貒狸 ー まみだぬき ー

すらかき飄乎

貒狸 ― まみだぬき ー

彼奴あいつはどうやら、マミらしい」

 床屋の四朗さんが呟いた。

 「マミ」とは何の事かといてみたら、「何、貒狸まみだぬきの事さ」と云つて、仔細しさいらしくあごでゝゐる。

 どうやら、昨日突然にかへつて來たと云ふ息子の事を云つてゐるらしい。學校を出たは良いけれど、定職にも就かず、此所こゝ一、二年なんぞはとんと音沙汰無しだつたのが、昨夕ゆふべひよつくりかへつて來たのだと云ふ。

 さう云へば、夜中に小用に起きた時、つい隣の裡庭うらにはで、鰹節かつぶしだか何だかを削るやうな音がしきりにしてゐたが、ひよつとするとあれがその息子だつたのかも知れぬ。

まみだとしても、おれの息子には違ひないからな」

 あきらめたやうなかほでぼそりと云ふ。

 けだし、まみではなくつてむじなだらう。さう思はれて仕方がないのだが、四朗さんは貒だ、貒だと云ひ張つて、仕舞しまひにはむツつり默込だまりこんでしまつた。


 頭の上ではかん〳〵と日が照つてゐる。


 僕は、この三日ばかり髭をつてゐないのだが、氣が附けば、先刻さつきからそれ無闇むやみにぼろ〴〵と拔落ぬけおちる。四朗さんを見遣ると、知らぬかほをしたまゝ、髭の落ちる先を橫目でちら〳〵と窺つてゐる。其處そこそれ、床屋だもの、落ちた髭を集めて、かつらを作る時の足しにでもようと狙つてゐるらしい。

 成程なるほどと思つて四朗さんの目を見据みすゑた所、さつと視線を伏せてしまつた。

 これは、矢張りさうに違ひないと思つて半ば吹出しさうに成乍なりながらもこらへてゐると、目の前の路を、ころ〳〵と黑い何かゞ橫切つた。


 あゝ、到頭たうとうかういふ仕儀に成つてしまつた。これ不可いけない。劒吞けんのんだ。

 四朗さんはと見ると、愈〻いよ〳〵僕から目をそらし、右のまぶちをびく〴〵させながらかう云つた。


「こんなのはどうだい? 『貒狸まみだぬきむじなだらうと疑はれ、いたちそろとぷいと橫向く』なんてのは?」


「何だい? それあ? 狂歌かね?」と問ふた所、

「狂歌だらうが、何だらうが、其道理そのだうり皆目かいもく心得ぬ者が、知つたかぶりをした所で、せんもあるまいよ」と、にや〳〵人の肚を探るやうな顏をして、其儘そのまゝ、家の中に引ツ込んだ。





 日曜日の午后ごゞ、僕は客として隣にあつた。

 十數時閒じふすうじかん后に控へた出勤に、憂鬱な氣持ちがくる〳〵とわだかまる。


 店の奧には、あれが息子なのだらう、鼠みたやうな顏の若い男が中腰に構へてゐて、ちら〳〵此方こちらの樣子をうかゞつてゐた。

 然し、子供の頃からよく知つてゐるあの男の子は、こんな顏だつたか知らん。

 どうも、氣持ちが片附かない。


 それはさうと、一體いつたいに床屋で最も難儀なのは、髭剃りにきる。

 刃物で顏を撫でられるのは勿論もちろん怖ろしいが、それよりも、椅子の脊凭せもたれを倒されて仰向あふむけになる時、目を見開いて天井を見上げるのが劒呑けんのん極まる。何となれば、上から覗込のぞきこむ職人とにらめつくらになつてしまふからである。

 まあ、四朗さんであれば、長年の近所附合ひのよしみもあらうけれど、それでもにらめつくらは不可いけない。いづれにせよ、四朗さんの方が眼力がんりきに勝るは相違ないから、僕は敗殘兵で、甚だ面目ない次第となるのである。

 畢竟ひつきやう僕はしほ〳〵と目を閉ぢるしかない。


 四朗さんは僕の顏にシヤボンを塗りたくり、鼻から口を覆つて熱いタウヱルを乘せ、あまつさへ目の上にまでタウヱルを乘せ、腹の上にはケツトを掛けて雁字搦がんじがらめを極込きめこむと、すつかりひと段落したていである。僕を置去りにしたまゝ、掃き掃除なんぞを始めてゐる。

 ラヂオからは呑氣のんきな落語が流れて來るが、もとより落語に疎い僕には、誰が噺をしてゐるのやら皆目見當けんたうも附かない。巧いか、下手かも判らない。しかし、かうやつていてみると、可笑おかしい事は可笑しい。たゞ、可笑しくとも、笑つては不可いけない。

