ひとりの騎士が死んだ

つるよしの

奴に敵うことなど、どう足掻いても、なかった

 奴の夢など久々に見た。

 ましてや、過去の苦い思い出でしかない、あの屈辱的な瞬間の夢など。


「……イザーク、ねぇ、イザークってば。やだ、寝ちゃったの?」


 その声に意識を揺り戻されてみれば、時はまだ夜半で、俺は情事の余韻が残る火照った裸体で、寝台に横たわっていた。俺の顔を覗き込んでいるヴェロニカお嬢様も、豊満な乳房をショールで申し訳程度にしか隠してしかいない、あられもない姿のままだ。俺が目を開いたのを見て、彼女は、うふふ、と妖艶に笑いながら、白い指先を額に伸ばしてくる。


「だめね、イザーク。護衛騎士たるあなたが、主人の前で無防備にうたた寝するなんて」

「申し訳ございません。お嬢様」

「あら、冗談よ、イザーク。謝ることはないのよ。こんな時まで、あなたは生真面目ね。まあ、本当に真面目だったら、主人である女を夜な夜な抱くようなことはしないのでしょうけど。……そんなことより、私の話を聞いていて?」

「……話、ですか」

「ああ、やっぱり聞いていなかったのね。彼よ、アウレール・クレンゲルのことよ」


 そのお嬢様の言葉を耳にして、俺は漸く、奴の夢を見た理由を悟る。ああ、そうだ、俺は眠りに落ちる寸前まで、奴のことを話題にしていたのだった。すると、お嬢様が再び俺に肢体を寄せてきた。燭台に置かれた蝋燭の炎が、ゆらり、揺らぐ。


「イザーク、私は嫌なのよ。あんな陰鬱な男を夫にするなんて。いくら剣の腕が領内一だからといったって、あの暗い瞳に一生見つめられるなんて。そのうえ庶子だし。私、まっぴらごめんだわ」


 お嬢様は俺の耳もとでそう囁いた。そして、ゆっくりと噛んで含めるように語を継ぐ。


「だから、聖霊祭での剣術大会では、絶対に、あなたはアウレールに勝つのよ。いいこと? これは約束よ」

「約束と仰りましても、勝負に絶対はございません。ヴェロニカお嬢様」


 仄暗い寝台の上で、俺は呟くようにお嬢様に抗弁した。だが、お嬢様は納得するような素振りは見せない。俺の汗ばんだ胸に、ゆっくりと爪を這わせながら、なおも俺を諭すように言葉を紡ぐ。


「イザーク。弱気にならないで。あなただってこの領内でアウレールに次ぐ剣士でしょう? そうであればこそ、お父様が私の護衛にあなたを付けたのでしょうに」

「そうかもしれませんが、剣術大会での優勝者をお嬢様の婿にするとお決めになったのも、領主様です」

「だから、そこであなたが優勝すればいいのよ。それとも何? イザーク、あなた、剣の腕にそんなに自信が無いの?」


 お嬢様の揶揄が、その甘い吐息とともに、俺の喉元を這い上がる。そのなんとも表現しがたい悪寒を味わいながらも、俺は何もお嬢様の問いに答えられないでいた。そのとき、彼女の望む答えをうそぶく余裕を俺は持てなかったし、なにより、こう口に出してしまうことは、自分の何か大事な主軸を壊してしまうようで、恐怖でしかなかったから。


 ――俺は、生涯、アウレール・クレンゲルには敵わない。


 夜が白みだした寝室のなか、先ほど見た夢が、俺の脳内で鮮やかに蘇りつつあった。


 あれはもう何年前になるのだろう。領主直属の騎士団への推薦試験が受けられるのは、よわい十四になってからだから、もう十年以上も前のことか。


 俺は物心ついてからというもの、下級貴族の三男坊という恵まれない境遇をなんとか打破するが如く、剣の鍛錬に明け暮れる日々を送っていた。俺のように家督を継ぐことも叶わぬ立場において、この世で身を立てるには、剣の腕を磨いてその地域の騎士団に入団するのが唯一の道だったから。なにしろ、一旦そこに入団してしまえば、腕と運次第では王都で仕官する将来も拓くことができる。だからこそ、俺は必死に努力した。師について研鑽の年月を過ごし、腕に覚えがある剣士を訪ねては手合わせを願うべく地を駆けずり回った。少年時代の記憶と言えば、そのほかのことは思い出せないくらいだ。

 

 その甲斐あって、俺は十四になったとき、師にもこれ以上教えることはない、と言わしめるほどの腕前になっていたわけだが、だからといって、慢心もしていないつもりだった。俺より強い奴はまだまだいる、そう胸に刻んで試験に臨んだのは昨日のことのように覚えている。そして、強豪揃いの志願者の中を勝ち抜いて、遂に最後の対戦相手に辿り着いたのだ。

 

 そう、そして、その相手が、アウレール・クレンゲルだった。

 

