片思い相手に夢を見る

真和里

片思い相手に夢を見る

 そこはなんの変哲もない放課後の教室。四十二セットの机と椅子が規則正しく並んでいる。いつもと変わらない。

 黒板の上には一週間の時間割、クラス目標の書かれた紙、丸いアナログ時計が並んでいる。

 私は教室の中央に立っていた。誰もいない教室にただ一人。特に目的があるわけでもない。いつの間にかこの場所にいて意味もなくただ立っている。

 ぼーっとしていると、急に背後に人の気配を感じてサッと振り返った。

 誰かの存在を感じた瞬間はゾワゾワと鳥肌が立つような恐怖を感じたが、相手の顔を見ると驚きの方が勝って思わず目が見開いた。

 それはクラスメイトの男の子だった。制服を着崩していて、身長は170cm前後と同年代の男子では平均ぐらいだけれども、150cmの私からするととても大きい。

 少し長めの黒髪と前髪の間から見える鋭い眼光。何より顔が整っていてカッコいい。この男子生徒を知らない人はおそらく私の学年にはいない。彼はいい意味でも悪い意味でも目立っているから。

和神わがみ君?」

 相手はニコリと笑った。肯定と捉えていいようだ。

 その彼のとてもいい笑顔に私は悪寒がした。私の知っている和神君はこんな風に笑わない。

「山口」

 名前を呼ばれた。声まで和神君と一緒だった。

 目の前の男子は私のクラスメイトの和神冬夜とうやだ。

 目の前の彼はどこから見ても和神君だ。しかし私の直感が、この人は同級生の和神君ではないという。

 この人は和神君なはずなのに和神君ではない。矛盾した思考が頭の中を駆け巡っていた。

 遠くから警報が聞こえる。ピッピッピッ。

 そのサイレンの音量が徐々に大きくなっていく。

 ピッピッピッ。ピッピッピッ。

 腕を伸ばしてベッドサイドにある目覚まし時計のアラームを消す。目を覚ますと、私のいる場所は放課後の教室ではなく朝の自分の部屋だった。

 夢か。

 重い頭を持ち上げ、上体を起こす。

 うとうととした夢見心地のまま、今見た夢を振り返る。

 とても悪い夢だった。甘くて怖い夢。

 最近、今日みたいな夢をよく見るようになった。毎回クラスメイトの和神冬夜君が出てくる。

春陽はるひ、早く朝ごはんを食べなさい。学校に遅れるわよ」

 お母さんが階下から私の名前を呼んでいる。時計を見ると時間は7時半だった。家を出るのは八時だからあと三十分もある。

 三十分?あと三十分しかない!

 まだ眠っていた脳が一瞬にして起きた。目覚まし時計を六時半にセットしていると思っていたが一時間ズレていたようだ。昨日の自分を呪った。

 急いで制服に着替えて、朝ご飯を口に詰め込んで、家を出た。

 通学路を進むと同じ制服を着た人が増えていく。

 十五分ほども歩けば見慣れた校舎が見えてきた。正門には反対方向からきた生徒達もいて、ちょうど沢山の人が学校に入っていく時間だ。私も生徒の波に乗り、学校の敷地内へと入った。

「春陽」

 おはようと明るい声をかけられる。

 下駄箱の前でクラスメイトで友達の愛花 あいか夏紀なつきと合流した。そのまま三人で教室へ向かう。

 階段を三階まで登って、教室二個分廊下を進むと目的の場所に着く。この市立中学の三年C組、そこが私の教室だ。

 教室に入ると今朝の夢を思い出す。人がいることを除けば、夢の中の教室と現実の教室はさほど変わらない。

 四十二セットの机と椅子が並んでいて、黒板の上には時間割表とクラス目標、それから時計。窓の外から見える校庭には朝練中の運動部員の姿がある。

「春陽は今日の宿題わかった?」

 机に鞄を置くなり夏紀から問いかけられた。

「最後の問題が分からなかった」

「一緒に考えよ」

 愛花も集まり、三人で机を囲んで宿題をやる。十分ほどで全員が宿題のプリントを埋めることができた。

「なんとか終わったー」

 夏紀が大きく伸びをする。時計を見ると朝の会まであと十分はあった。そのまま三人でお喋りをした。

「昨日のあの番組見た?好きな俳優が出てて」

 話が盛り上がっていると、いきなり私の座っていた椅子に強い衝撃が走った。

 ビックリして横を見ると男子生徒が立っていた。170cmほどの身長。少し長めの黒髪。制服を着崩し、スラックスのポケットに両手を入れている。和神冬夜だ。

「おいブス。邪魔だ」

「…和神君」

「聞こえなかったのか?そこをどけ」

 私が狭い机の間に座っていたので道を塞いでいたようだ。道を開けると、そのまま後ろを横切って去って行った。すれ違う時に体を思いっきりぶつけられた。痛い。

「横暴君主」

 愛花が呟いた。

 そうなのだ。私が夢の中の和神君に違和感を覚えていたのは、普段の和神君は夢の中の彼のように優しくないからだ。夢の中の彼のようにニコニコもしていない。

 このヒドイ和神君がみんなの知る和神冬夜であって、それ以外はない。だからこそ幻想と現実のギャップに恐怖を感じたのだ。

 朝の会の始まりのチャイムがなると、教室中がガヤガヤと慌ただしくなり生徒達が自分の席に座っていく。私も自分の座席についた。窓際の前から4列目。春の日差しが窓から入ってきて午後になるとさらに暖かくなって心地よい。最高の座席だ。

「邪魔」

 上から低い声が降ってきた。和神君だ。

「ゴ、ゴメン和神君」

 急いで机を引いた。チッと舌打ちをした和神君はドカッと私の前の席に座った。

 和神冬夜。私の通う市立中学の三年C組42番。私と同じクラスで出席番号が私の一つ後ろ。中学の入学式の日に初めて話し、彼と同じクラスになるのは今年で三回目、この三年間を同じ教室で過ごしている。今は私と座席が前後の関係だ。

 そして私の片思い相手である。

 ガラガラとドアが開いて、おはようございますという挨拶と共に担任の先生が教室に入ってきた。そのまま朝の会が始まる。

 日直の起立の号令で全員がたガタガタと音をたてながら立ち上がる。そして礼をして椅子に座る。それから先生の話に移った。

 最初はちゃんと聞いていたけど、いつもと変わらない内容に集中力を切らした。ふと前を見る。目の前には和神君の背中がある。

 なんでこんな奴のこと好きなんだろう。

 思い返してみても好きになった決定的な出来事があったとかではない。気になって気づいたら好きになっていた、が正しいと思う。自分のことなのに言語化しづらすぎて自分自身すらも納得させることができない。

