** 彼女を殺せない理由 **

 苛立ちと切実さで精製された涙の塊が電話線を介しておれの部屋を占領し、おれはあっという間に内蔵までびしょ濡れになる。一定の間隔で鳴り響く電子音が子供の悲鳴のようだ。螺旋を描いた電話機のコードが、直立不動のおれの腕に蔓のように巻き付いてくる──気さえする。あと何コール我慢すれば、この悲鳴は止むのだろう。


 ……こっちの事情などお構いなしに鳴り続ける無機質な電話のベルを、出来ることならば完全に無視しこの場から逃れ記憶から抹消したいと願っていた。それが無理な話だということは、おれ自身が一番よくわかっている。記憶は消えない。きっと一生、何十年も先、おれが死ぬか痴呆の渦に飲み込まれおれがおれでなくなるまで、記憶はおれを苦しめ続ける。仮にこのまま受話器を取らず逃亡したとしてもことあるごとに──通り掛かりに突如鳴りだす公衆電話、確実におれ宛ではない誰かの携帯電話の着信音にすら──今夜の電話の主の顔とそれに伴う全ての出来事を克明に思い出し、果ては無音状態ですら幻聴が襲い、ありありと蘇る怒り、恐れ、恥、後悔、思い出した回数とともに濃度を増していく罪悪感、陳腐な単語にすれば何てこともないような有刺鉄線で出来た感情で、短針ほどのスローペースで締め上げる万力のように、ゆっくりとこの身は押し潰される。おれがおれを許し、記憶と感情に器用に折り合いを付けられる日などきっと一生来ない……まだ五コールか。くそっ。


 おれの手はたっぷり十秒ためらってから、今夜も諦めを持って六コール目で受話器を上げる。思った通りナオミの母親だった。

「もしもし山岡で──」

「ナ、奈緒美がまた手首を切って、あの、あの子が蓮治蓮治って山岡さんの名前を呼んでいて……」

 また泣いていたのだろう、鼻にかかった声で、けれどまくし立てるようなその勢いにはおれの意志の介入する余地はない。そもそも受話器を上げてしまった時点で、おれにはそんな権利を行使する勇気はなかった。

 (もううんざりなんだ)

 前歯の裏側で辛うじてとどまっている本音が溜息となって吐き出されるのを最後の理性で引き剥がし、飲み込んで、やっとの事で返事をした。

「わかりました。今寝間着なので、着替えてすぐに伺います」

「お願いしますなるべく早くお願いします。いつも奈緒美が迷惑をかけて本当に申し訳なく思ってますけど、本当にあの子にはあなただけで……こんな夜中に本当にすみません」

 ホントウは繰り返すほど白々しく聞こえるものだが、彼女の言葉は嘘偽りない本心そのものだった。その真実の言葉の根底にあるのは、乞食が物乞いするように無節操に救いを欲する切実さ、あるいは腹の減った赤ん坊の鳴き声だ。罪悪感を餌に強奪していく悪魔の所業だ。それを受話器を下ろすことによって一旦遮断する、それだけがおれに出来る唯一の抵抗だった。それ以上もそれ以下も何一つ出来やしない。

 おれは着替えたばかりのパジャマをのろまな亀よりは速いスピードで脱ぎ替え、会話中押さえていた溜息を一気に吐き出しきると、タクシーを呼ぶため再び受話器を取った。


 *


 寝静まった住宅街に点々と続く街灯の光の中を駆け抜ける車内は、驚くほど静かだった。まるでこの世に俺と運転手の二人しか──いや馬鹿げてる。それほど静かだった。タクシーの運転手は商売柄、客の気分を読み取ることに長けているのか、それともこんな時間の近場の客に不機嫌になっているのだろうか、行き先を訪ねてからずっと無言のままだった。あるいはおれの根底にある濁った性根まで見透かされているのか──それこそ馬鹿げてる、被害意識もいいとこだ。とにかく、沈黙のおかげで考えたくもない余計なことばかり考えられる。