 初めて奴を見たとき強く目を引いたのは、俺と同い年とは思えないほどの落ち着いた物腰、そして、長い黒髪から僅かに覗く陰鬱な瞳だった。俺は奴の醸し出す何者とも知れぬ雰囲気に、多少恐れを感じたものの、試合が始まってからは勝つことしか最早、頭にはなかった。

 しかしながら奴の動きは、驚くほどに俊敏だった。剣さばきはそれまで対戦した誰よりも速く、正確で、そして容赦が無かった。奴の剣を受け流そうと俺が身を捩れば、その方角へと瞬時に刃が繰り出される。自由自在に操られる剣の動きは、いっそ芸術的ですらあった。そして奴は、剣先に翻弄される俺の身体の軸がぶれたのを察知するや、いきなり鋭い蹴りを俺の胴に放ったのだ。


「ぐっ!」


 息が詰り、視界が反転する。

 気が付けば俺の手からは剣は離れ、身体は地表に転がされていた。そして俺の喉には、奴の剣先が突きつけられていた。

 完璧なまでの勝利にもかかわらず、俺を見下す奴の瞳に、熱はなかった。


 こうして俺は、アウレールに負けた。だが、素質はあるという団員の意見に推されて、特別にアウレールとともに騎士団への入団を認められた。

 その裏事情として、アウレールの出自が俺と同じく下級貴族の息子ながらも庶子であり、奴ひとりの入団となると騎士団の品格が後々取り沙汰されるのでは、という論議あってのことと俺が知るのは、すぐ後のことだ。


 アウレールの強さは騎士団に入っても、変わることはなかった。その出自を裏で、ときには大っぴらに揶揄されることがあっても、まったく動じることはなかった。やがて時が経つにつれ、その腕が並み居る先輩騎士の腕をも遥かに凌駕することが周知の事実となると、誰も、何も言わなくなった。

 それでも俺は、試験で無様に負けた借りをいつかは返そうと、ことあるごとに、アウレールに挑んだ。だが、いつも結果が覆ることはなく、俺はそのたびに地べたへと叩きつけられ、奴の暗い視線に見下される羽目となった。やがてその回数も数えられなくなった頃、奴は王室直属の騎士団「黄金の蔦」に推挙され、この領内をひとり出て行ったのだ。

 

 そして先月、アウレールは「黄金の蔦」での任期を終え、領土に帰ってきた。名誉ある王室の騎士団に仕えた騎士が、どのように故郷に錦を飾るのかは、いつの時代も領民の注目の的である。そこに領主からの、春の聖霊祭での剣術大会で優勝したものに娘を娶らせる、との発表だ。領内は、剣術大会とは名ばかりのこと、アウレールを以前から気に入っていた領主が、彼を次の領主として迎えるための、大々的な儀式セレモニーに他ならない、との噂で持ちきりである。

 

 聖霊祭はもう来週だ。

 俺も騎士団のひとりとして、剣術大会への出場が決まっている。だが、領主が俺に期待しているのは、奴のとしての役目でしかない。全くもって虚しいことに。

 もっとも、そうでなくとも、俺は結局、奴に敵いようがない。

 その事実も臓腑に沁みるほど、わかりきっていた。


 その日はあっという間に訪れた。

 領内は春の訪れを祝う華やかな飾りで彩られ、芽吹き始めた木々に色とりどりの布が揺れている。冷たくも春の空気を微かに孕んだ風のなか、着飾った人々が輪になって踊り、特別な料理を振る舞いあう。そして、陽が暮れる頃、領民はこぞって、郊外の丘に作られた競技場へと繰り出していく。

 俺たちの儀式セレモニーは、名実ともに、祝祭のハイライトであった。


 対戦の順番は、実に良く考えられて作られていた。ヴェロニカお嬢様の護衛騎士である俺と奴の対戦は、大会の最後の最後、つまり決勝戦に持ち込まれるように上手く操作されている仕組みだ。そのおかげで、俺は大会を順当に勝ち進んでいた。もっともそれはアウレールも同じで、奴も向かうところ敵無し、といった圧倒的な強さで勝ち抜いていく。いつしか陽は落ち、篝火に照らされた競技場は、否応なく、領民たちの熱狂の渦に包まれていった。そう、最後の戦いである俺と奴の決勝戦目がけて。


 やがて遂にその時がきた。

 俺は革の防具の留め具を締め直して、しっかりと身体に馴染ませる。だが、心の臓の鼓動が防具を伝って俺の身体を駆け回りはじめる。それまでの対戦ではまったく感じなかった緊張が、ひたひたと身を浸していく。それでも、俺は、競技場に向かってゆっくりと歩き始める。領民の歓声が鼓膜を激しく叩く。そして、前を見れば、直径五十メートルほどの円形の競技場の向こう側に、黒い髪をなびかせた奴の姿がうっすらと闇に浮かんで見えた。

 

