** 忘れるための会話を忘れるためのわずかな努力 **
その日会社から戻ると、数少ない──ほんとうに少ない!──友人の敦から留守電が入っていた。大学時代の友人達と集まっているので、久しぶりに一緒に飲まないかということだった。相田、田中、後藤、名前だけはよく覚えている。顔はぼんやりとしか思い出せない。おれは一時間前に入っていた留守電を聞き終えると、すぐに着替えて、すでにメンバーの集まっている駅前の居酒屋へと急いだ。
敦と、ぼんやりとした顔の面々はすっかり出来上がっている様子だった。その輪に入り、勧められるままビールジョッキを空ける。大学時代にやったバカなこと、会社の業績、減る一方のボーナスのこと、どうでもいい世太話を延々と聞き続けたあと、おれは摂食障害で自傷癖のある女の子の話をした。酔った勢いで、というのは口実だ。むしろ残っている理性が口を開かせた。
途端、相田の大きな目に何かが宿ったのを感じた。この視線をおれはごく最近感じた覚えがある。ああそうか、あの夜のタクシーの運転手と同じ目をしているのだ。
「なるほどねぇ」相田が不揃いな歯でナンコツ揚げを噛み砕く。「俺が思うにその彼女は別に死にたくてリストカットしているわけじゃないんだよ、傷つくことでしか出来ない存在証明ってやつ」
続けて、田中と後藤も身を乗り出した。
「たんなる自己憐愍じゃないの、カワイソウなアタシ〜ってさ」
「何かで読んだんだけど、そういう病気の人ってさ、一日の行動を全て管理された矯正施設に入るとピタッと自傷が止むらしいよ」
相田がパンと手を鳴らす。
「あぁ戸塚ヨットスクールとかそういうのね、あったあった! そういや戸塚ヨットってどうなったんだっけ?」
どうなったんだっけ? と振られても、おれには何も言えることはなかった。こんな酒の肴に丁度好い話題は、少なくともおれ自身が笑い話に出来るまで──そんな日は来るのか?──するべきではなかった。やはり残り半分の酔いが判断を鈍らせてしまったのかもしれない。
彼等の、それぞれにバリエーションに富んだ同じ意見を聞くうちに、頭の上の方から血の気が引いて行くのがわかった。戸塚ヨットの校長の激が飛ぶ中タナトスに従って細すぎて血液すら通らない腕を切り刻むカワイソウなナオミ、切っても切っても血は流れずにそのうち腕がコロンと転がって、それを校長が拾っておれに手渡す……死ぬ程くだらないイメージ。
「蓮治? 大丈夫かお前、真っ青だぞ」
敦がおれの異変に気付いた頃には、既に限界だった。トイレとだけ言って席を立つと、敦は慌てて付き添ってきた。
「おれ帰るから」一歩後をついてくる敦に言った。「お前からあいつらに言っといて」
「そんな、帰ることないだろ。蓮治の気持ちもわかるけど、軽々しく言い出したお前も悪いぞ」
おれは歩くのをやめ振り返った。
「おれ、そんなに軽いノリで話してたか?」
「え?」淳が細い目を丸くする。「ああ、うん、何だかゲラゲラ笑いながら喋ってたけど。もしかして酔ってるのか?」
おれには……おれは、本当に『おれ』自身を理解しているのだろうか。今まではそのつもりだった。だがこの頃はわからなくなってきた。だんだんと気が遠くなっていくのを堪え、震えそうになる足をトイレへ向ける。敦は心配顔で洗面所の中までついてきた。一人になりたかった。
「まあとにかく、今お前が怒って出てったら雰囲気悪くなっちゃうからさ……な、頼むよ」
おれはさっと蛇口を捻ると両手ですくってうがいし、温い水と一緒に、ヤニとアルコールの混じった本音を吐き出した。
──わかった、お前には隠していた本当の事を言う、俺はナオミを忘れたいんだ。ナオミの腕の醜い傷跡もあのカサカサの感触も、顔も名前も存在も全て忘れたいんだよ! なかったことにしてしまいたいんだ! ナオミなんて、おれの知らないところに消えちまって勝手に死ねばいい!
