2022年2月9日午前1時35分、道路にて

缶津メメ

或る加害者の末路


―――――――――気が付けば、彼は知らない家の玄関にいた。

「…………え?」

彼は少し後ずさって、まじまじと家の外観を見る。こじんまりとしているが、立派な一軒家だ。カーテンは閉じられているが、その隙間から温かい光が漏れ出している。知らない家阿野に、なぜかここに帰らなければ、という感覚に襲われた。かちゃん、と扉を開く。

「ああ、朔くん。おかえり」

自分よりも背が低く、優しそうな女性が出迎えてくれた。もちろん、この女性の事も知らない。彼は何が何だかわからず、あいまいに「………うん?」と答えた。

「どうしたの?お仕事、疲れちゃった?」

「………まあ、」

そうかも、と応えれば女性はふんわりとした笑顔で「お疲れ様」と少し高い位置にあるおれの頭を優しく撫でる。すると奥の方から走る音が聞こえた。音はどんどん近づいてきた。そうして玄関まで近づいてきたのは――――――子供、だった。

「パパ!おかえりなさい!」

「――――――――え、」

足にぎゅ、と抱き着く。女性はくすくすと笑いながら「この子、そろそろパパ帰ってくるよね?って聞くのよ。十分おきくらいに」と言う。

彼は思わずすぐそばにあった壁に手を付いた。そうしないと経っていられなくなりそうなほどの眩暈と吐き気が、一気に襲ってくる。

「だって、パパに早く会いたかったんだもん」

「パパ好き?」

「だいすき!」

「――――――――――……………」

可愛らしくて優しそうな女性。自分を純粋に慕う小さな命。

そうだ、これはまさに「家族」だ。幸せな家族、そのものじゃないか―――――――――



「―――――――――うわっ!」


そこで、彼は目を覚ました。ど、ど、ど、とうるさく音を立てる心臓を服の上からぎゅっと押さえつけ、呼吸を少しずつ整えていく。背中には嫌な汗をかいていて、温かい素材で作られた寝巻なだけに不快で仕方なかった。


彼にとって、それは悪夢であった。

誰かの人生をかき乱してばかりの彼にとっては、「新たに大切な人を作る」ことは恐怖でしかない。また、傷つけてしまうかもしれない。己が己である限り、その過去が消えない限り、きっと自分は他人の人生に良い影響は与えられない。――――――父と、母のように。

ならば、己の人生に深く関わる人間など作ってはいけない。ましてや、自分が「父」になるなど。彼は幸福のかたちをとった悪夢に胸を汚されながら、ふらりと立ち上がった。

胸の穢れはひんやりとした廊下に素足を付けても、なかなか消えてくれない。「寒い」という感情で頭をいっぱいにしようと思ったが、そう簡単にはいかなかったようだ。

それならば、酒はどうだろう。酔ってしまえば、この穢れもどろどろに融解して、無かったことになるかもしれない。一縷の望みを掛けて彼は冷蔵庫の扉を開け、そうしてがっくりと肩を落とした。

空っぽの冷蔵庫の冷気を浴びながら、どうしようかと考える。

常日頃の彼であったら諦めて水でも飲むところだが、どうにも水では雪げない。思い切り酔って、酩酊状態のまま眠りに落ちるぐらいでないと無理だ、と観念した彼は、厭な汗に塗れたパジャマを脱ぎ捨て、外出用の服に着替える。財布を持ち、スマートフォンを持ち、鍵を持ち。彼は身をふるりと震えさせながら、夜の街を歩きだした。

深夜1時ともなると、出歩く人間はそういない。もう少し賑わっている場所に行けば例外もあるのだろうが、彼の住む辺りはそうではなく。凍りそうな寒さの中で、彼はどこまでもひとりであった。伝統の灯りだけが彼の行く道を照らす。吐く息は白く、ふわりと眼前に舞った。もう少し厚着をしてくるべきだったろうか、と思うが、引き返すほどの労力は無い。それよりも早く用事を済ませたい。彼は早足で夜道を進んで行った。



「ありがとうございました」

自動ドアを抜け、また寒空の下歩き出す。袋の中には適当に買ったビールが二本、レモンサワーが三本、つまみ数袋と明日の朝食のつもりで買ったおにぎりがふたつ入っていた。手のひらに適度な重みを感じ、ようやく彼は少しだけ落ち着く。コンビニの灯りはどんどん遠ざかって、やがてまた彼はひとりになった。

