失恋とそれにまつわる12の殺人

織部泰助

Case1 白い疾病

貌の溶ける咒 


 はくびょうの奇妙な精神疾患は、十二の事件とその解決を経て、無事治癒した。


いまや『白い疾病』を克服して、社会復帰の足がかりとして、スクールカウンセラーの往診を受けている。


 心から喜ばしいと同時に驚いたのは、やすやすと難事件を看破していたはくびょうは、まだ制服を着る年齢だったということだ。明晰な推理と洞察力、それを下支えする膨大な知識は、少なからず俺より一回り上の年齢だと思い込んでいただけに、今更ながらシャッポを脱ぐおもいである。


 かれ、或いは彼女は、いずれ早いうちに名をあげ、秋空のようにとおく、郷愁を感じさせてくれる偉大な存在になるだろう。手を伸ばせども届かない存在に――。


 そう、これは失恋の物語。


 はくびょうと俺の関係性は、その実、堅固に結ばれたものではなく、いくつかの偶然が噛み合ってようやく保たれていた、ひどくうすく破れやすいものであった。そんな二人が奇跡的に緩やかながら仮初めの絆を結んでいたのは、互いに人に明かせない奇怪な疾病によるもので、はくびょうの病が癒えたからには、どちらかがサヨナラを告げなければ、どちらも不幸になる関係なのだ。

 だからこれは、そのサヨナラの餞別に、未練ったらしい俺が書き綴った、十二の殺人の情景とその解明に到るまでに費やした幸福な時間の記録である。


 

 さて書き出しはどうすべきか。いつになっても迷う。

 欲をかいて目をひく文言で煽ってみたり、時勢の挨拶のごとく、出逢った時分の、外套の襟に顔をうすめる大寒の情景を克明に書こうとも思ったが、やはり『白い疾病』と題を打ったのなら、それに対をなす俺の疾病について話すべきだろう。


 失貌症しつぼうしょう。或いは相貌失認症そうぼうしにんしょう


 他人の顔がうろ覚えになることは誰しもあるだろうが、俺の場合はそれが顕著で、陽のもとに何のはばかりもなく闊歩している紳士と、浴槽に躍り込み、ミラーキャビネットから取り出した理容師用のひげ剃りで、被害者の頸動脈を切り裂いた殺人鬼の顔を、その一部始終を真向かいの路地で茫然と眺めていたにも拘わらず、まったく区別がつかないのだから、俺をはじめ、早々に事件解決の糸口が掴めるだろうと安穏としていた取調官も困却していった。


「本当に分からないのかね」


 霊野れいのと名乗った刑事は、犯人に向けるような疑わしい声色でうなる。


「この中に、君が目撃した犯人の面影が少しでもあれば、大変喜ばしいことなんだが」

「残念ながら」

 

 俺と霊野刑事は机を間に差し向かい、卓上には三枚の写真が並べられていた。そこに映る人物が誰であろうとも、矩形の湯窓から覗き見えた殺人者の顔貌と一致することはない。あるいはそのすべてが一致する。

「・・・・・・なるほど」

 仔細らしい声は、コンクリートの石室に刺々しくひびいた。ついで彼の右手がたかく掲げられたとき、一切の感情を顔から読み取れない俺でも、その拳が憤然と机を叩くことは予想できた。


「警察を莫迦にしているのか!」

 耳を聾するような残響がジリジリと鼓膜をおかす。叩きつけられた拳はいまだ机に据え置かれたままだ。拳の痛みにたえているのではない。やり場のない苛立ちが、反射的に俺の胸ぐらを掴まないよう、怒りの余熱を逃がしているのだのだろう。


「霊野主任、ちょっと」


 扉がひらき、三十がらみの男がやってきた。

 霊野は戸口で何やら話し込んだあと、怒りに燃えさかる火焔を灰山でくすぶる熾火の具合までさげて、憤懣やる方なく舌打ちをひびかせた。


「もういい。もういらん」

 子供の癇癪じみた口吻で、うせろとばかりに手を払う。同感だとばかりに、部屋の隅で調書をしたためていた担当官が立ち上がり、無用な目撃者を取調室から抓みだした。


 窓のない薄闇の地階は、自分が出てきたものと同じ居室が五つずらりとならび、多くの警官が行き来していた。中には手錠にかけたリードをひいて、奥の留置施設につれていく者もある。

 繁忙期さながらに、ひとが行き来する中にあって、俺のような平生薄らぼんやりしている二十歳は珍しいと見えて、行き交うひとは度々一瞥をくれる。


 居たたまれなくなり、足早に立ち去ろうとすると、

「おい」

 と霊野刑事が呼びとめた。


「失貌症のおまえが、なんで、目撃者に名乗り出た?」


 霊野刑事の胴間声は周囲の耳目をかきあつめ、誰もが一様に、こちらを注視していた。


 かお、顔、貌。

 ざっと勘定して七人は居ただろう。おそらくそこに居た人々の面貌は、一卵性双生児ならぬ一卵性七生児などという怪事がないかぎり、ひとりとして似た顔はおらず、みな何かしら異なる目鼻立ちをしているはずだが、俺の目に映る姿は、誰ひとりとして区別できなかった。

 

 みな、溶けているのだ。

 

 粘性のある溶液をキャンバスに垂らし、それによってにじんでいく水彩画のごとく、顔が、ふくが、四肢が、なにもかもが、七色の溶解する蝋の塊となって、かろうじて人と思わしき輪郭だけを残している。

 

 失貌症。或いは相貌失認症。

 そう騙っていた疾病は、いわば便宜上のもので、実際のところ『溶貌病ようぼうしょう』と呼ぶべき、世にひとつとしてない奇病であった。


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