「──おい、聞いてる?」
「ああ聞こえてる……わかってるよ、話を持ち出したおれが悪かった、そんだけ」
「そっか。そうだな……あ、そういえばさ、こないだ偶然俺の同僚と会ったろ」
敦はこの場の雰囲気を変えようと思ったのか、不自然に見えるほど明るい口調で話を切り替えた。おれはその努力に報いねばならないと思った。
「いつのこと?」
「先々週かな。二人で飲んだ夜さ。入ったバーに同僚の女の子が居て、紹介したろ。笹原さん、結構可愛い子だったろ」
先々週、バー、笹原さんか……会ったような気もしたが、酔いも手伝ってか霞がかっておぼろげにしか思い出せない。その前の週はナオミがまた手首を切った。
「ああ、そうだったかも」
「お前のこと気に入ってたぞ」
どうにか思い出そうとしても無理だった。実を言えば、敦と飲んだのが先週だったのか先々週だったのか一ヶ月前だったのかもあやしい。
「なんか言ってた?」おれは持っていたハンカチで口元をぬぐった。
「すごく感じのいい人だって」
「……おれ、その笹原さんって子と何か会話してたっけ?」
「何だよ忘れてんのかよ。まあ会話ってほど話したわけでもないけど、ちゃんと挨拶してたぜ」
「そうか」
もう一度、唇が擦り切れるほど強くこすった。
すごくいい人、まったくだ。この世はいい奴だらけだ。おれだって場の雰囲気なんておかまいなしに怒鳴って帰れるような奴になりたい。一度しか顔を合わせていない笹原さんに、すごく嫌な奴と反吐を吐かせるような、そう思われて意にも返さないような、ごきげんな奴になりたかったよ。
「今度二人で会いたいってさ。どうする、やめとくか?」
「いいよ、会うよ」
敦は「そっか」と言うと、嬉しそうにおれの肩を軽く叩いて席に戻った。
おれは想像の中で、顔も思い出せない笹原さんを犯した。振り上げた拳を結構可愛い笹原さんの小さな唇の間にねじ込んで、髪の毛を鷲掴んで、濡れてもいない粘膜に突っ込んで……吐き気がする。
*
敦と外で会う時に、その恋人である由美子もくっついてきて三人で話をすることがままあった。相田達と飲んだ後だったか先だったか、正確には思い出せないが、この日もそんな一場面だった。
「蓮治君は冷たいよね」
由美子の大きすぎる黒目が、シャンデリアの丸い灯りを反射しながら、非難するように細めた眼の中でくりくり動いている。ドナルドダックとあだ名を付けられた唇を突き出す子供っぽい癖は、いまだ健在だ。
おれたち三人は駅ビルの一階にあるカフェの丸テーブルを囲んで座っていた。大学のゼミが一緒だっただけの由美子は、敦の恋人でなければ卒業後交流などなかっただろう。相田達もそうだ。社交的な敦が仲介しなければ、おれは彼等の中で忘れられた想い出になるはずだったし、おれにしてもそうだった。
由美子はアイスコーヒーのストローを弄りながら続けた。
「冷たいし、酷い人だね。蓮治君の話を聞いたら、きっとみんなそう思うよ」
「おいユミ、そういう言い方はよせよ。蓮治はそんな奴じゃない」
敦のフォローが聞こえなかったふりをして、おれは由美子を睨んだ。
「そう言うけど、じゃあ、おまえだったらどうする?」
「あのさぁ、私蓮治君の彼女じゃないんだからオマエとか言わないでくれるぅ?」
「彼女だったらいいのかよ」
「うっさいなあ、いちいちあげ足取らないでよ」
敦がまあまあと言っておれたち両方の肩を小突く。またドナルドダックの癖。
「まあ、そうだなぁ……」由美子はふん、と軽い吐息をついた。「私だったら一緒に泣いちゃうかな」
おれはお定まりの感情論ばかり並べ立てる由美子に苛ついて、むきになって言い返した。
「泣いてどうすんだよ。泣いてあいつの自傷癖が治るのか? もっと具体的な打開策を教えてくれよ。病院へ連れていく、なんてのは駄目だぞ、もうとっくにやってる」
由美子も俄然対抗心を燃やし、ますます唇を突き出して早口におれを攻撃する。ぐわっぐわっぐわっ。
「充分具体的じゃん。人が自分を傷つけたり拒食症になったりするのは、生きてて辛いよ、誰か助けてよってSOSなんだって。一緒に泣いて彼女の辛いとか苦しいとか、そういう感情を共有してあげんの。ほらよく悲しみは二人で背負えば半分っつうっしょ。論理っつぅの? そういうのは必要ないんだよ、ココロだよココロ。うん」
「はん、だったら由美子が一緒に泣いてやれよ、心なんだろ」
「なんで私がぁ? 奈緒美ちゃんが助けを求めてるのは蓮治君じゃん、なすりつけないでよ」
満足気に頷きながら底に残ったコーヒーをすする彼女を、椅子の前足ごと蹴り飛ばしたくなる衝動を押さえて、おれは反論しようとした。だがそれより先に開かれた由美子の口には、おれも諦めざるを得なかった。
「だいたいさあ」もうよせよという敦の言葉を振り切って、由美子はおれを永遠に黙らせる一言を言った。「そんなにイヤならさっさと別れちゃえばいいのに」
そうだよ。イヤならさっさと別れちゃえばいいんだ。正解だ!