 俺はなんとはなしに夜空を見上げる。あちこちに灯された篝火にも負けぬ眩しさで、春の星座が煌めいている。俺は、初めて奴と対戦したとき、叩きのめされて土にまみれ見上げた空の青さを思いだした。今宵、地に伏した俺が見あげるのはこの夜空か、と思うと、なぜだか分からぬが、無性に可笑しくなる。

 

 そのとき、俺に駆け寄ってくる人影があった。専用の観覧席からヴェロニカお嬢様が勢いよく駆け下りてきたのだ。突然のことに言葉の出ない俺の前で、彼女は俺の剣をそっと手にする。そして、こう言いながら、手にしていた絹のハンカチを刃に触れさせた。


「イザーク。あなたの剣に神のご加護がありますように……!」


 お嬢様はそれだけ言うと、すぐに身を翻して俺の前から駆け去って行く。それを見た領民の歓声がこれまでになく高く激しく競技場に木霊する。その残響に包まれながら、俺とアウレールはついに競技場の中央で対峙した。


 なにもかもが、あの日と変わり無かった。奴の落ち着いた物腰も、そして、暗く翳る陰鬱な瞳も。


 攻撃は急だった。奴の迷うことのない突きが、俺の胴を襲った。速い。いつも以上に速い動きだった。それでも俺は咄嗟に飛び退いて、奴の剣を躱す。そして、今度は俺の方から、奴の利き腕に向かって剣を旋回させた。

 かつーん、と音が響いて、俺と奴の剣がかち合う。剣をはじき返された勢いで身体のバランスを失わないよう、俺は必死に体勢を維持する。

 すると、奴が急に横に跳んだ。そして、俺の真横を取ると、瞬時に身体を反転させて強烈な一撃を肩に食らわせてきた。防具を通じても苛烈な痛みが稲妻のように俺の脳髄を貫く。俺は声を上げぬように必死に堪えながら、おぼつかない動きながら地面を強く踏みつけ、なんとか転倒を避ける。

 しかし、奴の攻撃は激しさを増すばかりだ。いつもの如く、右、左、左、右と自在に剣を操り、時には身体ごと俺を突き飛ばす勢いで刃を振りかざす。俺はいつの間にか防戦一方となっていた。俺は奴の剣を必死で避けながらも、内心、相も変わらぬその見事さに、半ば笑い、半ば呆れんばかりであった。

 

 ――ああ、わかったよ。よくわかったよ。アウレール・クレンゲル、お前は強い。そして、俺は弱い。俺はやっぱり、お前に勝てない。敵わない。


 やがて、競技場の端に追いやられた俺は、無様に身体を地表に横転させた。口の中に砂と血の味が広がる。剣を手放さなかったのは、我ながらよく持ちこたえたと思う。そう思いながら、せめてもの反撃と、剣先を奴の身体に向ける。だが、俺の剣は、彼の頬を軽く掠めるに留まった。

 

 そのとき、奴の動きが急に止まった。奴の陰鬱な瞳が急激に焦点を失うと同時に、その手から剣が離れた。突然のことに唖然とする俺の目の前に、ゆっくりと剣が落下する。続いて、奴の身体が、ぐらり、と揺れ、仰向けに地べたへと崩れる。

 その身体は細かく痙攣し、奴の顔色は土気色に染まっていた。

 

 それから数瞬の後、アウレールは、びくり、と大きく全身を震わせ、そして、その身体は、二度と動くことはなかった。


 暫しの間、競技場は静寂に包まれていた。

 だが、誰かが大きな声で、俺の名前を讃える声を放った。途端に領民たちは俺の名前を口々に叫びだす。それは轟音となって、仄暗い競技場を包み込んだ。

 誰も彼もが俺の名を叫んでいる。だが、そんななか、俺は目の前に転がるアウレールの死体から目を離すこともできず、この意外極まる結末がいったい何を意味するのか、慌ただしく思考を巡らせるばかりであった。


 ――これは、急性の中毒症状……なにかの神経毒の? だが、なぜだ?


 混乱する俺は、よろよろと立ち上がりながら、観覧席に目を泳がせる。高まるばかりの俺を讃える声に、違う、そうじゃない、違うんだ、と叫びたいが、口がからからに渇いてそれも叶わない。

 ふと、俺の視界を白い何かが過ぎった。絹のハンカチだ。それをヴェロニカお嬢様が俺に向かって振っている。だが、あのハンカチは真っ白ではない。なにかの液体によって、微かに黄色く濡れている。

 

 そこで俺は、ゆっくりと、手にしたままだった剣の刃に視線を移す。

 すると、剣先が僅かに同じ色に濡れているのが目に入った。


 歓声はなおも高く、競技場を揺るがさんばかりに響き渡っている。

 見上げた春の夜に星座はいよいよ眩しく輝いていたが、俺にはそれが、偽りの勝利を嘲笑う禍々しいひかりのようにしか思えなかった。

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ひとりの騎士が死んだ つるよしの @tsuru_yoshino

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