 毎日『邪魔』や『ブス』など暴言を浴びせられているが、それでも嫌いになれない。

 別に私がドMってわけではない。言われるたびに言い返したくなる気持ちをグッと堪えて耐えている。ただ面倒くさいことに巻き込まれたくないから言い返さないだけだ。

 彼の口が悪いのは相手が特定の誰かではない。全員に口が悪い。ある意味では平等だ。つまり和神君は小学生男子のような好きな子をからかって興味を引くタイプではない。

 毎回私に暴言を吐いたりするのは別に私の気を引きたいからじゃない。和神君から見れば私は大勢のうちの一人でしかないだろう。だから彼に何かを言われたところで喜べないし逆に彼の世界ではモブだと認定されていると言われているようなものなので二重の意味で悲しむしかない。

 先生の話が終わった。同時に朝の会も終了した。

 すぐに一時間目の数学の準備だ。机から教科書とノートを取り出し机の端にそろえる。

 今日も一日が始まった。


 私は放課後の教室にいた。誰もいない静まり返った教室。整頓された椅子と机。時間割表とクラス目標と五時を指した時計。

 誰もいない校庭の上には青とピンクのグラデーションを施した空が広がり、窓枠に納まったその景色は一枚の絵画だ。

 その教室に今日も私と和神君の二人。

 和神君はいつも通りニコニコと満面の笑みを浮かべている。

 もう慣れてはきたが、やはり彼が笑っている顔を見るとゾワゾワして鳥肌が立つ。

 最近、彼は和神君そっくりな別人だと意識するようにしていた。

「山口」

 ニコニコな彼から声をかけられた。語尾を上げた、えらく機嫌のいい言い方だ。

 本当の和神君ならただのクラスメイトを呼ぶときはドスのきいた低く冷たい言い方、更に名前でなんて呼んではくれない。

「なに?」

「こっちに来てよ」

 和神君は手招きをする。

 指示に従って彼の横に行くと、和神君は私を抱きしめようと腕を伸ばしてくる。私はすぐに彼の腕を払った。

 いきなりのことで反射的に動いてしまったが、すぐに後悔する。和神君は拒絶されたことで何をするかわからない。いきなり怒り出すかもしれない。

 すぐに身構えたが必要なかった。和神君は怒るわけでもなく変わらずニコニコと笑ったままだった。

 本当にこいつは誰なんだ。

 こうして夢は覚めていく。

 この夢を何回も繰り返すうちに夢の中の和神君についてわかったことがある。

 一、見た目は本当の和神君と変わらず、『和神君』と呼ぶと応じる。彼自身が和神冬夜としての自覚はあるらしい。

 二、性格は真逆で、いつも満面の笑みを浮かべている。私が何をしても怒ったりせず、笑ったままだ。名前もちゃんと呼んでくれる。

 三、これが一番厄介なのだが、どうやら彼は私を甘やかしたいようだ。現実の和神君からは想像できないが、なぜかスキンシップをとりたがる。手を繋いだり抱きしめたりしようとしてくる。そのたびに避けてはいるが全然諦めてくれない。

 夢は自分の願望を映し出すなんて言うけれども、私はこんな和神君を望んではいない。むしろ毎朝無駄な疲労を感じるからやめてほしいものだ。

 はぁー、溜息を一つ。

 考えても無駄だという結論に至った。そもそもなぜこんな不可思議な夢を見るようになったんだっけ。

 確か和神君と最初に話したのは入学式の日。ただその後は授業内での班活動で少し話し合う程度で、普通のおしゃべりというのはしたことがなかった。私たちはただのクラスメイト。

 ただ一つだけ鮮明に覚えている和神君との出来事がある。それは二年前、私たちが中学一年生の頃のことだ。私が廊下を歩いていると前方をフラフラと足取りの悪い女子生徒が歩いていた。

