牡丹灯籠続怪異

桃樹

牡丹灯籠続怪異(ぼたんどうろうつづきのかいい)

「どーんっ!」

 ドアを開けた途端孫娘の突撃を受けて、出淵次郎はよろめいた。

「うおっ、おおお、ちゃん、力が強くなったなあ。よしよし、こっちおいで。暑いからテベリの部屋行こうな」

「うんっ。テベリみるーっ」

 手のひらにすっぽり包める小さな靴をいそいそと脱ぐ姿を眺める。四歳の孫娘がかわいくて仕方がない。夏休みのこのときだけは、相好を思い切りくずして、何彼となく世話を焼けることに次郎は悦びを見いだしていた。

「お父さんごめんなさい。もう、、おじいちゃんにちゃんと挨拶しなさいっ」

「こんにちはーっ」

「はい、こんにちは。いいっていいって。それより早く上がりな。そうめんゆでるけど、食べるか?」

「あ、それうれしい。支度させて」

「遊びに来たのに仕事熱心なのは……まぁ、お前らしいか。ゆづとテベリ見てくるよ」

 迎え入れて早速台所に向かう後ろ姿に、孫娘の靴をそろえながら次郎は言った。

裕子ゆうこ。すっかり母親らしくなったな」

「そりゃもう。毎日おかーさんだからね。じゃあつゆといっしょにテベリ見てて?」

「はは、テレビ、な」


 リビングではつゆが座布団にちょこんと正座し、テレビを見ていた。その姿だけでも顔がとろけそうになる。

 肩までの、つややかで少し色素の薄い髪。色は娘譲り、そして次郎譲りだ。

 小さな肩、小さな腕、小さな足。

 命をかけて守らなければならない天使だった。

 次郎はつゆの腋を持ち上げてあぐらの中にすっぽり入れると画面を見た。

「令和怪奇特集:あなたのもう一つの世界」と題打った番組だった。不協和音のピアノの音がぽろぽろと鳴り響いている。

「ゆづはこわぁいお話好きか?」

「すきー。つゆオバケ見てみたい!」

「ははは、強い子だ」

 柔らかい髪を撫でつつ見ていると、司会者やタレントの紹介の後早速コーナーが始まった。が、古風な、寄席のお囃子のような曲とともに表示されたのは「牡丹灯籠」のテロップだった。

 カベに顔が写っているだの、誰もいないはずのドアの隙間に人が通っただの、お定まりの心霊体験、恐怖体験かと思いきや、怪談噺が枕とは。

 次郎は番組のセンスに拍子抜けしたが、しかし心に傷を負った思い出を呼び起こさざるを得ない題材でもあった。

 テレビ台の片隅に飾られた二つの写真に目を向ける。一枚は昨年他界した妻の、もう一枚は四十四年前に亡くなった、元婚約者の写真である。


 四十四年前。

 次郎が二十五歳のとき、婚約者を亡くした。殺人事件の被害者として。


***


「祖母の新盆だから、供養したくて。たまたま立ち寄った骨董市で灯籠を見つけたの」

 飯島露江は笑いながら、カーテンレールに吊した古ぼけた灯籠を揺らした。

「亡くなったのは去年の今ごろだもんな。にしてもずいぶんぼろっちい……いや、うん。古風な灯籠だな」

「もう。牡丹灯籠よ」

「ぼっ……怪談噺の?」

「あはは、そうそう。本物だって。おかしい」


 牡丹灯籠といえば、江戸やら中国やらの実話・怪異譚から元ネタを引いた、有名な怪談だ。

 話の筋はこうである。

 武家のしきたりに嫌気がさして家を飛び出し浪人生活を送っていた信三郎は、迎え盆の晩、露という美女に出逢う。

 侍女の米に露ののっぴきならない悲しい身の上を聴かされた信三郎は情を移すが、女たちはとうに無念の死を迎えており、この夜出逢ったのは幽霊なのだった。

 知り合いの人相見や下働きの男から「骸骨女と寝ていた」などといわれるが、信三郎は取り合わない。

 衰弱してとうとう伏せ、真実を知った信三郎は魔除けの札を張り巡らせて身を守ろうとした。迎え盆の明くる朝には亡霊はあの世へ行くが、信三郎は夜が明けたと勘違いして外に出たため、露の幽霊に引きずり出されて死んでしまう。