 おれはサイドミラーに流れる反転の世界をぼんやりと確認しながら、なぜ彼女の母親はああも本気になって嗚咽出来るのかを考えた(ナオミの自傷行為なんて毎度のことなのに)。やはり母子だからなのだろうか。それならば、今自分がこんなにも冷めきった心持ちであるのは、当然他人であるがゆえなのか。しかし、執着も情熱もないはずのナオミの命のほんの一つを、どうしておれは見すごせないのだろう。いつもいつもおれを苦しめる問い──今夜の電話を無視したら、あるいは母親の申し出を断ったとしたら、ナオミは死んだだろうか? いや今日だって、おれが行ったところで手後れなのかもしれない。今日こそとうとう、本当に死んでしまうかもしれないし、死なないかもしれない……。その答えは、自分でもわかっているし誰でもわかるだろう。結局のところ、俺はナオミの命そのものよりも、ナオミの死におれの存在がかかっているという事実が怖いのだ。ナオミの命に執着がないと言ったそばから矛盾した話だ。いったい命の重さとは何なのだろう。命は大切、命は大事、命は一つ。そんなこと誰が言い出したのだろう。おれはけしてダーウィニズム論者ではない──と思う──が、後に何の語り継ぐべきものもない平凡な人生のために、有限である資源を食い付くさせるのは無駄ではないかと思うことがある。……未来への可能性? ……詭弁だ。おれ達はもう器から溢れた過剰な命の一部だ。これは多分真実だ、おれもナオミも……。しかしその代表格である自分に、けして矛盾しない生への執着があるのも事実なのだ──おれは死にたくない──なるほど命は大事だ。なんて単純な話なのだろう。


 死にかけのナオミ、という事実に直面するのが嫌でうだうだと考え事をしているうち、やがて車は直線とモノトーンで構成されたモダンな住居の立ち並ぶ住宅街の一角に止まった。おれは心を空っぽにし、なるべく事務的に処理しようと努めた。代金を払い座席から降りるとすぐ、玄関先で待っていたのかドアの閉まる音と同時に父親が現れ、傷が思いのほか深かったのでナオミは母親と病院へ行ったのだと告げられた。その言葉に次の取るべき行動を察したおれは、大通りへ戻ろうと方向を変えていたタクシーを引き止めた。慌てて転ばないように、かといって冷静すぎず、不自然にならないよう足を運んで。

「山岡君には本当に申し訳なく思っている」

 再び乗り込む間際、目の下に重くどす黒い陰をこしらえた中年男はそう言って深々と頭を下げた。一年前より大分薄くなった後頭部が見える。そのまま地面に吸い込まれてしまいそうなほど弱々しいその姿は、容易に『いつか』のおれと重なって、折角真空だった頭の中へ不安や苛立ちといった不必要な感情がポンプのように吸い上げられてしまった。おかしなことだが、おれはこの時この人を心底哀れに思った。救ってやりたいとさえ思った。そしてその通り、おれはこいつにかわって病院へ行こうとしている──哀れに思えば思うほど怒りも倍増する。いったいおれはどうすれば、こんな風に思わずに生きていけるのだろう?

 ナオミさえ最初からいなければいいのに。

 その想念が外側あるいは内側に向かって爆発する前におれは早足で座席に乗り込んだ。ドアが完全に閉まるのを待って、握っていた拳を開いた。真っ白になった手の平に見事に四つずつ爪の跡が刻まれている。それを擦りあわせながら行き先を病院へ変更する旨を伝えると、運転手はバックミラー越しに好奇心混じりの──今度はおれの被害妄想ではない、正真正銘の──視線を投げ掛けて言った。

「急ぎますか?」

「いや」おれは溜息まじりに告げた。「必要ないよ。是非とも安全運転で行ってくれ。料金稼ぎに遠周りしてもいいくらいだよ」

 運転手のもっと何か言いたげな様子に気付かないふりをして目を瞑り、薬臭いシートに背を預け──おれはこの匂いが苦手だ──あいつが既に死んでいた場合のロールプレイを繰り返した。病院へ向かった数だけ繰り返した模擬試験、想像のようにうまく満点を取れるだろうか?