 大丈夫だろうかと心配した矢先、その子が倒れてしまったのだ。彼女の元へ急ごうとしたその時、廊下の先に人影を見つけた。それは和神君だった。

 どうやら女子生徒で隠れていて見えていなかったが、たまたまこちらに歩いて来るところだったようだ。私よりも僅かに和神君の方が倒れた彼女に近い。

 ただ和神君のことだ、そのまま素通りしてしまうかも知れない。そう思いながら駆け寄っていたが、和神君の方が彼女の所に先に着いた。

「立てますか?」

 和神君がしゃがみ、軽く彼女を叩きながら問いかけていた。少しだけ反応があった。

 ちょうどその時に私は彼らの元に着いた。女子生徒の顔は真っ青で体調が悪いことが一目でわかった。

「立てますか?」

 和神君がもう一度問いかけると、さっきよりはっきりと反応があった。意識はあるようだ。

 和神君は彼女の状態を起こし、脚で支えた。そして彼女の腕をとり、自分の肩に回した。相手の腰をとって立ち上がらせる。

「どうするの」

 いきなりのことだったので問いかけると

「保健室に連れて行く」

 とただ一言。そして彼女の歩幅に合わせて歩き出す。

「私が連れて行こうか?」

 女子同士の方が相手に気を遣わせないのではないかと思ったからこその発言だ。

「お前にこの人運べるの?」

 正直わからなかった、というか考えていなかった。

 よく見れば相手は私よりも背が高い。上履きの色から先輩だとわかった。

 私は体力にも筋力にも自信はない。今ここで引き受けたとしても、保健室に着く途中で私が連れていけなくなっては相手にも迷惑だ。

 黙った私をそのままにし、和神君は先輩を連れてさらに歩き出す。保健室の方向だ。

 私も彼らの後に着いて行った。ただ和神君の後ろをついて行く。この時は何もできない自分が悔しかった。

 保健室に近づくと養護教諭の先生が変に思ったのか急いで近づいてきた。和神君は先生に事情を話しながら先輩を先生に引き渡した。

 先生が言うには先輩は貧血だろうとのことだった。

 先生からお礼を言われた。和神君だけでなく、ただついて来ただけの私も一緒に言われた。

 無事すべてが終わった後に気になっていたことを和神君に聞いてみた。

「和神君はなんで先輩を助けたの」

 質問の意図がわからなかったのか考えているのかわからないが、数秒の沈黙の後

「当たり前のことじゃない?」

 そう言って去って行った。

 意外といいとこあるじゃん。今までクールで冷たい印象の強かった和神君の行動に心底驚いた。勝手に持っていた彼のイメージを変えるべきだと思った。

 それからも私と和神君のただのクラスメイト同士という関係は変わらなかった。変化は私が和神君に話しかけることが少しだけ怖くなくなったことぐらいだろうか。

 しかし、それから数ヶ月後に和神君は今のような暴君となった。とても今まで通りというわけにもいかなくなった。何をされるか分からないから極力避けるようになった。

 その時期に初めてあの夢を見た。

 東から太陽が昇る時刻の朝の教室。蛍光灯が一切つけられてない空間を朝日が満たしていた。そして和神君が私の前に現れたのだ。

 それから現実の方で和神君を観察するようになった。観察と言ってもただ暇な時間に眺めているだけだ。

 なぜ彼が私の夢に出てくるのか。なぜあんなにも現実と離れすぎているのか。

 この疑問を解決する糸口が欲しかったのだ。

 半年ほどすると和神君のことをよく考えるようになった。いま彼は何をしているだろうか。何を見て、何を感じて、何と言っているだろうか。気になって仕方がなくなった。

 これを世間一般でなんというかは知らないが、世の女の子達が夢中になる恋というものが一番近いと感じた。それから私は和神君に恋をしている。叶わない恋を。


 ここは夜の教室だ。黒板上の時計は九時を指している。規則正しく並んだ机と椅子、変わらず掲載されてる時間割表とクラス目標、そして時計。窓の外の校庭の上には雲のかかった淀んだ空。今夜は月も星も見えない。

 校舎全体の明かりはついていない。どの教室もどの廊下も階段の踊り場も全ての照明は消されていて闇の世界だった、この3-Cの教室を除いて。

 蛍光灯の白色が夜の景色に伸びて、少しだけ教室からはみ出している。明かりがついているのに怖く感じるのは『夜の学校』だからだろうか。

 いつもと変わらず教室には私と和神君だけだ。

 和神君は教室中央の机の上に座って、いつものように笑っている。さすがにもう彼の笑顔を見ても何も感じなくなってきた。慣れとは怖いものだ。今日も和神君からの執拗な攻撃をかわす。

 ふと外の景色に目がいった。特に代わり映えのない曇天の空。

 一番初めにこの夢を見た二年前は快晴の朝の教室だった。それから和神君の夢を見るたびに教室の時間も徐々に進み、朝から正午、夕方を経て夜まで来てしまった。

 さらに進んだらまた朝になるんだろうか。それとも闇夜に落ちていくのだろうか。 そして目の前の和神君は消えてしまうのだろうか。

 一度たりとも夢の中の和神君を現実の彼に置き換えたことなどない。きっと目の前の和神君は私に優しくしてくれるだろう。椅子を蹴らないし、体当たりもしてこない。

 言葉は柔らかくなり、『ブス』ではなくちゃんとした名前で呼んでくれる。

 見た目は同じなのだから優しい方がいいじゃないか。夢に溺れてしまった方が楽なのに、ずっと拒み続けてきたのは私のプライドだ。好きな相手に理想を押し付けるようなことはしたくない。



 二十一時の教室の夢を見てから一週間が経った。

「今日も見なかった」

 ここ数日、和神君が出てくるあの夢を見なくなった。最近は週に2回は見ていたのに、きっぱりと止んでしまった。

 あの夢を見たところで疲れてしまうだけだからいいのだけれども。

 最初はそんなことを思っていた。ただそんな単純な話でもなかった。

 空気がムシムシしてきたこの時期、生徒達の制服は冬使用から夏使用に変わり、学校全体がブレザーの紺一色の景色からワイシャツの白が広がるようになった。今日の3-Cの教室は特別いつもと変わったことはなかった。

 あいかわらず和神君は口が悪く、手当たり次第に暴言を吐いている。

「邪魔」

「ごめんね」

 いつもと同じように和神君が座席に着くために、私は必要以上に机を引く。中途半端だと舌打ちが飛んでくることは、席替えをした初めの方に経験済みで知っている。

「和神」

 和神君の後ろからついて来た男の子が和神君の机にドサッと遠慮なく座った。彼も和神君と同じようにこの学年で知らない人はいないと思う。学年を超えても有名だったりする。

 鈴木弘人ひろと 君。彼もクラスメイトでこの三年C組の十九番。暗めの茶髪で身長は和神君と同じか少し高いぐらい。

 いつも和神君と一緒にいて多分二人は仲良しなんだろう。彼も和神君と同様にあまりいい噂がない。

 二人が目の前でお喋りをしている。私はその二人をぼうっと眺めていた。

 和神君の夢を見なくなって困ったこと。それは前より和神君を目で追うことが増えた気がすることだ。しかも無意識に。

 午後の授業中は比較的寝ていることが多い。数学で解法を考えているときはペン回しをしている。多分癖になっているのだろう。

 和神君はペン回し上手だな。私も真似してみたが、一回転する前にシャーペンは手から滑り落ちた。もうやらない。

 和神君が教室から出て行くだけで、どこに行くのだろうと考えてしまう。別に和神君がどこにいようが私には関係ないのに。

 鈴木君達と話していると、何を話しているのかと気になってしまう。分かったところで会話に入ることなんてできないのに。

 前より和神君の発言や行動が気になって仕方がない。



 梅雨が明けて夏になった。

 ジメジメした空気から一転、カラッと晴れた太陽に肌が焼かれ、少し外に出ただけで尋常じゃないほどの汗が吹き出す。制服のワイシャツが肌にはりついて気持ち悪い。これでまだ初夏だというのだから夏は恐ろしい。

 最初は最高だと思っていた窓際の座席は南の窓から直射日光が当たるためとても暑くてこの時期は最悪の場所だ。暑すぎるためカーテンをしているが、風が吹くたびに舞ってしまうカーテンが邪魔で鬱陶しい。早く席替えをして教室中央のクーラーのあたる場所に行きたい。

 中休みに愛花と夏紀とクーラーの風が一番あたる教室中央に避難してお喋りをしていた。皆同じく暑さには耐えられないようで教室内で一番人が密集していた。

「和神せんぱ~い」

 中休みが始まって十分ぐらいが経った時、廊下に女子の甘ったるい声が通り抜けた。

 とても大きな声だったので教室にいても鮮明に聞こえた。数秒後、制服を着崩したギャルのような数人の女子生徒が教室の前を走り去っていく。

 和神君のことを先輩と言っていたということは、あの子達は同級生ではなく後輩だろう。彼女達の過ぎ去った後をぼうっと眺めていた。

「和神冬夜、いま人気らしいよ」

 突然の愛花の一言で現実に戻った。

「元々じゃない?」

 顔だけはいいからと夏紀。

「今まで以上にモテてるの。それこそ他学年にも。ほら、あいつ皆にブスって言ってるでしょう。あいつに『可愛い』を言わせたくて自分に自信のある子はああやって絡んでるの」