それでも行きよりも胸の靄は少しだけ晴れていた。どうあれ冷えた空気に晒されて、冷静になったからであろうか。それとも目当ての物を買えたからだろうか。それとも。

彼は夜空を見上げる。澄んだ空気の中で、夜空には数多の星が輝いていた。


彼は、それを綺麗だと思った。


そこで彼は、あの人に読んだ物語を思い出す。あの人のために朗読した物語には、それはそれは美しい星空が出てきた。自分で文字をなぞっていると、頭の中でぼんやりと情景が浮かぶ。星空の描写を読んだ瞬間、彼の頭に浮かんだのはちょうどこんな空だった。

あの人の頭の中には、どんな空が浮かんでいたのだろう。

そう思った瞬間、彼はふとあの人に会いたくなった。

家族でもない、恋人でもない、友人でもないあの人といると、彼はひどく落ち着いた。名の無い関係だからだろうか、それとも同じくグレーゾーンの仕事をしているからであろうか。自分が前科者であることも、社会的に普通の生活が送れていなくても、それらは彼を傷つける要因にはならないような気がした。

少し落ち着いてきたので、彼は袋の中に手を入れ、中身を物色する。そうして一本、特にアルコール度数の高い酒を手に取り、かしゃんと開けた。どうせ誰もいないのだ。もう少しで家に付くのだ。ならば、星空を見ながら酔ってみるのもたまには良いだろう。

息を吸うたび冷やされてきた食道に酒が沁み込んでいく。一口、もう一口と飲み進めていくたびに体に熱が灯っていく。丁度良いぐらいだ。


そうして。

彼は。





一瞬だった。彼には何が起こったのかわからなかった。けれど、腹のあたりがひどく熱い。視界の端に酒やら飯やらが入ったビニール袋が落ちていて、飲みかけの酒が道路を汚している。やがて彼は、その熱がすべて痛みであることに気づく。気づいて、発狂しそうになった。痛みと熱さと寒気が同時に彼に襲い掛かる。寒いのか、あついのか、痛いのか、苦しいのか、ひとつひとつの激しすぎる衝撃に、脳が処理を拒否していた。拒否しきれなかったものはどんどん零れ、彼の腹部を血で汚していく。


やがて、寒さが勝って来た。


そこで彼はぼんやりと思い出す。確か、後ろから刺されたような気がする。あれは、ナイフか。そのへんで売ってるやつ。一回だけじゃなくて、三回ぐらい刺して、からりとナイフが落ちつ音がして、そうして「誰か」は声を上げて走り去って行った。


そんな状態になっても、彼は「いつもだったらあんなんすぐ気づくのになあ」と思っていた。思ったところで、もうこの状態ではどうすることもできない事にも気づいていた。


おれは、死ぬんだな。


薄れゆく意識の中は、きっと一瞬であった。けれど彼にとっては、思考ができるほどには長く、永く感じられた。溢れ出す血を抑えるように、それで暖を取るように両手は腹を押さえるように添える。痛みに背中が丸まる。喉の奥から音が鳴る。



ああ、死ぬ。

死ぬんだ。

ここで。

まだ、二十四だぞ、二十四年しか生きてないんだぞ。

………いや、充分かもしれない。

どうせ、ろくでもない人生だったんだ。

どこで、間違えたのかな。

頭が良かったら、何かが変わったのか。

いじめに勝てたら、変わっていたのか。

うさぎを見殺しするべきだったんだろうか。

そうしたら、どんな人生を送っていただろうか。

そうしたら違う人生を送っていたのかもしれない。





ああ、でもさ。


そうしたら、あの人には会えずに人生、送ってたんだな。


それは、いやだな。


…………じゃあ、そこまで。ろくでもない人生ってわけじゃ、ないのかもな。

あの人を見つけたことは多分、おれの人生の中で、間違ったことの方が多かったかもしれない人生の中で、いちばんの正解だったのかもしれない。


なんか、それだけでさ。


よかったかもしれないな、


――――――………………………



……………………星、きれいだな。



恭さん。

星、綺麗だよ。


ああ、でも。見えないのかな、やっぱり。

じゃあ、横で。どういうふうにきれいか、とか。言葉にしたら。


同じ空が見られるかな。











その日は雪が降った。彼の死体が発見されたのは、二月十日の早朝の事であった。



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2022年2月9日午前1時35分、道路にて 缶津メメ @mikandume3

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