藪の向こう

すきま讚魚

藪の向こう

 己が境界にらざるもの 交ずるべからず踏みいるべからず

 境界に在らざるものをば 欲すべからず是非すべからず

 境界の向こうをば 覗くべからずたずぬるべからず



 今は昔のそのむかし。

 はてさて、いつの頃からの言ひ伝へにございませうか。

 此処は古来より不知森シラズノモリと呼ばれておりまして。森自体は多からず、高からず、然れども此の薮の向こうは幾ら目を凝らせど視えず、又其の向こうに声なぞひとつも通らぬときた。

 その中に、ひとつぽつんと祠が在るのをご存知でせうか。

 祠の向こうは竹、松、杉に漆、柏の木などが鬱蒼と生い茂る——そうそう、一見すれば唯の雑木林にございます。

 ただこの雑木林、いつの頃からか存じませぬが『祠より先、決して立ち入るべからず』との掟がございましてねぇ。いえいえ、わたくしどもも何ひとつその由緒は知らぬのですよ。然し村の者も、「此の藪に足を踏み入れると二度と出ては来られない」との伝承を固く信じてゐるのです。

 不知森の由緒は知らずの儘に。

 そして此処で万にひとつも何か起こったとて、其れは不言イワズの儘でおるのが定めにございます。

 此れは神職のものが踏み入った際に、誤って子らが此の境より立ち入ってしまった際に、向こう側よりお返し頂く為の掟。故に此の地に棲まう村人は、決して不知森に立ち入らず、言はず、を遵奉しておったと。

 逆を返せば、仮に其の昔に此処に立ち入ったものがおったとて、他言せねば其れは御天道様のみぞ知るところ。

 故に——。藪の向こうは『藪の中』。

 其の真の姿を知るものは、此方側こちらがわには……誰ひとりとして居りませぬ。

 然し如何なものでせう、例え不言の掟を守ったとて。既に其のものは、不入イラズの禁を犯しておる身にございます故。


   *


 男は、其の森に立ち入ろうとしたところをひとりの法師に止められ、話を只々聞ひているばかりであった。

 不知の森だか何だか知らぬが、此処はそう云ふ禁足地のひとつであろう。禁足地とやらには、往々にして祟りだの何だのの曰くがつきものである。

 男は大学で講師として教鞭を執る身でもあった。講師と云へば聞こへはいいが、非常勤で民俗学の講義を週に二コマほど受け持つのみ。昨今のやれ電力エレキテルだガス燈だの、脱亜入欧だの富国強兵だのに押される形で、肩身の狭い思いを強いられておったと云ふ。

 男はひとつ、まだ此の文明開化以前の名残りの遺る場所を、全国各地歩いてまわっておった。其の幾つかは、元は幕府の陣屋や墓所であり、所謂『禁足地』の類ひにも数へられておる場所もあったとか。

 何故かと問はれれば、研究の為にと答へて居れば善いだけの事。男の家系はもとを辿らば其れなりの武家に連なるものでも有り、謂く将軍家のおぼへもめでたき鷹匠の名家の出でも遇った。為ればと父や祖父の代の縁を訊ねて往けば、快く深所へも通されておったのである。

 だが此の男、実は鷹匠の家の出でありながら、てんで家の事には興味が無い。其の上、先祖代々絶やさぬやうにと云はれておった鷹は、数年前に父が蒸発して直ぐに面倒を見もせずに殺してしまった。

 其の父の書斎から、鷹を放しておった土地の権利書を発見したのが数ヶ月前。然程興味もなく訊ねたところ、陣屋の跡地の小さな祠の下より金目のものがうじゃうじゃと湧いて出たのである。

 ならば——と男は研究の知識欲を隠れ蓑に、そろりと人目のつかぬ古びた場所を訪れては、祠を暴いて回った。そう、前回と同じくして、運よく金と名誉を得て挽回しようと目論んでいたのである。

 ところが、其れ以降は何処へ行けども掘り起こせども、一向に砂金ひと粒すらも出ては来ぬ。であればと、男が次に足を向かはせたのは、古きしきたりにより足を踏み入れてはならぬと強く戒められておる地であった。

 此れまでよりも殊更強く感じる『立チ入ルベカラズ』の念を、法師の噺に感じ、男の喉は知らず識らずのうちにごくりと鳴っていた。

 すると、如何したことか。藪の中より細々とした声が……唄が聴こへてくるのだ。


 かごめ、かごめ、かごのなかの鳥は

 いついつでやる

 夜明けの晩につると亀がすべった

 うしろの正面 だぁれ?


「法師さま、此の唄は一体何でしょうか?」

「唄……? わたしには先生の御声しか聞こえておりませぬが」

 然しやはり足を一歩踏み出してみれば、先程の唄がよりいっそう大きく其の藪の中より聴こへてくるのである。男は思わず法師の顔をほれみろと云わんばかりに見返した。


 かごめ、かごめ、かごのなかの鳥は

 いついつでやる

 夜明けの晩につると亀がすべった

 うしろの正面 だぁれ?