「へぇ」

「なんで愛花がそんなこと知ってるのよ」

 夏紀が愛花に聞いた。

「図書委員の仕事で放課後に図書室いるとあいつがくるんだよね」

「和神君が?」

 愛花に反射的に聞き返してしまった。

「そう。でもあいつに釣られて他の人たちも来るから、毎回うるさくなって声かけなきゃいけないの。仕事が増えるから来ないでほしいんだよね」

 愛花は図書委員をやっていて昼休みと放課後に図書室で仕事をするのは図書委員の仕事だ。当番制らしく週一回の割合で仕事が振られているらしい。

 和神君は図書室によく行くんだ。本が好きなのかな。

 愛花の悩みには申し訳ないが私は頭の中でそんなことを考えていた。

 私達が入学したばかりの頃、和神君は話題になった。

『一年生にイケメンがいる』といって連日噂になったし、教室の前の廊下には他クラスの女の子達が意味もなく立ち並んでいたこともあった。最初はなんともなく今のように和神君に悪い話がついていることもなかった。

 いくらアプローチしても誰とも付き合ってはくれない、そんな噂だけだった。しかし気づいたときには和神君は他人を悪く言うようになった。今のように誰彼構わず『ブス』だと言い放つようになった。そして彼の評判は下がり、少なくとも学年には和神君を狙う人は居なくなった。

 少し安心していたが、また和神君の人気が再熱してしまったようだ。

 後で廊下に出ると端の方でさっきの女子生徒達に囲まれた和神君と鈴木君を含んだ集団がいた。とても興味のなさそうな態度の和神君に飽きずにアタックし続ける女の子達。

『自分に自信のある子はああやって絡んでるの』

 さっきの愛花の言葉が反芻した。

 確かに和神君達の周りにいる子は皆に可愛い。

 そんな彼女達にも無反応な彼は絶対に私なんかには目も向けない。胸の奥がムカムカする。どんなに先がないと分かっていても想い人が女の子達に囲まれている姿は心地よいものではない。目を背けたまま廊下を歩いた。

 初めて和神君が後輩の女の子達に囲まれてるのを見てから一週間が過ぎた。

 未だに和神君の夢を見ていない。もう見なくなってから一ヶ月ぐらい過ぎた。

 現実の和神君は何も変わらない。今日も後輩に囲まれている和神君と鈴木君の姿を見た。もう見たくないからと顔を逸らして、愛花と夏紀との会話にも話題にならないように発言に気をつけていた。


 そしていつの間にか夏休みになっていた。七月の下旬から一ケ月後の八月の三週目まで学校から解放された。

 毎日和神君が後輩の女の子たちとおしゃべりをしているのを見て、モヤモヤしなくてもいいと思うと、気分が軽い。

 今年の冬には高校受験を控えている、つまり私は受験生なのだ。

 私は行けるところに行こうというスタンスなので、レベルの高い高校を志望するつもりはなかったが、夏休みは夏期講習で日中から塾に通った。

 学校の夏休みの宿題と塾の宿題で意外と忙しくて、しばらく和神君のことは私の頭の隅に行っていた。

 夢を見た。約二ヶ月ぶりに夜の教室で和神君と会った。

 和神君はいつものようにニコニコしていたが、どこか不満げな色も醸し出していた。

「山口は俺のこと忘れてるよね」

 頬を少し膨らませて、あざとい表情をしている和神君は、さすがイケメンというのか様になっている。

「別にそんなことはないけど」

 図星を突かれて語尾が弱々しくなり、目線を彼から背ける。

 腕に強い痛みが走って、思わず顔を向ける。私の腕は和神君に握られていた。和神君は私の腕を握る手に力を入れて、私の顔をまっすぐ見ている。

 少し長めの黒髪から覗く瞳はいつものように鋭くて、でもどこか頼りない。縋っている子供のような表情をしている。

「もっと俺を見てよ、春陽」

 わっ!と自分で発した大きな声で目が覚めた。

 ベッドサイドに置かれた目覚まし時計で時刻を確認すると、朝の三時二十六分。二度寝することを決める、がさっきの夢で頭がいっぱいでそう簡単に眠れない。

 今までは名字で呼んでいたくせに、急に下の名前で呼ばれて驚いたのだ。

 そう驚いたから心臓が早くなっているだけで、すぐに気持ちが落ち着ついて心拍数も下がるはずだから。

 夢の中で和神君に掴まれた部分をなぞる。現実には痛みなんて感じていないはずなのに今でも痛みが残っている感じがする。和神君が握りしめたの手の跡が残っている気がするのは気のせいだろうか。

「寝れないよ」

 二度寝を諦めて、目だけをつぶってさっき見た夢を考える。あの和神君は何がしたかったんだろうか。

 せっかく忘れていた和神君の存在が大きく私の頭の中を占めるようになった。



 夏休みが明けても和神君と鈴木君が休み時間の度に後輩の女子に囲まれている光景は変化がなかった。またモヤモヤする日が続きそうだ。

 学校と塾が終わって、晩御飯を食べ終わった夜の八時半過ぎ、家でテレビを観ながらダラダラとしていたらお母さんにお使いを頼まれた。

「ちょっと買い物してきてくれない?」

「何を買ってくればいいの」

 お母さんに買い物リストとお金を渡された。

「余分なお金で好きなもの買ってきてもいいよ」

 その一言で面倒くさく感じていたお使いに喜びを感じた。コンビニまでの道ではずっと何を買おうかと考えていた。

 夜といっても夏の夜だ。昼間よりはマシだけれども相変わらず暑いし、ムシムシしてて生暖かい空気が漂っている。たまに頬をかすめて流れていく涼しい風が気持ち良い。

 コンビニに着くと店内はすごく空調が効いていて涼しかった。頼まれた物を順々にカゴに入れ、最後にアイスを入れた。お風呂の後に食べようかな。そんなことを思いながら買い物を終わらせて家へと急いだ。

 コンビニから家までの間にちょっとした近道がある。道路から家一軒分を挟んだ内側にある小さな公園のような小道で両サイドにはベンチと小さなブランコ、高さの違う三種類の鉄棒がある。夜なので街灯が灯り、灯りに群がる小さな虫の影がある。ミーン、ミーンと蝉の鳴き声が、蒸し暑い空気を切り裂く涼しい風に乗って聞こえてくる。

