、ひどく惨めに蠢動して浴槽に消えた。螺鈿の双眼鏡が、格子をこして、ぼとりと砂礫の下におちた。
途端、妙な胸騒ぎがした。
ゆっくり駆け寄り、鎹のようなコの字型に窓辺に埋め込まれた窓枠からのぞいたとき、ふたつの肉塊が壮絶な格闘を繰り広げており、その決着が今つこうとしていた。公職と思われるひとつが湯船に押し込まれ、鋭く光る刃物がそれを追う。
浴槽に沈んだ肌色の肉塊は、活きの良い魚のように跳ねていたが、浴槽が次第に赤一色になるとやがて沈黙した。そして不思議なことに、殺された肉塊は死してようやく本来の輪郭を思い出したように、ピンクの肉塊から人としての肥満体にかえり、粘土のごとき顔が、陶芸家の手によって目鼻をつけられて、凝然と見開かれた双眸と癖のある鷲鼻がにょきりと立った。
死体になって始めて、俺は窃視癖の老人の顔をみたのだ。
しかし肉塊から真の身体に戻ったのはひとりだけで、彼を殺した新たな肉塊は、用心深く、さらに二度、かれの頸動脈をねらって入念に切り裂いていた。
凄惨無比な殺人現場を前に立ち尽くしていたが、犯人である肉塊は、屈み込んで執拗に公職に死を与えんと、こちらに気づく様子もなく、二度、三度と首を搔く。
俺はすぐにその場から去った。それから俺は何事もなく、死体が発見される一時間ばかり、平然と窓口業務を再会した。そしてあろうことか、刑事がこのホテルに聴取にくるまで、眼前でおきた殺人事件のことをすっかり失念しきっていた。
刑事と名乗る肉塊が高圧的に聴取するなかで、ようやく俺は自分の異常性に気づいた。
殺人を目撃しておいても尚、心が凪いでいた自分に対する驚愕は、どこか叫喚に似た声色で、目の前にいた刑事に事件を目撃したと伝えた。――その人物が零野警部補であり、瀬居町署の取調室の一件につながる。
彼が激怒したのも無理はない。
なにせ証言者として能力がないことを自覚しながら、さも事件の有力な手掛かりを抱いているような血相で、その犯人の犯行を目撃したと述べたのだ。
――失貌症のおまえが、なんで、目撃者に名乗り出た。
回答はその実、単純だった。
溶解している人間を、もはや人だと認識出来なくなっていた自分への恐怖。
いずれ訪れる孤独への、強烈な恐怖であった。
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