*** これからのことを話そう ***

 彼女が死んで一年。墓参りにも、彼女の実家にある仏壇に手を合わせにいくつもりもない。両親は残されたノートを詩集として自費出版するつもりなのだそうだ。それが終わってからも、彼らには今後色々とやりがいのある仕事があることだろう。おれは協力要請をやんわりと断った。


 おれは一人だ。ひとりぼっちのおれが選んだ道は、進んで人間達の実験体になることだった。

 社会に溶け込み共通話題のバリエーションも増えた。この国の言語をはじめて理解したような気分だ。おれは新しい彼女に笹原さんを選び、会社帰りに駅前のスターバックスで待ち合わせてデートを重ねた。それは週刊誌に載っていたレストランや行きつけのバーだったり、おれのマンションだったり、彼女の実家だったりする。彼女の好きなドラマを付き合って見るうちに、いつの間にか続きが待ち遠しくなった。お互いいい歳なので近いうちに結婚することになるだろう。おれは近い将来の幸せな結婚生活と、遠い未来の自分を簡単に想像することが出来る。時には寝物語に喋り合うこともある。

 おれたちは未来のことばかり考える。十年後、二十年後、三十年後、二人がどんな家庭を築いているのか、二人の子供がどんな大人になっているのか、世間ではどんなファッションが流行っていてどんなドラマを繰り広げているのか、おれたちは──おれと彼女は──今日よりも明日、今よりも空想ではない未来の現実ばかりを考える。

 最近はじめて買った携帯電話に、敦から週末飲みに行こうと誘いが入る。理由もなく集まり、泥酔しない程度の酒を飲み、翌朝少しばかりの頭痛に苦笑いしながら出社することも、今では楽しいと思う。敦と由美子はいつの間にか別れたが、おれとはそれぞれに付き合いがある。あれ以来人が変わったように付き合いやすくなった、と二人は言う。

「きっと、あの頃は蓮治君も病気だったのよ」


 『病気』から回復したおれは、すこぶる快調だ。息をすることも、歩くことも抜け殻のように楽になった。おれは自分自身に鈍感になり、世の中の表層を流れる現実にとても敏感になった。そのぶん、この世界はとても生きやすい。自分が幸せだと思うことさえある。幸せはおれの脳のところどころに丸い穴を開け、確かに痛みだったはずの過去の細胞への道を塞ぎ、なかったことにしてくれるのかもしれない。そして終わりには、おれの名も声も顔も匂いも、奈緒美も、この地球に存在していたということも、きっとなかったことになるのだろう。

 予測しやすい未来に向かってただ一瞬、輝きもせず、束の間の眠りのようにすごす時間。同じ一瞬ならば、おれは無感覚に、眠るように、瞼を閉じて過ごしたいと思う。


 奈緒美の──彼女の──最期の言葉を、おれは完全には忘れられないだろう。時折思い出すこともあるかもしれない。けれど、だから、なんだというのだ。

『とうとうひとりぼっちになってしまった』

 思い出したところでおれの心は何一つ揺れ動くことはない。おれは完全な健康体なのだから。


 おれたちはどこまでもひとりだ。


(了)

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おれと彼女の境い目 佐々木なの @sasakinano

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