 ベンチに人影があった。男性のようだ。

 背中が丸まっているせいか、あまり大きくない影は同じぐらいの年齢かも知れない。

 嫌な予感がした。それはベンチに近づくにつれて強くなる。そして、人影の前に着くと嫌な予感は最悪の現実になった。

「和神君」

 少し尋ねるように声をかけた。無意識に違ってくれと願っていたからだろう。

 ベンチに座った男性は顔をあげた。その顔にはいつもより暗い気がしたのは、夜だったからだけではないと思う。

「山口?」

 いつもならこの顔を探しているはずなのに今は見たくなかった。いつも自信のある彼の姿を毎日見てきたから、こんな落ち込んだような姿を見たくなかった。

 私が声をかけた人物は和神冬夜、本人だった。今まで学校の外で会ったことはなかった。いつも制服姿しか見たことがなかったので、私服を着ている和神君を見るのは新鮮だ。

「何してるの?」

「山口には関係ないよ」

 彼はまだやつれた顔をしていた。そんな顔をして心配しない訳がない。

「あっそ」

 私はベンチの空いている方に腰掛けた。和神君はとても嫌そうな顔をした。

「山口には関係ないっていってるじゃん」

 声も凄い嫌そうだ。けどそんなことは気にしない。

 そういえば和神君は私のことを「お前」ではなく「山口」と名前で呼んでいる。夢の中の和神君みたいで、場違いにも懐かしいさを感じた。

「私はこのベンチでアイスを食べるためにきたの」

 もちろん嘘だ。元々アイスは家で食べる予定だった。

 手に持っていたビニール袋からアイスを取り出す。私の大好きなアイスバーだ。袋からは少し溶け始めた長方形のアイスが出てきた。

 そのまま口に放り込んだ。

 和神君はずっと私を無言で見ていた。とても居心地が悪かったので私はもう一度ビニール袋に手を突っ込んでアイスを出した。

 大好きなアイスバーの期間限定、スイカ味だ。私がコンビニで見つけて楽しみにしていたアイスだ。それを和神君の方に差し出す。

いるひる?」

 口にアイスを入れたままでは話しづらい。間抜けな感じになってしまい、恥ずかしかったが気にしていないフリをした。

 和神君は値踏みするような目をしてアイスを見ていた。

「それは山口のアイスじゃん」

「いきなり来て和神君が先に座ってたのにベンチに座っちゃったし、和神君の気分を悪くしちゃったかなって。そのお詫び」

「そう言うことなら」

 和神君は疑いがちだったが手を伸ばしアイスを受け取った。2人は無言でアイスを食べていた。蝉の鳴き声だけが空間を満たしていた。

 ちょうどアイスを全部食べ終わったとき、和神君は下を向きながら聞いた。彼の目線の先には食べ終わって残ったアイスの棒があった。

「山口はなんでこんなことするの?」

「なんでって?」

「俺はいつも山口にブスって言ってるし冷たくしてるつもりだ。俺のことを嫌いになって然るべきだと思う。でもそんな俺に山口はアイスをくれた。山口にはなんもいいことはない、だろ?」

「それは」

 それは私が和神君のことが好きだからに決まってるでしょ。好きじゃなかったらただのクラスメイトにこんなことしない。無視して帰ってたよ。でも誰でもない和神君だったから声をかけたんだよ。って直接言えたらいいのに。

「知ってる人が落ち込んでいるように見えたら放っとけないでしょ」

 本心を押し殺して、そう告げた。

「やっぱり山口はいいやつだな」

「やっぱりって?」

「クラスでよく人のこと助けてるのを見る。宿題手伝ってあげたり頼まれたら放課後の掃除当番変わってあげたりするのをよく見る」

 思わず声が出そうだった。なぜ和神君がそんなことを知っているのだろうか。彼は基本人に興味がなくて、見境なく周りにブスだと言う最低な人ではないのだろうか。普段の和神君からは想像できない発言だった。

「私も聞いてもいいかな。なんでこんなところにいるの?」

 シーン。と静まり返った。

 さっきまで聞こえてた蝉の声もない。

 空気が凍りついたような気がした。聞いてはいけないことだったのかもしれない。少し話せたからって調子に乗って要らないしことを聞いてしまった。

「和神君が話したくなかったら別にいいよ」

 はぐらかすつもりで言った言葉はだいぶ弱々しい。

「アイスのお礼もあるし話すよ。ただちょっと時間を貰える?」

 和神君は苦い顔をしている。

「分かった」

 それからまた数分の沈黙が続いた。でもさっきまでの重たい空気はなかった。

 隣で呼吸を整えながら心を落ち着かせている和神君がいる。多分今から彼が話すことはとても重たくて彼の大きな悩みの一片なのかもしれない。私もそんな大きな内容を受け入れられるように心の準備をした。

 とりあえず心を落ち着けようと深呼吸を数回繰り返した時、和神君が話し始めた。

「ここには心を落ち着けたい時に来るんだ。この時間帯になればほとんど人は通らないから」

 確かに今ぐらい遅い時間ならば出歩いている人は少ない。外灯もあるがその光は弱々しく、わざわざこの道を通るのは私みたいに近所の人で近道をしたいと思ったせっかちな人ぐらいだろう。しかもこの道は道路から家を挟んで内側にあるため車に乗っている人がいたとしても気づかれない。

「ずっと考えているんだ。周りの人間は俺に何を求めていて俺は周りに何を求めているのか。大体の奴は俺の見た目を求めて俺に近寄ってくる。俺はそれが心底嫌いだ。でも、どうしたって俺に集まってくる奴らは俺の顔にしか関心がない」

 悲痛な声だった。彼の本当の姿の一部を見た気がした。

「昔からそうだった。友達だと信頼していた奴らは俺の見た目が目的で近づいて来ていた。そのことに気づいた時、俺は怖かったよ」

 話進めるたびに震える和神君の声。私はかける言葉すら思いつかず、ただ見守っていることしかできなかった。

 日中はあんなに横暴で誰に対しても暴言が過ぎる和神君が、まさか裏では悩んでいたなんて知るはずもなかった。そして毎日姿を追っていたはずなのに彼が悩んでることすら気づけなかった自分が悔しかった。

「だったら最初から他人が寄りたくないようにすればいいんじゃないかって思った。そうすれば無駄に他人に期待して幻滅することもなくなる」

 私の中でピースが徐々に繋がってきている。中学入学当時はこんなに暴言を吐くような人ではなかった。多分その時の彼は素の姿だったのかもしれない。けれど二年生に進級してから態度がおかしくなった。今のような言動をするようになった。