「おいユミ、おまえいい加減にしろよ。他人がアレコレ言う問題じゃないだろ」
恋人に諌められ、だってぇとつぶやいてまた唇を尖らせた由美子を、おれは殺してしまいたくなった。だがおれは一生由美子を殺さないだろうし、きっと一生誰のことも殺せないだろう。頭の中では数えきれない死体の山が築かれているというのに。
いったいぜんたい実際に人を殺すことと、こいつを殺したいと思うことの間にどれだけの差があるのだろう。おれは確かに思ったんだ、こいつを殺してしまいたいと。そして思ったが最後、おれはそいつ一人分の重荷を背負うことになる。いったいおれはどれだけ罪を背負わねばならないのだろう。いや違う、おれは殺人そのものについての罪を感じているわけじゃない。
おれは誰よりも誠実なふりをして、自分の命が死体の山一つ分よりも大事に思っている。それがおれの一番の罪過だ。
*
人間が痛みを耐えられるのは、いずれその痛みを忘れられるからだそうだ。人に一番の苦痛を与えるには、肉体への物理的な痛みよりも心理的な痛みのほうがより効果的だってこと。それなら、心理的な痛みを与える要因を取り除けば、もしくは他人を全て排除してしまえばこの世は楽園なんじゃないか……?
「山岡さん?」
「あ、どうも、おれが山岡蓮治です」
無駄な考え事をしているところへ唐突に話し掛けられて、間抜けな自己紹介をした。ショートボブというのだろうか、明るい栗色の髪の中で、天井のライトを受けて光る丸い瞳と鼻の頭が間接照明のようだ。
「お待たせしちゃってごめんなさい、えぇと庄田君から聞いてますよね。笹原美穂です、はじめまして」
「はじめましてじゃないですよね」
「あっ、そだそだ、あはは、ごめんなさい。ちょっと緊張してるみたい」
矢継ぎ早に自己紹介する間接照明──違った、笹岡さんに、「そんな緊張することないですよ」と言って向かいのチェアを引く。彼女はどうもと答えて腰を掛けた。
敦の指定した和風ダイニングバーの店内は、平日の夕方にも関わらずほとんど満席になっていた。あちこちで賑やかな話し声が咲いている。
「夕飯、まだですよね」
まだと言うと、笹原さんはテーブルの端に立てかけられていたメニューを取り、先に注文した中ジョッキが出て来るまでに真剣な表情で選びだした。
笹原さんはよく食べよく笑う人だった。どうやら緊張だけではなく、もともとお喋りが好きらしい。目の前に人の形をした相手さえ居れば地球が崩壊しても口だけは動いているのではないかというほど、いつまでも饒舌にお喋りを続けた。大きな瞳は全方向に向けて笹原さん自身を放射していた。
年齢の話からはじまり、昨日見たテレビの話、会社の愚痴、同僚の女の子とそのだらしない彼のこと、おまけに昨日見た夢の話──信じられるか? 本当に夢の話までしたんだ──時折相槌を打つのを忘れると、無邪気にきょとんとした表情で顔を上げた。それは睨むとか見つめるとかではなく、両親の情事を見つけてしまった子どものように、何で? とでもいうように。
おかげでおれは自分のことをほとんど、ナオミのことも含めて何も話さずにすんだ。女の子は未知の存在に対していつも尊敬の眼差しを向ける……というのは酷い偏見だろうか。自分に対する言い訳を考える間でもなく、おれには二人に対する罪悪感があきれるほどなかった。
それでも途中、唯一の共通の知人である敦の話題にだけは口を挟んだ。
「敦……っと、庄田って職場ではどんな奴なの?」
「う〜ん、いい人ですよ」
それからバーに場所を変えて飲み直し、目的もなく街を歩き、夜九時半を少しまわった頃、笹原さんが部屋に行きたいというのでタクシーでマンションまで連れて来た。
「ねえ、テレビつけていい?」
「いいよ」
笹原さんは部屋に対する簡単な感想(綺麗な部屋ですね)を述べてからベッドの淵に腰掛け、手慣れた様子でリモコンを操作した。おれはキッチンから戻ると、日本ではないどこかの青い海岸線を楽しそうに走る、かろうじて顔だけは見覚えのある女優と男優の顔を横目で見ながら、リビングテーブルに冷えた缶ビールを二つ、コップと一緒に置いた。