「いやいや、ほら今ですよ。聴こえてくるじゃぁありませんか」

 男が云えど、法師には此の唄が如何しても聴こえぬやうである。すると今度は、法師の方がぎょっとした面持ちで、男の方を振り返り口を開いた。

「先生、悪い事は云いませぬ。此の地より唄が聴こへてくるなぞ……何か善くない事に違いありません。然も未だ、不知森の祠にすら辿り着いてすら居らぬ身に何ぞ聴こへてくるときた。此の儘引き返すが最善にございませう」

 法師は止めたが、男は其れを聞いて尚、其の藪の中へと進み往きたひ気持ちが強く湧き上がってきたのである。

 おやめなさい、おやめなさい、そう聞こえる声は阻む手は、男へは届く事はなく。軈て其の手を振り払い、振り払い、押し退け、突き除けて——。


『うしろの正面 だぁれ?』


 何処からか響いた其の声と共に。男の五感全ては、真っ暗闇に呑まれてしまったのであった。


   *


 あゝあの大学の先生つったっけか。確かに数日前はうちに居りましたよ。そらもう酷く狼狽しておって、気の毒なもんで。

 そりゃねぇ、目を覚ましたら知らん田舎の村の者の家に寝かされとったなんて、それだけでも驚くだろうによ。ありゃあ『不知の藪』に化かされでもしたんでしょうな。

 先程申し上げましたやうに、わたしらは不知森の入口の所に倒れておった先生を、此処で休ませておっただけです。いんや、偶々ですねぇ。あの辺りは普段から人氣の無い所ですから。

 云っちゃあ悪いが、ありゃ素手で人を殺せるやうな人間じゃない。刃物でも持ってりゃあ噺は違ったが、そんな得物は何処にも落ちてやしなかったですよ。

 あまり詮索するのも善くないかと思いましてね、着物も荷も、何ひとつ必要以上には触れぬやう此の家に運んだんですがね。だからでせうか、その両の手だけに、べっとりと。まるで血のやうなものが、今しがた付いたばかりかのやうに鮮やかに濡れておる儘になっておりましてね。

 そうしたらもう「俺は違う」だの何だの、気の狂ったかのやうに泣き叫んだんです。ええ、わたしらもそんな事は思っとりませんよとお伝えしました。だってねぇ、先生の着物も何も、汚れたり着崩れたりも一切しとらんのですよ。まぁ段々とは落ち着かれましたから、うちで何か物を壊したりなんて事もなかったです。うちで変わった事? あゝでも先日ね、台所から包丁がひとつ無くなっておりましたかねぇ。おっと、すみません、此れは関係の無い御噺でしたかね。

 然もね、何とも不思議な噺ですが、あの藪の前で坊さんと噺をしたと云われるんです。其れもね、まるで不知森を祀っているかのやうな口ぶりの坊さんだったと。

 いやいや、聞けば民俗学の先生だそうですよ、坊さんと神官さんは間違わんでせう。

 そうなんです。あの場所の祠は、此の近くの八幡さまの宮司さんが、毎日毎日清めにいらっしゃる。坊さんがそんな場所に、そもそも居るはずも無いんですがねぇ。

 あゝそれで、先生の居処って仰いましたかね。其れがねぇ、一晩休んで其の翌日の午頃ひるごろでせうか。ぱったりと、居なくなってしまったんですよ。いったい全体、何処に行ったと云ふのか、わたしどもにも皆目見当もつかないのでございます。


   *


 目を覚ました男は、頭がすっかり冷えると羞恥と怒りで震えるやうであった。

 此れはあの坊主が、きっと不知森の藪の向こうへと立ち入らせぬやうに、自分に何か仕組んだに違いない。手に付いた生臭い血潮のやうなものは、如何やら鳥獣の類ひのものであって人のものではなかった。此れは益々、此度の祠、延いては其の向こうに或る藪の中は怪しいぞと、考えを巡らせたのである。

 祟りだ何だと脅かすつもりであろうが俺の目は騙せぬぞ。そうと決まれば今度こそ、と。藪の前で倒れてゐたと云ふ自分を運んでくれた村人の居らぬ間に、其の家より包丁をひとつ拝借し、たたたっと荷物を持って再び不知森へと向かったのであった。

 不知森は、近づけば近づく程に静まり返った不思議な場所で、鳥の声ひとつ聞こえぬ。男は手際良く、其の祠を掘り起こしに掛かったが、如何やら其処には砂金ひと粒すら埋まって居らぬ。

 であれば、と。男は不知森の藪の中へと、何の惑いも無く踏み入った。

「ふん、踏み入ったところで普通の藪ではないか」

 ひたりと背を伝う汗を、怖ろしさからのものでは無いと云ふかのやうに男はそう独り言ちた。ざっ、ざっ。ざっざっ、と草木や枯れ葉を踏む音だけが辺りに響く。


 かごめ、かごめ、かごのなかの鳥は

 いついつでやる

 夜明けの晩につると亀がすべった

 うしろの正面 だぁれ?