 あまり深く考えてこなかったが、この時に和神君の何かが変わったという風に考えるのは妥当だった。

「周りに暴言を吐くのは相手が近寄ってこないようにするため?」

「そう」

 彼の不可解な行動の変化のわけが完璧に繋がった。

「こうした方が手っ取り早いと思った。皆が俺のこと嫌いになればわざわざ近づいてこない」

「でもこのままだと和神君が悪者って勘違いされたままだよ。もっと他の方法もあるんじゃないかな」

「ないよ。それに俺は悪者でいいんだ。やっていることが最低なことだってことも自覚しているし」

『自分に自信のある子はああやって絡んでるの』

 愛花の言葉が脳内で再生された。

「それ逆効果だよ。最近和神君の周りに後輩の女の子達が寄ってきてるんじゃない?それは和神君の暴言が原因らしいよ」

 私はこのあいだ愛花から聞いた話をそのまま和神君に話した。

「マジかよ」

 はぁー。和神君は大きなため息をついた。

「一応気づいてたんだよ。最近女がいっぱい来るって。でもすぐにいなくなると思って、そのままにしてたんだけど」

「今の感じだと当分変わらないと思うよ」

「あーー」

 和神君はベンチの背もたれに体を預けて空を仰いだ。とても脱力していた。

 予想と違った結果になり落ち込んでいているのかもしれない。

「これからどうするの」

「もうどうにもできないでしょ。この一年間周りに強く当たってきたんだから、今更変えても逆に気持ち悪い」

 和神君は苦笑いしていた。もう全てを諦めているような顔だ。

 口角は上がってはいるが、今までの話を聞いてきた私にとってその笑顔は苦し紛れの痛々しいものだった。

「もうどうしようもないよ。でもそれで和神君が傷つくのは違うと思う」

「俺は加害者だぞ。被害者のお前たちがそんなこと言ってる余裕あるの」

 わからない。何が正しくて何が間違いかなんて私達のようなただの中学生にはわからない。

 どんなに大人のように行動したって所詮は子供だ。そんな子供な私だから思う、けして和神君はただの加害者じゃない。加害者のふりをした被害者だったんだ。『顔が良いこと』が悩みだなんて、他の人には気持ちがわかってもらえないだろう。私にもわからない。

 だから和神君は共感が得られなくて、孤独になってしまったのではないか。

 あの日常の暴言は一種のSOSかもしれない。『もっと俺を見て。見た目だけでじゃなくて本当の俺を見て』と和神君が無意識に叫んでいたのかもしれない。

 私の夢もそうだ。あれは和神君の本当の姿に気づいてという和神君からのSOSだったのかもしれない。こう考えるのは強引で都合のいい幻想かもしれない。ただ和神君を救いたいと思う気持ちを私に持たせるには十分だった。私は和神君のために何ができるだろう。

「もし辛くなったら今日みたいに私に言ってよ」

「…山口を巻き込みたくない」

 和神君の優しさが痛い。当たり前のことながら私は和神君からの信頼を得ていないようだ。

「全く関係のない私の方が話しやすいこともあるんじゃない?もし和神君から話をしてもらっても絶対に誰にも言わない」

「根拠は?」

「私口が堅いの」

 和神君はフッと笑った。

「それって口の軽い人が言うやつじゃない?」

 あっと言った私に和神君はさらに笑った。

「ありがとう。今日も最初は山口にこの話をするのは乗り気じゃなかった。でも話したら体が軽くなった気がする。肩から余計なものが降りた感じ」

「それは嬉しいな」

「山口が嫌じゃなければ、また話聞いてくれる?」

「もちろん」

 和神君が私を頼ろうとしてくれたこと、それだけで嬉しかった。私でも和神君の役に立てるかもしれない、その事実が嬉しかった。

 時計を見ると買い出しに家を出てから一時間経とうとしていた。和神君の横に座った直後にお母さんには『遅くなるかもしれない』と連絡を入れておいたけれど流石に心配しているだろう。

「よし、帰ろうか」

 ベンチから立ち上がり身体を伸ばす。和神君の方を向くと、彼はベンチに座わったまま真っすぐ私のことを見ていた。

「最後に聞いてもいい?」

「うん」

「山口はなんで俺にこんなことしてくれたの」

 それはこのベンチに座ってから和神君から最初に聞かれたものと同じ内容だった。しかし質問の意図がわからなかった。

「さっきも言った通り、知ってる人が落ち込んでるようだったからだよ」

 和神君もベンチから立ち上がり、こちらに体を向けた。お互いが向かい合う状態になった。

「俺は山口みたいに優しい人間じゃないからお前らみたいな奴らが何を考えて行動しているかは知らないけど、ただの知り合いってだけでこんなにしてくれるものなの?」

 きっと和神君は前の解答で納得できなかったから再度同じことを聞いてきたんだ。

 もう隠せない、そう思った。その瞬間なぜこの気持ちを隠しているのだろうと私の心の中で疑問が生まれた。

 和神君に嫌われることがいやだったから?それは違う。最初から嫌われていると思っていた。それは覆せないことだともわかっていた。

 周りにからかわれることが嫌だったから?それも違う。確かに嫌だけれど愛花や夏紀なら応援してくれると信じてる。それに私はそこまで目立つ存在ではないから、たとえ一瞬の注目が集まったとしても皆から私への興味はすぐになくなるだろう。からかわれるって言ったってたかが知れている。

 では、なぜ?

 いくら考えても答えは一つしか思いつかなかった。

 この気持ちがバレることで和神君に引かれて、今のような暴言すらかけられなくなることが想像するだけでも辛いことだからだ。でも、もう隠さなくてもいいんだ。

 少なくともこんな仲良くもない私に悩みを話してくれた和神君には本当のことを告げなくてはいけない。

「さっきから和神君は私のこと優しいって言うけど、私はそんな褒められた人間じゃいよ」

 深呼吸を一つしてお腹に力を入れる。

「好きだから」

 とてもはっきりとした声で告げた。心臓がバクバクして身体の内側で反響する。和神君にも聞こえているかもしれない。それぐらいの爆音。

「私は和神君のことが好きだから。だから好きな人には落ち込んでいてほしくないし、困っているなら助けてあげたい」

「今の話を聞いた後でも同じことが言える?」

「うん」

「さっきの話で俺に幻滅しなかったの」

「するわけがない」

「俺すごいカッコ悪いよ。顔しか取り柄がないよ」

「そんなことないよ」

「そもそも俺と山口って全然接点なかったよね。やっぱり山口も俺の見た目が好きなの?」

「それはわからない。私だってなんで和神君のことが好きなのかなんてわかんないよ。でも気づいたら目で追ってて、和神君のこと考えてて」

 頭の中がどんどん和神君のことで浸食されていった。これはさすがにひかれそうだったので心に留めた。

「和神君のことが好きだってことはわかるんだ」

「山口って面白いな」

 和神君は笑った。

 初めて本物の和神君が笑ってるところを見た気がする。夢の中の和神君の浮かべるニコニコ顔よりも十倍いい。

 やっぱり和神君はカッコいい。本人は見た目しか取り柄が無いと自分の容姿を嫌っているようだけど、それも和神君の良いところで、けして短所ではない。和神君はカッコよくて、カッコいいから和神冬夜なのだ。

