おれと彼女の境い目

佐々木なの

プロローグ

 彼女が死んだ一週間後、形見分けだと言って彼女の母に一冊のノートを手渡された。表紙を縁取るレースは新品だった頃とは見違えるようにくたびれて、ヤニと劣化で黄ばんだ布地のところどころに小さな赤いシミが散らばっていた。それが彼女の血痕だと意識してしまう前に手早く表紙を開き、さっさとページをめくった。横書きのページは、どこも丸っこい字で綴られた散文や詩で覆われていた。ちゃんと読んでいるともいないともつかないであろう適度なスピードをたもちながら、時折思い出したように目に飛び込む古びたシミに思わず顔をしかめそうになるのを我慢して先へ進むと、ノートは三分の二程いったところでぷつりと白紙になり、そこでおれはやっと顔をあげることができた。

「最期まで迷惑をかけ通しで、本当に山岡さんには何てお詫びを言ったらいいのか……」母親は瞼を伏せた。「折角山岡さんに優しくしていただいたのに、あんな形で発作的に死んでしまって……あの子もずっとあんな状態だったから、私達も内心覚悟はしていたんです、けどね、やっぱり実際こうなってみると、辛くて」

 おれは唇の端を微笑で固めたまま、長くなりそうな泣き言を遮るように音をたててノートを閉じ、両手で差し返した。

「これはおばさんの手元に置いてやって下さい。大事な形見ですし、その方が彼女にとってもいいと思うんです」

「そう? そうね、そうかもしれないわね」

 おれの返事が少々期待はずれだったのか、母親は一瞬顔を曇らせたが、ふと今思い出したのだとでもいうように一つ気になることがあると切り出した。

「あの子、このノートの一番終わりのページに妙なことを書いているんです」

 受け取られないままのノートを掲げ行き場のなくなった手で裏表紙をめくると、そこには罫線を無視し、難儀してようやく読み取れる程の乱暴さで書き殴られた一文があった。

「多分死ぬ直前の最期の書き付けだと思うんだけど、どうしてこんなことを書いたのか全くわからなくて。いえね、正直言うとここに書いてあることのほとんどがよくわからないんですよ。詩のつもりなんでしょうけどねえ……母親なのに理解してやれないなんて情けないことだけれど……、結局私達には最後まであの子のことがわからなかったのね」長台詞の後で呼吸を整え、ため息をひとつ。母親はおれを見る。「でも、あの子が一番信頼していたあなたになら、もしかしたらと思って」

 おれはもう一度ノートを閉じ、答えた。

「さあ、僕にもわかりません」

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