 すると如何した事であろうか、又あの唄が聴こへてきたのである。

 まるで藪全体を包み込むかのやうに反響し、然し耳元で唄うかのやうな声音が。


 かごめ、かごめ、かごのなかの鳥は、鳥は、おまえが

 いついつでやる、もう居ない、もう居ない


「何だ、いったい何だ」

 ざわり、と視界が翳った。然し、見渡した先の其処は、唯の藪である。

 唄は、未だ耳元で囁くかのやうに続いている。


 夜明けの晩につると亀がすべった、

 鶴と亀は此処に居た、居たのに

 夜明けの晩にすべった、すべった、血で其の脚をすべらせた


 ひたり、と男の肩に何かが触れた。足音はひとり分、藪の中に誰かが入る音なぞ一切しなかった。

「だ、誰だ!」

 男は懐に隠し持っていた包丁に触れ——言葉を失った。包丁を手にした己の手が、滴るほどの鮮血でべっとりと濡れていたからである。


 ——うしろの正面 だぁれ?


   *


 今は昔のそのむかし——すこし、不知森の昔噺をいたしませう。

 時の将軍徳川綱吉が発令した「生類憐れみの令」により、鷹狩が全面的に禁止された事は、先生もご存じでございませう。

 鷹狩とは、鷹を狩る行事では無く、鷹を使役した狩猟方法に御座います。古来より、権力者の下で活発に行われてきたものと伺っておりますが、仏教の広まりにより、其れは数々の時代を揺るがす動きとも成るやうな思想の分断のきっかけのひとつともなったとか。

 はてさて、同じくして仏門の教えにある五戒(五つの戒め)にある不殺生の思想により、放生会と云ふものが此の国に広まった事もご存じでせう。此れは慈悲の実践、捕らへた生き物を野に放つ行事にございます。

 此処、不知森の奥には、生き物を放つ放生池が在りましてねぇ。鯉や亀、多くの魚たちが放されて居りました。

 いつからの事にございませうか、鷹狩の禁止のお触れが出た頃にございませうか。此の地には縁起の良きものとして、鳥見が丹精込めて育てた鶴が放たれたのでございます。鳥見は、其れは其れは己れの育てた鶴を可愛がって居りました。

 放生池での殺生は禁忌。そして、此の場所には鶴に亀と、縁起の良い生き物たちが、鳥見が世を去った後も仲良う暮らして居ったのです。

 さて然し、そんな時も永くは続きませんでした。綱吉公の死後、生類憐れみの令は廃止され、鷹狩も復活してしまったのです。

 鶴御成つるおなり——と云ふものをご存じですか?

 鶴を捕らへて朝廷に献上する、鷹狩の中でも最上のものにございまする。寒の入りに鳥たちの集まる場所に鳥見を置き、餌を与へて慣らしたのちに、将軍さまの目の先にて鷹に追わせるのです。

 捕まった鶴は、其の場で臓腑を出され、塩を詰められ朝廷に献上されます。当日の午餐には、鶴の生き血が酒と共に振る舞われるのが通例となりました。

 鶴にとってはどんなに無念だった事でせうか。あゝ先生に、其の痛みや苦しみがどれ程であったか想像もつきますでせうか。

 鶴を捕らへた鷹匠には、金五両が与へられたと伝え聞きまする。誉れもさぞ、多かった事にございませう。

 其処で、ひとりの鷹匠と其の一族はふと思ひついたのですよ。特定のしろ(鳥たちの下り集まる場所)は限られております。ややあって鳥たちに其の場所を警戒されてしまわば、又ひとつ、ひとつと鶴御成のできる場所は限られてまいりませう。其れならば——鷹匠が目をつけたのが、この不知森でありました。

 此の地に在った放生池は、其れは其れは酷い有様と成り果てました。鶴と亀を後ろから——滑るとはつまり、手に掛けると云ふ意味にございます。

 先生、お分かりになったでせうか。先生こそ、此の場所に尤も足を踏み入れてはならぬお方にございました。忠告を申しあげましたが、先生の御心には届かなかった模様で。然し此れも又、因縁の為した道理なのかもしれませぬ。不言を守ろうとも、既に遅しでございます。此処より先生は、底なき苦しみを幾年と歩むこととなりませう。


 囲め、籠め、かごの中の鷹はそうやって

 いついつ放たれるのでありませう

 夜明けを迎えど晩のやうに命の暮れる日に

 鶴と亀はすべってしまった


 そう——うしろの正面は、おまえだ。

 

 鶴は千年、亀は万年。其の怨みつらみは末代までと。

 男は外へと手を伸ばした。

 ざわり、と其の境界が翳った。然し、其処には、唯の藪が広がるのみであった。


   *


 五戒に反するものとでも云ひませうか。人の世には六塵ろくじんと云ふものがございます。衆生の煩悩を起こさせる世界、六塵の世界、此れ即ち境界と呼ばるるものにございます。

 殺生の戒められたる地で、其れを破る行ひが起きたとあらば。

 其処に、澱みより何かが棲もうたならば。

 其処はもう彼の世でも、此の世でも無き場所と成るでせう。


 故に、藪の向こうは——藪の中。

 踏み入ってしまわば最期。

 其の真の姿を知るものは、彼方側あちらがわには……誰ひとりとして居りませぬ。

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藪の向こう すきま讚魚 @Schwalbe343

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