** 見捨てないで **
毎月第三火曜日はナオミが病院へ薬を貰いに行く日だということを、おれは忘れていない。どの新品のカレンダーにも見えない丸印が付けられていて、おれに忘れることを許さない。
「敦抜きで会うなんて久しぶりじゃん」
郊外へ向かう大通りで、手にしたバッグをブラブラさせながら由美子は言った。
「どしたの、何か相談?」
「ああ、そうだんだ」
「……えぇと、なにそれ、ギャグ?」
「そうだんですよ」
「うわ。出た二連発。サムすぎるんですけど。もしかして蓮治君って、女の子と二人きりだとはりきりすぎてサムいネタ飛ばしまくる人?」
「どういう人だよ」
「あ、それはいつもの蓮治君だ」
おれは一緒になって手をブラブラさせながら、はたと気づいて──ふりをして──さりげなく言った。
「とりあえず腹減った、あのファミレスに入ろう」
最近おれはよく笑うし、人を笑わせようともする(自分でも信じられないような酷さだけれど)。感情の振れ幅をゼロにしようと努めれば努める程、まったく可笑しくもないのに笑いが零れる。心の端に隠して圧縮したはずの感情が、丸一日火にかけっぱなしだったビーフシチューみたく煮詰まって、時折隙間から漏れだすようだった。
目の前のファミレスに入った。腐ったミルクの匂いがするのは気のせいだ。
「窓際が空いてる。そこでいい?」
「え、別にいいけど、日に灼けるような場所は嫌いって言ってなかったっけ?」
「おれそんなこと言ったっけ?」
「うん、確かゼミ合宿の海水浴で」
由美子達はいつでも忘れるための会話を覚えている。忘れてしまいたいことは忘れる。忘れてはいけないことは最初から知らなくていい。それが健全に誠実に社会生活を送るための第一の関門なのかもしれない。
注文したランチセットのアイスコーヒーが目の前に置かれた。冷えたコーヒーを啜りながら、いつでも美味しい天国の餌を待つ間、由美子はいつもと変わらぬ口調で言った。
「それで、何よ」
「うん、実はさ……ナオミのことなんだけど」おれは由美子が相槌を打つのを待ってやった。「あれから色々考えたんだけど、やっぱり由美子の言っていたことが結局は一番正しいのかなと思って」
そう言った途端、ほらねとでも言いたげに由美子の顎が上向いた。
「蓮治君もやっと気づいたか!」
これが今日でなければ、第三火曜日でなければ、おれは由美子を頭の中でめった刺しにしていただろう。だが殺さなかった。そのままにしておいた。これからナオミを殺すのだ……想像ではなく現実に、彼女を死へと追いつめて──目が合うまではたった数秒間だったはずだが、おれはその間に数リットルも汗をかいた。熱が急速な勢いで放出されおれの身体を凍らせた。由美子は固まったおれを見て、それから右を向いて視線の先を追った。
「誰……?」
ガラスと灌木の向こうに、痛々しいほど痩せぎすで、季節外れの長袖の裾から包帯を覗かせた、見ただけで自分の病的な部分を刺激されるような女の子が立っていた。
「奈緒美ちゃん?」
由美子が悲鳴のような声をあげた。ファミレスのよく磨き込まれたガラスを視線がすり抜けた。駆け出していったナオミの背中がどんどん小さくなる。ナオミはどこへ行くのだろう。病院へ戻って、タクシーを拾って、家に戻ってからそれからどこへ行こうというのだろう。
「どうしよ、どうしよう? どうしよう!」
思わず席を立った由美子が、中腰のまま慌てふためく。おれは顔を伏せ気味にして、目玉だけでもう誰もいない表通りを見た。
「どうするも何もないよ」
「だって、彼女蓮治君の恋人でしょ? 何度も自殺未遂してるんでしょ? 今の絶対誤解されたよ、どうしようあの子が手首なんて切ったら……」赤い顔が真っ青になった。「あたしのせいだ」
「いいんだ、どうせ言ったって無理なんだよ、間に合わない」
「よくないよ! あたし、ちゃんと誤解だって言って来る!」