「俺に近づいてくる奴らの中で、俺自身が好きって言ってくれたの山口が初めてかもしれない」

 とても嬉しいその言葉に胸がポカポカした。嬉しすぎてにやけてしまいそうなのを頑張って抑えた。しかし次の和神君の一言の方が百倍嬉しかった。


「ねぇ、付き合ってよ」


 時が止まった気がした。

 頭の中で言葉を何回も繰り返し、理解しようとした。簡単な言葉なのにインパクトが大きすぎてなかなか頭に入っていかない。

 ようやく理解が追い付いた時、顔が一気に赤くなった。体温が上がっているのがわかる。

「こんなに想ってくれる山口が付き合ってくれたら、俺の中で何かが変われそうな気がするんだ。山口の気持ちを利用するような感じになっちゃうけど、どう?」

 嬉しいよ。でも和神君は私のこと好きじゃないでしょ。私が気持ちを押し付けたみたいじゃん。こんなその場のノリで決めるなんて後で和神君が後悔するやつじゃないの?私が和神君の足枷になるなんて耐えられない。

 どう答えるのが正解なのか分からない私は黙ってしまった。

「あー、こんな感じで俺は好意を利用しようとするサイテーな奴だよ。山口は断った方がいいよ」

 和神君は私の沈黙を気まずく感じてそう言った。

「もし私と付き合うことになったら、和神君は後悔しない?」

「しないよ。俺は山口だからこそ、この提案をしているんだ。俺は山口を好きだと断言できないし未来も約束はできない。すぐに別れることになっちゃうかもしれないけど、でも後悔はしないよ。誰かに好かれたいと思ったのは初めてなんだ」

 覚悟は決まった。

「いいよ、和神君。これからお願いします」

 私は頭を下げた。顔を上げて和神君を見ると彼は硬直していた。

「なんで断らないの。俺の言ってることすごい最低だったでしょ」

「さっきも言ったけど、好きな人には落ち込んでいてほしくないし私ができることなら助けてあげたいって思う」

 確かに和神君の申し出はサイテーだった。でも和神君もそれを理解した上で話しているということは、この話は彼にとってとても重要だということ。私が協力できるならしてあげたい。

 そもそも和神君と付き合えるとは思っていなかった。いつかこの気持ちがなくなって将来の笑い話になる予定だったのだ。もし叶うなら、この恋を叶えたいと思う。

「山口はいい人だな」

「だから私はそんなできた人間じゃないって。和神君が見てないだけで私もひどいところあるよ。でも和神君は私の良い面だけ見ていて。私は和神君の良いところを見てるから」

「それって顔?」

「ううん。今日知った本当の和神冬夜君。ひどい奴の皮の下にいた優しい君の本性だよ」

 私は精一杯の笑顔を作った。応じるように和神君も微笑んだ。

「こんな俺だけどよろしく」

「よろしく」

 和神君はわざわざ私の家まで送ってくれた。今まで何とも思っていなかった家までの道がいつもと違ってキラキラして見えてしまう。心が躍って跳ねてを繰り返している。

 あっと言う間に家まで着いてしまって残念だった。

 もっと和神君と話したい。彼の話を聞きたい。

「また明日ね」

「うん、明日」

 和神君は私が玄関に入るまで外で見ていた。

 リビングに行くと、家族全員が集合してテレビを見ているところだった。お母さんに買ってきたものを渡す。

「あんた遅かったね」

「クラスメイトとたまたま会って、おしゃべりしちゃった」

 間違ったことは言ってない。途中で連絡したとはいえ、やっぱり心配をかけていたらしい。これから気をつけよう。

 寝る支度を終えて自分の部屋に戻る。

 やっと1人になれた。さっきの出来事を思い出す。本当の和神君を見ることができた。多分学校内で唯一、彼の本当の姿を知っているのだろう。

『また明日ね』

 別れ際の和神君の声が頭の中で反響する。

 また明日。特に何もない普通の平日の明日が楽しみになった。

 興奮して眠れない。

 明日の和神君はまた笑ってくれるだろうか。きっと上辺の関係は変わらない。ただのクラスメイトとして過ごすことになるだろう。でも少しだけ期待してしまうのは何も悪いことではないはずだ。

 それからベッドの中でバタバタしていたが、疲れてそのまま眠ってしまった。スヤスヤと規則正しい寝息とともに深い眠りについていく。

 その日はとてもいい夢を見た。翌朝起きると夢の内容は全く思い出せなかったが、とても満たされた気分で幸福感に浸っていた。いつもと同じようでどこか違う一日が始まった。


 和神冬夜にはコンプレックスがあった。

 昔から顔がいいと言われてきた。近所のおばさん達からは将来イケメンになると数えられないほど言われてきた。その時はよく分からなかったからいつも聞き流していた。

 小学校では毎年、学年中の女子のバレンタインのチョコが集まってきた。手作りチョコ、市販の綺麗なラッピングがされたチョコ。チョコ以外にもクッキーやキャンディーにチョコマフィンなど沢山のお菓子が集まってきた。俺の中で二月中旬は沢山のお菓子がただで食べられる期間だった。

 同時に色んな子が寄ってきた。

 みんな俺のことが好きだと言ってくる。彼女達に俺のどこが好きなのかと聞いてみた。彼女らは口を揃えて『かっこいいから』と言った。

 俺に近寄ってきた奴らは俺をかっこいい、かっこいい、かっこいい、かっこいい、それしか言わなかった。

 かっこいい以外で俺に好きだと言ってくるやつは誰もいなかった。俺は好きと言われることに慣れて、好意に関してバグっていたのかもしれない。好きだと言われることが当たり前になっていた俺はさらなる何かを期待していた。

 中一の夏、俺に初めて彼女ができた。相手は隣の中学校の三年生。俺の幼馴染の姉の友達だった。幼馴染の家に遊びに行ったら、たまたま相手もその家にいたのだ。

 初対面から続けざまに強烈なアプローチをされ、流されるような形で付き合うことになった。相手のことをよく知らなかったので好きだったわけではない。

 ただ初めての恋人という存在に心の中で浮かれていたのも事実だった。年下というハンデを埋めようと、背伸びをして接した。

 毎日連絡を取った。相手が夜に電話をしたいと言えば疲れていても眠くても相手の気が済むまで電話に付き合った。

 デートでは大体のお金は出した。彼女ができたことを親に言うのは恥ずかしくて、隠していたからデート費用は全部自分の貯めていたお年玉からだった。

 記念日は細かく祝い、そのたびにプレゼントを贈った。中学生のプレゼントだから高価なものには手を出せなかったが、ハンカチやハンドクリームなど自分なりに調べて渡した。

 付き合い始めて半年が過ぎた日。この日も相手からの要望でデートをした。

 俺の一番好きな洋服を着て、髪もセットしてカッコよくキメた。余分なお金と事前に買っておいたプレゼントを持って出かけた。今日も喜んでくれるだろうか。

 自信があったので気持ちに余裕があって足が軽くなる。俺はまだこの日が最悪な日になることを知らなかったのだ。

 デート終盤、彼女が歩き疲れたというからカフェで休憩しているところだった。俺はお茶を、相手は見た目から甘ったるくて名前の長いフラペチーノを頼んだ。

 俺達は今日のデートについて話あった。楽しかったことや驚いたこと、次はあそこに行ってみたいなどの会話をした。ドリンクを半分ほど飲み終わったぐらいで彼女はずっと思ってたんだけどさ、と言って話題を切り替えた。