 その、幽霊となって信三郎をおとなう女二人が、夜道を歩くのに灯していたのが牡丹灯籠というわけだ。

 物語は人気を博して現在でもたびたび舞台化、映像化されているが、そもそも創作なのだから、いわくの灯籠がホンモノのわけがない。

 露江が笑うように次郎もけしからん骨董屋だ、などと笑った。


 七月初旬は梅雨の真っ最中のはずだが、一向に雨が降らず、もう真夏の暑さだった。

 次郎は古びた牡丹灯籠を横目に、開けた窓の網戸越しに広がる、透き通るような青い空を眺めた。

 露江は次郎によりそい、胸の中にしばし抱かれた。

「暑い夏ね」

「俺たちのが熱い」

 腕の中で露江がキザね、とはにかんでうなずき、次郎は露江に唇を寄せた。


***


 連日お湿りのない空梅雨で、天気予報はダムの渇水の話題がちらほら聞こえるようになった。

 次郎の地元は八月がお盆だから、露江の住むこの地元七月のお盆は余りピンとこなかった。

 日一日と盆が近づくごとに、露江の様子が変わってきた。新盆の支度といっても心を不安定にする大事ではない。そうした心労ではなく、何かにおびえ始めたのだった。頻繁に次郎に電話をし、ともすると仕事中にもかかってきて、その声は常に震えていた。

「最近、身の回りがへんなのよ。なんだか見張られてるような気がして」

「誰に」

「さぁ……心当たりがなくて。ねぇ、しばらくこっちにいられない? 気にならなくなるまででいいから。お願い」

「そりゃ無理だよ。そっから俺の仕事場まで、接続良くても二時間半はかかっちまうからなぁ」

「そっか、そうよね……わがままごめんなさい。婚約者だからって」

「警察も当てにはならないが、一応連絡してみようか。近くに交番があったよな。帰りに寄ってみよう」

「ほんとにお願い。怖くて……」

 露江は信心深い方ではないが、勘は鋭い女性だ。何がしかがあるかもしれないが、まさか祖母の幽霊でもあるまい。よしんば幽霊だとして、このご時世それで怖がる人間などいない。

「とりあえず家の中にいれば安全だから。鍵はちゃんと閉めておく。外出するのは昼間にしろよ? いいね」

 どんな不安があるのかわからないが、それにさいなまれておかしな妄想を抱かないよう、事務的なことだけを伝える。

 次郎は電話を切ってしばらく首をかしげていたが、その後はすっぱり忘れて仕事に没頭した。


 送り盆の日が来た。

 ついに露江の電話が朝から鳴りっぱなしになり、仕事にならなくなった。次郎は早引けをして、露江の家で過ごすことにした。

 迎え盆には何もなかった。「何か」がくることもなく、相変わらず暑い空気と抜けるような青空で、幽霊だの妖怪だのと馬鹿馬鹿しいほどのすがすがしさだ。どこからともなく運ばれてくる、風鈴の音すらも心地いい。