 おれはまだ微かに震える手をもう一度握りしめた。


 *


「二度手間になってしまってすいません。病院へ来る前にご自宅には電話を入れたんですけど、もう遅かったみたいで」

 病室へ着くなり母親の口から出て来た謝罪を、瞬間的におれがいまどき携帯電話を持たないことへの非難だろうかと勘ぐってしまった。もちろんそれはおれ自身の天の邪鬼さがなした愚問だ。これこそ被害妄想以外の何ものでもない、この母親はそんな悪の機転の利くほど器用な人間ではない。しかし悪意のないことが余計におれを苛立たせるのだ。

「それで、ナオミの具合は?」

 架空の敵に腹を立てる自分が情けなく、さらに無駄に苛ついてついつい早口になる。それが母親には『女性の身を心から案じる男性』として映るらしいから、世の中も上手く(おれにとっちゃ上手いことなんか何もないが!)出来たものだ。

「ついさっきまで興奮していたんですけれど、今は先生に鎮静剤を打ってもらって寝ています。出血も何とか止まったみたいで、命には別状無いそうです。ああ、本当に良かった!」

 最後の安堵の溜息に、そのツラを平手でひっぱたきたい衝動に駆られた。……いっそ本当に殴ってみようか。母親からの信頼は一気に崩れ、もう二度とナオミに近寄らずにすむかもしれない……その澱みきったドブ沼のような計画も、看護婦の「お母さん、奈緒美さんが」という一言でおじゃんになった。ホッと胸を撫で下ろしている自分がいて、舌打ちをしている自分もいた。

 母親の後に続いて個室に入ると、すでに医者の姿は見えず一人の看護婦がつきそうだけだった。清潔さを強調する消毒薬の匂いと束の間の静寂のあと、ナオミの手がもがくように空中を掻き、母親は慌ててベッドに駆け寄った。

「目が覚めたみたいだわ」

「……はやくきて」

「大丈夫よ奈緒美、山岡さん来て下さったわよ」

「……はやくきてよ、レンジ」

 ナオミの唇は二、三のうわ言を紡いで、ふっと力が抜けたかと思うとまた寝息を立て始めた。ドアの側にぼんやりと突っ立っていたおれは、母親と看護婦の無言の催促に負けてためらいがちに歩み出た。端に避けた母親の代わりにベッド脇の椅子に座った。そうしてソレを見た。静かだった。真っ白いベッドの上に青白い棒切れがあった。摂食障害で無残に痩せ細ったナオミという名の棒切れは、眉をしかめながら横たわっていた……早く帰って寝たい。

 横に居る母親が頷くのを見て、おれはナオミの手を取った。そして、いつものセリフをサン・ニー・イチ……。

「大丈夫だよナオミ、おれはここにいるよ」

 早く自分のベッドで寝たい。


 それからのおれはほぼ無意識で、次に頭がはっきりとしたのはトイレに駆け込み個室の鍵を締め、便座に座って頭を抱えた時だった。

 ああ、我ながら虫酸が走る! 毎度毎度、こんなことに何の意味があるのだろう。眠っているだけのナオミの手を握りにわざわざ来たのかと思うと自分が可哀想になってくる。まだ手のひらにあのいつ握ってもゾッとするかさかさの肌の感触が残っている。乾燥して骨張って枯れ枝のようなあの手が無遠慮におれを求める。振り払うおれの手をナオミの手が握り返す。やはり夜中の電話など出なければ良かった、だが出なかった時──彼女が死のうが死ぬまいが──おれはどうなる? くそっ、畜生、くそっ。

 どうしてこれ程ナオミのことで悩まなければならないのだろう。おれは血の因縁で結ばれた父親でもなければ、契約で結ばれた夫でもないし、ましてや精神科医でもない。なのになぜ、おれはこうしていつまでもナオミの手を握っているのだろうか、ただ恋人だというだけで!

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る