由美子は勢い良く立ち上がり、驚きと好奇で固まっている他の客や店員達に目もくれず店外へ走っていった。おれは由美子が席を立つ時に倒したアイスコーヒーが、テーブルを横切って静かにおれのジーンズに広がっていくのを眺めていることしか出来なかった。
「救うことも出来ないのに、何故そんなに必死になれるんだ……それは……偽善じゃないのか?」
緩慢な殺人は、おれには荷が重過ぎたのだ。おれが一番恐れていたことを、おれは自らの手で、それも一番最悪な方法で行ってしまった。
おれは怖くなって由美子を待たずにファミレスから逃げ出した。足が震えて上手く走れなかった。
*
疑惑と憐れみで精製された涙の塊が電話線を介しておれの部屋を占領し、おれはあっという間に内蔵までびしょ濡れになる。一定の間隔で鳴り響く電子音はおれ自身の悲鳴だ。螺旋を描いた電話機のコードが、直立不動のおれの腕に蔓のように巻き付いてくる。おれは受話器をとった。
「蓮治か? おれ、敦だけど」
ああ、と返事をして、敦が聞き辛いことを聞き出さないですむよう、自ら由美子のことを持ち出した。
「ああ、あの後結局見失ったらしい。ユミのやつ怒ってたぜ」
「ごめん、勝手に帰っちゃって悪かったって伝えておいてくれないか。何だかパニクっちゃって仕方がなかったんだ」
敦はしばらく無言だった。これほど沈黙が恐ろしいものだとは、いまだかつて知らなかった。
「お前、由美子を共犯にしようとしたろ」
おれの全身は瞬時に金星よりも凍り付いた。それなのに口だけが、肉と肉の合わせ目だけがまるでおれの意志とは関係ないように饒舌に語りだした。
「何がだ? あいつと会ったのは本当に偶然なんだ。普段引きこもってる奴だし、まさか外で合うとは思わなかったんだよ。だいいち共犯ってなんのことだ? 由美子がそう言ってたのか?」
あの夜由美子は言った──今夜のことはお互い忘れましょう──由美子は実際その通りにした、少なくともおれの読み取れる表面上は。おれはその言葉を含めて忘れなければならない。あの時思った全てのことを忘れていかなければ生きていけない。生きてなんかいけない。
「いや、ユミはただお前が何もしなかったことを怒ってるだけだ。おれはお前が……」敦は言葉を切って鼻を啜った。今にも泣き出しそうな声だった。「悪い、変なこと言っちゃったな。お前はそういう器用な奴じゃないもんな。今言ったこと忘れてくれ」
由美子と寝た夜から半年後、おれは知り合ったばかりのナオミと寝た。ナオミは言った──今日のことをずっと忘れないで──
おれはきっと忘れられないだろう。
「まあ気にしないでくれ……また近いうちに飲みにでもいこうぜ。奈緒美ちゃんのこと落ち着いたら連絡くれよ」
「ああ、気にしてない、はは、また電話するよ……ああ……お前は本当にいい奴だな」
受話器を置いてからも、敦の言葉が耳の中でこだまする。
吐き気を感じ、慌てて駆け込んだ洗面台でおれは絶句し──吐くことすら忘れ──立ち尽くした。自分が喋っていることが信じられない。お前は本当にいい奴だな。お前は本当に共犯にしようといい奴だな共犯お前はお前はおれはおれは
「……ああああ!」
またあの他人の声だ! 喉の奥から呻きが絶え間なく漏れる。何もかもがナオミのせいだ。こんな醜いおれ自身も、友人との亀裂も、何もかも全てナオミの、おれの、醜いナオミとおれの──
「畜生!」
おれはナオミに向かってなりふり構わず大声をあげ、顔面を拳で殴りつけた。
「むかつくんだよ、そうやって、俺が無視出来ないのを知って、手首切ったりするとこ、むかつくんだよ!」
ナオミは口や鼻から血を吹き涙を流しつつもなお笑い、おれの名を呼び、手招きをする。ナオミの手。ナオミのかさかさの手。おれの手。おれはナオミの名を呼び、おれに向かって手招きする。鼻につく消毒薬の匂い消毒薬の匂い消毒薬の匂い!