「間に合った、まだ主題歌だ。私、このドラマ好きなんだ。来週で最終回だから、どうしても今回見たくって」
「ああ、それで」
自分の家へ帰って見たらどうだ、ということは勿論言わない。
「ごめんね、何か見たい番組あった?」
「いいよ、元々あまりテレビ見ないから」
「あ、それじゃドラマつまらないかな」
「平気。見なよ」
一缶を半分ずつコップに注ぎ、わずかに余った分を補充したコップを笹原さんの前へ置く。コップを手渡すと、笹原さんは満面の笑みでそれを掲げた。
「ありがとう、じゃ、かんぱい!」
「はい、かんぱい」
コップ同士のカチンという音と同時に、あ、始まったと言って笹原さんがドラマに集中し出したので、おれはようやく相槌から解放され、無言でビールに口を付けた。ドラマが二度目のCMに入り、どうにも座りが悪く二缶目のプルトップに手を掛けた時、突然笹原さんが口を開いた。
「よかったぁ」
「なにが?」
当然訝しがるおれに、ほとんど減っていない飲みかけのぬるいビールを両手で包むように抱えて、上目遣いに続けた。
「やっぱり、山岡さんっていい人」
軽々しく手を出さないことへの安直な感想だった。
正直言って抱くような気分ではなかったし、ここ数カ月ときたら別の女性(勿論ナオミだ)のことで肉体的にも使い物にならないだけなのだと言ったら、笹原さんは怒るだろうか。怒らせてみたい、という気もする。一方でわざわざ恥を増やすようなことはしたくない、と思う自分もいる。まるで悪意を表にだすことが英雄的行為のようだ。自分には絶対出来ないヒーローの超能力に、例えば、半端な少年が路地裏で取引されている違法ドラッグに憧れるように──憧れた。そう、まるで麻薬みたいだ。判断力を奪い、理性を奪い、痺れさせ、徐々に命と精神を蝕むナオミという麻薬──ナオミ。
おれは笹原さんを通してナオミを意識しながら、あるはずもない盗聴器の存在を疑った。むしろ仕掛けられていればいいのだ。彼女が聞いているとも知らずに漏らした独白や笹原さんとの会話を聞いて彼女が死んだならば、彼女を殺したのはおれではない。彼女自身にある。……なぜおれはいつも言い訳を探しているのだろう。
気が付けばおれは、笹原さんをナオミを満足に殺すための道具に見立てていた。どうりで罪悪感が湧かないはずだ。彼女(笹原さんのことだ)はおれのなかで人ではなく、道具だった。間接照明のままなのだった。
おれは多分、半分おかしくなりかけているのだろう。見方を変えれば正常に戻りつつあるのだろう。ナオミによって間接的に気づかされたおれ自身の問題で。
「ドラマ終わったよ」
笹原さんの言葉でおれは我に返った。テレビはエンディングテーマにのってタイトルバックを流していた。
「じゃあ駅まで送るよ」
「そんな、いいのに」
「ここら辺は街灯が少なくて危ないんだ」
さっさと立ち上がって玄関に向かうおれの背中に、笹原さんは言った。
「山岡さんって、本当にいい人だね……」
駅へ向かう途中、笹原さんは人が変わったように無口だった。駅前のロータリーまでつくと、やっぱりタクシーで帰るというので乗り場まで案内した。次はいつ逢えるのかという問い掛けに曖昧に敦を通して連絡するとだけ答えた。タクシーに乗り込む際、わたし結構本気だから、と言って唇が触れるだけのキスをされた。おれの気持ちを勝手に解釈しやがって、とか、人前でなんてことをしやがるんだ、とは勿論口が裂けても言えない。例え照明相手でも。
*
電話が鳴る前に、敦の携帯へ電話する。ナオミの自傷には周期が無く、一ヶ月以上何も行動を起こさないかと思えば三日連続して自傷に走るといったこともあり、いつ母親からあの涙声の電話が来るかわかったものではなかった。ただ決まっていたのは、いつも深夜だったということだ。まともなリズムで暮らしている日本人が電話をする時間ではない。そんな時間帯に掛かって来る電話は親戚の訃報か、悪戯電話か、考え無しの国際電話だけだ。おれの電話番号を知る親戚は少ないし、海外に知人もいない。