 しかし、露江のアパートを尋ねると、そんな快さなどはいっぺんに吹き飛んでしまった。

 窓にお札が何枚も貼られているのである。千社札のようなくすんだ色の紙に、野太く墨の梵語か何かがのたくった、読めない魔除けのお札だった。

 露江の部屋は角部屋だから、通りに面した二カ所の窓にベタベタ貼ってあり、その不気味な様子は通りかかる誰でも目についてしまう。

 近所の人もいぶかしむように窓を一瞥して、いそいそと通りすぎている。

 次郎はその異様な光景に息を呑んだ。無関係を装って立ち去りたいくらい、まがまがしい空気感だった。

 いくら何でも時代錯誤がすぎる。次郎はアパートに向かい、チャイムを鳴らした。

 何度か鳴らしてしばらく待つと、ようやっと扉の向こうから声が聞こえた。

「……誰……!?」

「お、俺だよ、次郎」

「……本当に?」

「ああ、本当だよ。だから開けてくれ」

 しばらくの沈黙の後、ほんの少しだけ扉が開いた。その隙間に現れた露江に次郎はぎょっとして思わず後ずさった。

 露江が片目だけをぎょろつかせて次郎を凝視していた。

 白目が血走り、脂ぎってぎらつくような目の光。厚ぼったい目の下の隈と、真っ青な顔。紫色の唇が震え、頬もこけている。

 なのに髪だけは、その雰囲気に似合わないくらいつややかに整っていた。

 目の前の女性は本当に婚約者なのか。

 常軌を逸した恋人の姿だった。

 次郎はざあっと冷水を浴びせられたように凍り付き、背筋を震わせた。

「ご、ごめんなさい……」

 からからの喉から絞り出すような声で、露江はチェーンを外して次郎を迎え入れた。

 次郎は荷物を下ろし、露江をそっと抱きしめたが、憔悴しきった体に腕の力を込められなかった。

 とにかく家に上がると次郎は露江を寝かせ、昼飯の支度をして世話をした。

 夕刻には落ち着き、何かにとりつかれたかのような顔は影を潜め、いつもの目元の涼しさ、桃色のぽってりした唇の艶を取り戻していた。

 ただ事ではない部屋の気配に次郎は立ち上がり、露江の髪を撫でると外に出、交番に向かった。


「――ああ……あのアパートですか……」

 全く気乗りしない様子で、警官がため息までついた。公僕のありようを説教したい気持ちに駆られたが、次郎はぐっと抑えて平静を保った。

 ちょうど巡回中の警官に、見回りを強化してほしいと次郎は頼み込んでいた。

「何か、問題が?」

「ええ、何度も訪問しているんですよ。ところがこちらの呼びかけにとりつく島もないんです。出てくださらないものですから。何度か通報もいただいてるのに、です。困ってしまいまして」

 通報者は露江だろう。普段からのんびりした町なのだ。それほど頻繁に110番が鳴ることもないはずだ。

 次郎は少し考え込むと、顔を上げた。

「じゃあ後一回だけ、お願いできないだろうか。今日だけでいいんだ」

「……わかりました。それだけ事情が切迫しているのですね」

「そうだ。だから早く巡回してほしい」

 次郎は深々と頭を下げた。なんとも馬鹿げた話だと、頭の片隅にはある。あるが、取り越し苦労で終われば一番良い。

 警官は最初の態度を改め、少し声音を改めた。

「承知しました。所轄にも連絡します。何かあったらいけませんのでアパートには近づかないように、今日のところはお帰りください」

「わかりました。よろしくお願いします」

 警官が自転車にまたがると、無線機に特有の雑音が肩から聞こえた。ぼそぼそと何か語りかけている。それが終わると警官は次郎の方を向きなおした。

「一つ確認ですが、あなたのご用命で、とお伝えしても?」

「もちろん構わない。俺は婚約者だから。出淵次郎。出るさんずいのふちに、つぎろうと書きます」

「ありがとうございます。では、早速向かいます」

 帽子のつばを触ると、警官は自転車を漕ぎ出した。

 去り際の警官の顔は、心なしか笑っているように見えた。


 帰れとの警官の話だったが、露江の家には戻らなければならなかった。

 夕闇が濃くなってアパートに向かうと、パトカーが何台も止まって赤い光がひらめき、角部屋の周囲はテープを張られて立ち入り禁止になっていた。

 窓にはあの札が貼られたままだったが、ガラスが割られている。カーテンレールの牡丹灯籠はなくなっていた。


 露江は、死んでいた。性的な暴行を受けたうえ、首を絞められて殺害されたのだった。


 次郎は刑事から事情聴取され、また状況を聞かされた。手の震えが治まらず、絶望にさいなまれ、そして罪の意識に打ちのめされた。

 不思議なことに、婚約者という最も身近な他人にもかかわらず、追求はほとんど受けなかった。ショックだからと言う以上に、目撃情報や聞き込みなどから早くも目星がついているようだった。