「チャチな自尊心を傷つけないためにそうやって生きてんだろ? いい加減認めろよ! いや認めてるんだ。自分なんて、人間なんて必要ないって。必要のない人に必要とされて、必要のない人の役に立って、何になる? そんなもの全て意味がないってわかってるんだろ、だから死のうとするんだろ。泣くのはやめろよ。その首を絞めてるのは、お前自身の手なんだぜ!」
おれは側にあったグラスを取り上げ、思い切り振りかぶった。
「おれとそっくりなおまえのそういうところ、大っ嫌いなんだ!」
叩き付けたコップが、ナオミという名のおれの残像とともに鋭い音を立て粉々に砕け散った。はっきりと明確に、おれと彼女の間で。
その時、おれはおれの自尊心を傷つけずナオミを殺す方法を、唐突に理解したのだった。
ナオミを見捨てる──おれ自身が一番望んでいたはずの決心をするために、今までどれだけの時間を失い、またこれからどれだけのものを失ったとも気づかずに失うことになるのだろう。
「俺は奈緒美を見捨てる」
亡霊は去った。決意をあらたにするため声に出して自分自身に宣言し、そうしておれと彼女が他人であるということを実感し、おれが彼女を見殺しにしても罰せられない免罪符を手にした今、彼女に対しての感情が恐ろしい程客観的になっていることに気が付いた。いや、どちらが先だったのかはわからないが、両親の、敦の、由美子の、相田達の目を通した奈緒美がその時になって初めて、はっきりと見えたのだ。彼女は死に取り付かれた一人の憐れな他人にすぎない。手首とともに切り刻まれていたのはおれではない。奈緒美そのものだったのだ。
ヒビの入った鏡の中には、おれそのものだけがいる。
もう一人の自分との決別、それはおれに何ともクリアな視界をもたらした。おれには最初からわかっていたはずの答え、記憶に隠されて見失っていた簡単な答えだ。
また電話のベルが鳴った。ワンコールで出る。相手の話を聞いた後、おれはタクシーを手配し、すぐさま家を出た。
今にも雨が降りそうだ。遠くで雷の音が聞こえる。
*
おれは通された奈緒美の部屋で彼女を見た。触れれば折れてしまいそうなでこぼこの薄いつめ先と、止血されたばかりの傷だらけの腕、青白いうなじ、それから顔を見た。弱りきった小動物のようだった。
おれは彼女の無気力な顔に向かって大げさに叫んだ。
「さあ病院へ行こう。君は今病気なんだ。それだけだ。やっと決心がついたよ。君の病気が治るまで、僕も付き合うから」
熱い息に熱を奪われるかのように全身が、髪、爪、角質、おれの死んだ細胞、生を失ってもまだ必要とされていた細胞たちまでもが急速に冷えていくのがわかる。感情がドライアイス・センセーションを起こしてヒリヒリと冷たい熱を帯びている。
「君は病気なんだよ、心の病気なんだ」
おれが奈緒美の命の灯火を消し去る嵐を演じる最中、奈緒美の母親は救い主でも見るかのような眼差しで泣いていた。悪意のない殺人犯……あるとすればそう、正義感だ。おれは奈緒美を救ってやるのだ。あとに残るのはなにか? きっと満足感だ。
薬疹で腫れた頬の中央で微かな音がしたけれど、それを聞き取ろうとは思えなかったし、聞き取れる程大きな声ではなかった。かわりにおれは彼女の耳元で、
「君だけの病気なんだ」
とどめを刺した瞬間、自分がうっすらと微笑んでいるのに気が付いた。それは喜びでも憎しみでもない、憐れみという感情らしかった。
*
マンションへ戻った頃は酷い雨で、タクシーからエントランスへ向かうほんの数秒でおれはずぶ濡れになってしまった。つま先立ちで部屋に上がり、バスタオルで足だけを拭ってから、革靴に丸めた新聞紙をつめた。一面トップを飾った話題の殺人犯のみじめな背中がみるみるうちに湿っていく……明日も仕事だ……それまでに乾けばいいが……。
それから、電話線を引っこ抜き、割れたグラスを片付け、必要以上に長い時間をかけてシャワーを浴びた。もう深夜二時だ。早く寝なければ明日に響く。
狂ったような雨でサッシが揺れている。ひんやりとしたベッドシーツにくるまれて、細く短い針金の束をぶちまけたような出鱈目な豪雨を見ながらおれは、たまには傘を刺さないのも良いかもしれないと思っていた。
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