それが確実におれが自宅に居る時間帯だ、ということは、考え過ぎだろうか? いや、きっとナオミは全てわかってやっているのだろう。ナオミはおれのことをいつも見ている。おれの中で彼女が薄れ、おれが彼女の手を離れそうになった瞬間にナオミは腕を刻む。なぜならおれたち二人はひとつの──敦が出る。
おれは受話器を左手に持ち替えて、煙草に火を付けた。
「昨日、笹原さんと会ったよ」
「ああ、彼女から今日聞いたよ。お前のことえらく気に入ってたぜ」
「そう」
「すげえいい奴とかなんとか」
「前も聞いたし、本人からもそんなこと言われたな」
敦はははっと軽く笑ってから少し黙った。笹原さんの中では、異性の評価はいい奴とそうでない奴の二種類しかないのだろうか。
「なあ……」電話口を通して聞こえる敦の声は、ひどく言い辛そうだった。「余計なお世話かもしれないけど、お前奈緒美ちゃんと別れた方がいいと思うよ」
「おれもそう思う」
おれは正直に答えた。
「相田達じゃないけどさあ……奈緒美ちゃん、お前に依存しすぎてると思う。偏愛にしか思えない。ユミはあんなこと言ってたけどおれはそんなレベルで納まる話じゃないと思うんだよ。まあ、直接彼女に会ったこともないのに偉そうなこと言える立場じゃねえけどさ……お前にとっても奈緒美ちゃんにとっても、その方がいい気がする」
「おれもそう思うよ」
「だから、さ。笹原と付き合えとは言わないけど、これ以上お互いの傷が深まらないうちにケリつけたほうがいいと思うんだ」
「そう出来ればいいと思ってる」
肺に溜まった煙草のけむりを窓に向けて吐いた。網戸に止まっていた一ミリ程の小さな羽虫が、電池切れの玩具のようにぽたっと落下した。
「そっか、それならいいんだ。わりぃな、色々突っ込んだこと口出しちまって。でも最近のお前ちょっと変だったから、心配なんだよ」
「大丈夫だと思う」
「本当に一人で大丈夫か?」
「多分ね」
おれは頭の中で笹原さんを抱いてみたが、手も足も上手く動いてはくれなかった。代わりに笹原さんのドナルドダックみたく尖った唇だけが、愚にも付かないようなお喋りを延々と続けているだけだった(ナオミは可哀想、ナオミは女の子、助けてあげなくてはならないならないならない……)。
敦は続けた。
「仮に……仮にだよ、別れがきっかけで奈緒美ちゃんが死んでしまったとしても、それはお前のせいじゃないからな」
「そうかな」
「そうだよ」
「法律的にか?」
「法律的にも、倫理的にも、他人から見てもそうだよ」
「でもそれは、おれがそう思えないと意味がないことなんじゃないか?」
「……そうだな。やっぱりお前は優しすぎるんだよ」
違う。おれはおれしか可愛がれない残酷な奴なんだ。由美子の言った通り、自分のことばかり考える冷酷な人間なんだよ(だっておれは、出来ることならお前に代わってほしいとさえ思ってるんだぜ?)。
おれは由美子とのことで、ひとつ嘘をついたことを謝らなければならない。
おれにとって由美子は忘れられた想い出なんかじゃなかった。おれは由美子と一度だけ関係をもった、大学三年のゼミ合宿でのことだ。当時はまだ彼らはつき合っていなかったし、おれと由美子とはその一度きりだったし、三人とも誰ともつき合っていなかった。当時も今も、由美子のことを性的に見ているわけじゃない。なのにそれ以来、ずっと敦には負い目を感じていた。おれは敦に会う度に自分を恥じた。敦は本当にいい友だ……いい奴で……彼を裏切ったことを、裏切っているように感じていることを心底恥じ入っていた。
だからおれは、敦も由美子もいなくなってしまえばいいと思った──思ったのだろうか?
本当はきっとどうでもいいんだ。おれの気持ちに修復不可能なヒビが入ることだけが怖いんだ。そうだろう? おれたちはみんなそういう生き物じゃないのか? それともおれは、まだおれの気持ちを偽って──偽っていることに気づこうとしないで──いるのだろうか?
彼女を殺すための言い訳が、そのまま彼女を殺せない理由になっている。
ナオミさえ、最初からいなければいいのに。
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