 その日のうちに事件はスピード解決した。


 次郎は事件が起こってからの数日間の記憶をほとんど失い、何も覚えていなかった。

 だが、テレビで事件の詳細を知ったときの衝撃は、例えようもなかった。

 そのときのことだけは、何度も何度もフラッシュバックし、頭からこびりついて離れない。

 なぜなら、容疑者の顔は、自分が頼み込んだあの巡回中の警官だったからだ。

 いや、警官などではなかった。男は、なんと偽物だった。


――俺のせいで、露江は死んだ。


 俺の名を出したからこそ、露江は疑問を抱くことなく偽の警官の訪れにもドアを開けたのだろう。


――あのとき俺がずっと露江についていれば。


 このときのことを、次郎はずっと悔やみ続けた。

 牡丹灯籠は、遺留品になかった。


***


 昼飯を取り終わり、午後が穏やかに下がっていく。次郎は茶を飲みながらぼんやりとテレビ画面を見ていた。

 孫娘の無邪気な笑顔も、母親らしい娘の顔も、けだるそうに鳴く蝉の声も、扇風機のぶぅんと鳴る音も、今ではすっかり当たり前に感じる。

 次郎は老眼鏡をかけるとスマホの画面をいじった。孫娘に買ってやるおもちゃを検索する。

 四歳、女の子、などと検索ワードを入力するが、色々ありすぎ、また好きな番組も余り把握していなかったので、すぐに検索を諦めた。

 後で直接本人に聞こうとブラウザを閉じると、待ち受け画面には、笑顔でおもちゃを渡してくれる孫娘の顔があった。

 あれから何十年も経った。あっという間のような、まだあのときのままのような、記憶と時間の入り交じりがある。

「あ、そうそう、おばあちゃんの新盆でしょ、面白いもの買ってきたよ。ちょっと飾ってみて」

 裕子が茶色の大きな紙袋を持ってきた。中でカラコロ、しゃらしゃらと、不思議な音がする。

 次郎は紙袋を空けて中身を覗くと、途端に血相を変えた。血の気が一気に引き、目の前が暗くなる。

 そこには、折りたたまれた牡丹灯籠があった。

 はっとして次郎は叫んだ。

は!?」

「え? お昼寝中よ?」

「どこで!?」

「ど、どうしたの、そんなに血相かえちゃって」

「いいから、どこにいる!?」

「いつものおばあちゃんのお部屋よ? おうちで一番涼しいでしょ」

 次郎は聞くやいなや走りだした。

「ち、ちょっとお父さんっ、どうしたのっ!? そんな走ったら転ぶからっ」

 狭い廊下を駆け抜ける。急な階段を駆け上がる。こんなに急いで走ったのは何十年ぶりだろうか。

 心臓がバクバク脈打つ。鼓膜にまでドクン、ドクンと音が聞こえる。それは決して走ったからだけではなかった。

 亡き妻の居室のふすまを開けようとした。が、何かが引っかかっているようでガタガタして開かない。

「つゆ! つゆ!」

 孫娘の名を叫びながら何度かふすまを引っ張るが、どうしても開かなかった。

 孫娘を起こそうとふすまを強く叩いた。

 だから、と。じゃだめだと。

 不吉だからと。馬鹿げている。取り越し苦労ですめばと。

「ええいっ、つゆ! 起きろ、つゆ!」

 体当たりして押し破ろうと少し身を引いたとき、物音がした。

「つゆ! 起きろ! 今すぐ起きろ!」

 繰り返し何度もどんどんふすまを叩く。ふすまはガタつくが、つっかえて開かないと言うより、向こう側から人の体で押し返しているような感じがした。

 そのとき、若い男の声が突然聞こえた。

「一つ確認ですが……」

 次郎は動きを止めて、はっとふすまを振り仰いだ。


「あなたのご用命で?」

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