 何より四朗さんの機嫌を損ねる事になるやも知れぬ。それじつ劒呑けんのんである。萬事ばんじ、愼重には愼重を期するに越した事は無いので、唯、腹をよぢらせてこらへるばかりである。


 さうしてゐるうちに、掃除の方も一通り終はつたやうに思はれたが、今度はかはやに行つて來ると云ひ出した。愈〻いよ〳〵僕をほつたらかしにして、何處迄どこまでも人をつけにしてゐる。隨分と肚も立つが、無論、それにしても、床屋が客の生殺與奪せいさつよだつを握るが嚴然たるを踏まへれば、現下に於いて、僕には寸毫の抗辯かうべんも出來ぬわけである。

 人閒、かういふ狀況に置かれゝば、誰しも多少悲觀論者ペシミストになるは必定。

 僕は此儘このまゝ永劫にわたつて見捨てられるのではなからうか?――まさか、幾ら何でも、そんな事がある筈も無いのだが、どうしても、莫迦ばか〻〻しいやうな顚末が頭に去來して、其念そのねんを去る事が出來ない。

 實際、四朗さんは中〻戾つて來ない。もう、廿にじふ分程も經つてをりはすまいか?


 顏に乘せたタウヱルは、すつかり冷えてゐる。

 冷えたのちには追〻腐るであらう。其后そのあと僕はうすればいのか? 腐つて臭味しうみはつするタウヱルに辟易しながら、一生を終へるのであらうか?……

 時がてば經つ程に諸式は朽ちくたれて、タウヱルはおろか、僕自身もまた、見た目にも何とも恐ろし氣なる樣子に、强烈なる惡臭を放ちつゝ落ちぶれるのであらう……


 そんな大仰おほぎやうで莫迦げた悲嘆に暮れてゐると、やがて四朗さんがかへつてきた。難有ありがたい、心底ほつとした。僕はまるで日がな一日待たされた氣分である。

 然し、四朗さんからは、御待遠おまちどほの一言も無い。

 それはまあしとして、用便かれはしつかりと手を洗つたかしらん。洗ひもせぬ其儘そのまゝの手で、顏やら、髮やらをあつかはれるのは、實に閉口である。そんな事は、金輪際、して貰いたい。

 第一僕の體面たいめんにもかゝはるではないか。


 それよりも何よりも、實は抑〻そも〳〵このタウヱル、既にいさゝか臭ふのである。

 何が何程なんぼうでも、わずか數十すうじふ分の閒に腐敗する道理は無いので、元から臭いに決まつてゐる。

 これは何も今日に始まつた事ではない。此處こゝでは、天花粉などまた然り。

 これらがいつも臭ふ所以ゆゑんは、けだし四朗さんの衞生觀念の欠如にあるのではなからうか? 僕は大いに不滿なのであるが、之も床屋と客との力關係から、默つておくより外に術は無い――

 四朗さんが、剃刀を振るつてゐる閒中、そんな事をつら〳〵考へてゐた。


 一通り顏をあたり終はると、今度は按摩あんまである。元來ぐわんらい、僕は散髪に來たのであつて、按摩なぞは露程も望んでゐない。

 しかるに、剃刀のあとに按摩といふのは、四朗さんの店の決まり事なので、逆らふ訣には行かない。

 殊に今日の客は僕一人。それでか知らぬがやけに念を入れてゐる。

 仕舞ひには僕の腕をむずとつかむと、猛烈な勢ひで囘したり、引つ張つたりを始めた。これじつ亂暴狼藉らんぼうらうぜきだ。按摩と云ふより、丸で親の仇でも締上げてゐるやうな按配である。


 そして、今度は指。

 指關節ゆびくわんせつが、ぽきり〳〵と鳴つてゐる。さして痛くも無いのが幸ひだが、他人に自分の指を、無斷で鳴らされ放題なのは、決して愉快ではない。

 無防備な僕の指を、ぽき〳〵鳴らしながら、四朗さんはこんな事迄ことまで云放いひはなつ始末。


「あゝ、今日は怖かつた。だつて、さうぢやないか? 剃刀かみそりの刃を首にてゝゐる時、思はず、ぞきりとやつて仕舞ひさうになるのだもの。まあ、道理ではあるがね。思つてもみねえよ。あたつてゐる閒中あひだぢゆう、何だか、股のあひだがすう〳〵わく〳〵して…… 思はず力が這入はいりかけてね、ぞきりとやつて仕舞ひさうになるのを、必死になつて抑へてゐたよ……」


 何と物騷な事か。

 僕は、はつと四朗さんの顏を見た。


 これは――


 氣が附いてみると、これは四朗さんではない。


 何時の閒にかに、鼠みたやうな、あの小男が隣に立つて、僕の指を鳴らしてゐる。

 さうして、爛〻と僕を見据ゑて、にや〳〵笑つてゐる。




                         <了>






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貒狸 ー まみだぬき ー すらかき飄乎 @Surakaki_Hyoko

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