「もっとかっこいい恰好して来てよ」

 今までの暖かい雰囲気の会話との落差に俺はついていくことができなかった。

「今の冬夜といるところを学校の人に見られたら私が恥かく。冬夜は顔だけがいいんだから」

 思考がどんどん停止していくみたいだ。ゆっくりと聞いた言葉を順々に処理していく。

 やっぱりこの人も俺のことを見た目だけで選んだんだ。周りによく見えるように顔の良い俺は好都合だったのだ。こんなのただの生きたアクセサリーだ。

 俺は何のためにこの人に時間もお金も使って、毎日連絡してご機嫌取りをしていたんだろう。

 その後のデートの記憶はない。何のために、俺は何のために、と自問を繰り返していた。

 彼女を家まで送り届けた後、ダッシュで家まで帰った。そして家に着くなり相手の連絡先を全部消した。直接別れようと言うのは俺には高いハードルに感じられたので自然消滅を狙った。

 その後はわからない。多分別れることができたと思う。今思えばこんな曖昧な方法はやめるべきだったのに当時の俺には勇気が足りなかった。

 どうせ誰も俺自身を見てはくれないんだ。

 このデートの日を境に心の一部が壊れてしまった。多分その一部分は相手を信頼する気持ちだったんだと思う。

 誰かに期待して裏切られることに怯えるならば最初から誰かが寄らなければいいんじゃないか。裏切られた悲しみや傷心中の暗い気持ちが続いたからそう考えてしまったのかもしれない。

 それから学校では手当たり次第に他人に悪態をつき続けた。最初は心苦しかったが、おかげで寄ってくる人はいなくなった。

 これでいいんだと確信を持ってしまった。それからおよそ一年の間に俺の横暴ぶりは加速していく。周りから『横暴君主』と呼ばれていることは知っていた。知らないふりをしてひどい態度で居続けた。

 次々に学年でも悪い噂のある奴らが近寄ってきた。俺のことを仲間だと思ったみたいだ。そのうちの一人が鈴木だ。

 鈴木は何かと絡んできて、突っぱねても何回も絡んできたので、引きはがすことを諦めてそばにいることを許した。今や鈴木は学校内で唯一話すことができる友達だ。

 それから何となく過ごしていたらいつの間にか三年になっていた。桜が咲いたかと思えばいつの間にか若葉になって、ジメジメとした梅雨が終わり、蝉の声と入道雲が空に浮かぶ本格的な夏になっていた。

 そしてごく最近、ときどき何か重たいものに押しつぶされる感覚になった。正体はわかっていた。積もり積もった罪悪感だ。

 いくら自分に都合がいいからって関係ない人達を勝手に巻き込むことはいけないとずっとわかっていた。でもそれを行動に移すことができなかったのだ。

 周りが全員敵に見える。皆が俺に近寄ってきて、俺の顔を求める。そう思うと勇気が出なかった。

 最初から俺は自分の感情を出す勇気すら出ない弱腰のビビりだった。相手になめられないように見栄をはって過ごした。そして埋まらない溝を隠して、誰にも気づかれないようにした。

 でもどう頑張っても自分自身にも隠して欺き続けることはできなかった。その頃からに家の近くの公園に行くようになった。ベンチに座って何も考えずにぼーっとしている。ただ風を感じて遠くの車の音を聞いて座っている。そうするだけで一時的でも心が晴れた。

 その日も何の代わり映えのしない一日だった。夜はいつものように公園のベンチに座っていたらクラスメイトの山口に声をかけられた。

 初めて誰かに本音を話した気がした。ずっと一緒にいた鈴木にも話せなかったことをほとんど接点のない山口に話せたのは何故だかわからない。ただ山口になら話してもいいと思ってしまったんだ。

『好きな人には落ち込んでいてほしくないし、困っているなら助けてあげたい』と言って笑う山口を今も鮮明に覚えている。

 腐った俺には山口が眩しすぎた。でもそんな山口に憧れた。

 俺もまだ間に合うだろうか。そんなことをあの夜の公園で考えてしまったのだ。

 最低な提案をしたにも関わらず山口は俺を受け入れてくれた。そんな優しい山口に俺は応えなくてはいけないと思う。

 そして俺は今困っている。今日も廊下の端で後輩の女達が周りに集まっている。いつもと変わらない光景だ。もうこんな奴らとつるまなくたって俺には山口がいるのに。

 女の一人が俺の腕に自分の腕を絡めようとする。それに気づいた俺は急いで腕を払った。目の前にはなんでと訴える顔があった。きっと今までこの手のことで拒絶をされたことがないから驚いているのだろう。

「俺に触るな」

「和神いつも以上に態度悪くね?」

 鈴木が茶化しながら言う。

「俺、彼女出来たからこういうのやめてくんない?」

 空気が凍り付いた。その輪の中にいた鈴木や女達はもちろん、外にいて俺らの話を聞いていた人達もその言葉の意味が分からなかったらしい。

「絶対その女より私の方が可愛いもん」

 手を払われた女が叫んだ。

「俺のカノジョはクソ可愛いよ。お前と違って」

 俺は最後に舌をチラと出して、その場から離れた。

 背後から聞こえる女の叫び声に思わず笑う。内容はハッキリと聞こえないが、きっと俺を罵倒しているに違いない。少し意地悪しすぎたかな。

 俺はお前らになんと思われようとも平気だ。だって可愛くて、お前たちみたいに俺の外見だけじゃなくて中身も見てくれる彼女がいるから。

 彼が廊下を歩くと周りがザワザワとする。教室に入ると廊下での騒ぎが聞こえていたのか、教室いたほぼ全員が俺を見ていた。

 その中で一人の女と目が合う。

 山口春陽。俺の可愛い彼女。

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片思い相手に夢を見る 真和里 @Mawari-Hinata

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