** 腐臭の街 **
ナースステーションにあったカレンダーの曜日をもう一度チェックして、今日が確実に休日であるのを確認し、病院を出た頃にはすでに朝の九時をまわっていた。病院で一晩明かした──おまけになんやかやと一睡もさせてもらえなかった──おれは、まだ目覚めないナオミとナオミの母親を残し家へ戻ることにしたのだ。
病院のゲートをくぐった途端に弱々しくなる外来患者の間をすり抜け、太陽を反射してギラギラと輝く二重扉の正面玄関をくぐって外の空気を吸ってはじめて、昨夜から何も口にしていなく腹が減っていることに気付いた。胸のすぐ下の部分が捻り上げられているように痛む。
おれはタクシー乗り場を通り過ぎて、病院の向かいにあるファミリーレストランへ立ち寄った。
クリーム色の壁紙に、渋めのオレンジ色のソファ、白い天板の貼られたそっけないテーブルセット達がおれを迎え入れた。男も女も子供も年寄りも、前科者や人殺しや自殺未遂者さえも何者をも拒む意志のない、大量生産品に囲まれた万人に開かれたデザイン。天国というものがあるなら、きっとそれはこんなものだろう。その隅の席に天使には程遠い中年女の案内で腰掛けたおれは、差し出されたメニューの一番上にあったランチの、さらに一番最初にあったAセットをパンとアイスコーヒーで注文した。天使は愛想を振りまきもせずさっさと行ってしまった。
おれは取り上げられたメニューの代わりに、壁にかけてあったランチセットのポスターで頼んだばかりの内容を確認した。誰もが不味くなく食べられる冷凍ハンバーグと冷凍ベジタブルの盛り合わせ、それになぜかハーフサイズのカルボナーラがついてくる。いつ見ても奇妙な取り合わせだ、天国の食事というものは。そんなくだらないことを考えながら、料理より先に運ばれた、これだけはどうしても美味しいと思えないファミレス独特のアメリカンコーヒー──の水割り──を啜っていると、鼻の奥から喉をえぐるような……すりおろしたまま蒸し暑い納屋に放置した安物のパルメザンチーズのような匂いが漂って来た。臭気の元は禁煙席の奥に陣取った若い母子で、すぐに赤ん坊の吐いたミルクの匂いだと気がつかされた。母親はぐずる赤ん坊の口の周りをタオルでさっと拭うと、誰とも目を合わさないようにして足早にトイレへ消えた。辺りには気まずい空気──文字通り本当にマズい空気!──だけが残った。おれの向かいでスポーツ新聞を広げていた背広の男が新聞の影に隠れて舌打ちを一つ。
噎せ返るような母性の匂いと男の舌打ちが、やっと蘇った食欲をあっという間に削り取っていった。おれはきっちり一秒ためらってから、パスタが運ばれてくる前に(もしかしたらまだ冷凍フード用のレンジのスイッチさえ押していなかったかもしれない)ウェイトレスに詫びを入れ、千二百六十円の後悔を払って店を出た。病院に戻りタクシーを拾った次の瞬間には、マンションの前で運転手に肩を揺すられていた。自宅の冷蔵庫の中身を考えるには、おれはいささか寝不足すぎたようだ。
*
年を追うごとに老朽化の痣に侵食されていくおれのマンション。晴れた日に干した洗濯物がいつまでも湿っぽい北向きのおれの部屋。ヘドロまみれの貯水庫と錆びた給水管を通ったぬるい水が、洗ったばかりの顔に淀んだすじを描いている。水分を排出するばかりの皮膚は乾燥しささくれ立っている。昨日までは無かったはずの吹き出物が鼻の横で赤く膿んでいる。口の中で粘膜が死んでただれている。
日中には思わずスーツの上着を脱ぎたくなるほど温かくなる、春の終わりの一日のはじまり。ほどよい風が汗ばんだ肌を心地よく冷ましていく、そんな最高な日の朝。朝日の見えないおれの部屋。おれの洗面所。錆びた鏡の中のおれの顔。
「疲れた……」
耳の下側から聞こえる音がまるで他人の声のようだ。顔を洗っても、まだ目覚めた気がしなかった。
身体のあちこちから休息を要求するサインが出ていたが、おれはあと一時間で出社しなければならない。こんな状態で仕事をしたのではミスも多そうだが休むよりはマシ、休むよりはマシ、そう自分に他人の声で言い聞かせる。下着とワイシャツを羽織りスラックスにベルトを通してジッパーを上げる、そうして衣擦れの音が止んだとき、このままでは倒れてしまいそうで普段見もしないテレビをつけた。囲碁の盤面が小さな画面いっぱいに映し出される。何かの法則に沿って敷き詰められた白と黒の石と(おれは囲碁のルールを知らない)、無音というBGMをバックに抑揚のない女の声で淡々と読み上げられる意味不明のナレーション。おれはわかりもしないのに、ネクタイを首に掛けたまま小一時間囲碁番組を眺め続けた。
一日の活動が始まる音──誰かが道路に箒を掛ける音、商店街のシャターの開く音、低空飛行の雀の鳴き声、葉を霞めた朝の陽射しでアスファルトが温もる音──を、こんなにも不愉快な気分で聴いたことがない。朝からの呼び掛けが、これ程不快な刺激に思えたことはない。始まりの音なんて今のおれには不似合いすぎた。おれには腐った天国が相応しいのだ。おれは口の中でパチンと小さく舌を打った。その音は今日一日おれの身体から離れることはなかった。
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