金魚が茹だって首が腐る

木古おうみ

金魚が茹だって首が腐る

 兄の頭に手を突っ込んで、死んだ金魚を掬い出した。


 金魚は素手で触ると掌の体温で火傷を起こすらしいが、今年の夏は空気が体温より暑いせいで、鉢の水はとうにぬるま湯になっている。

 腹を見せて浮いていた金魚を掴み取り、ティッシュに包む。鉢の内側に手の甲が触れたとき、苔じみたぬるりとした感触が走って不快だった。


 俺の苛立ちが伝わったのか、兄の方が僅かに退いた。首から上にくっついた金魚鉢は濁った表面に俺の顔を反射するだけだが、見慣れた諦めと気遣いの入り混じった表情が浮かんだ気がして、俺は背を向けて金魚をゴミ箱に捨てた。


「腐るぞ」

 平坦な声に驚いて振り向くと、金魚鉢の中の水がちゃぷんと波打った。ガラスには突然口も鼻もない。どうやって声を出しているのかわからないが、いつもの掠れた気が滅入るほど憂鬱な声だった。

「いいんだよ、どうせ出るときにまとめて捨てるから」


 兄の首筋を零れた水が伝って、カーキのシャツの襟を一段濃い緑に染めていた。汗染みのようだった。首から下は生きている頃と変わらない。


 俺が冷蔵庫の扉に手をかけたとき、

「早く捨てにいかないとな」

 と、声がした。一瞬、冷蔵庫の中のもののことかと思い、手が止まる。

「金魚と生ゴミ。異臭が出ると台所の匂いが取れなくなるから」

「うるせえな」


 俺は冷蔵庫を開けた。半分だけ使ってラップをかけたままの豚バラ肉とビール缶ふたつ。扉のポケットに死んだ母が使っていた赤い花柄の古くさい麦茶の入れ物が一本。


 中身は少ない。中央に鎮座している黒いビニール袋が邪魔なせいだ。輪ゴムで雑に縛った結び口から、霜が張りついた傷んだ黒髪が除いていた。俺はゴムを緩めて、指で髪を押し込む。力を入れすぎて中の柔らかい頭皮に触れた。

 引き抜いた指には皮脂の匂いと赤茶けた汚れがついている。もう腐り始めているのかもしれない。捨て場所はまだ思いつかない。



 鼻先で用水路のような匂いが漂った。水が腐る前の匂いだ。もう一度兄を見ると、金魚鉢の中が古い写真に貼り付けたセロハンテープのように黄ばんで見えた。

「出るついでに水槽も洗うか」

「ああ……」

「バケツ持ってくる」


 冷蔵庫を閉めて台所を見渡した。

 カレーの汚れが焦げついた葫蘆の鍋と、泡切れの悪い特売の洗剤を並べた流し台に、昨日の洗い物がまだ残っている。兄と俺の別々の銘柄の煙草の箱が机の端で潰れていた。

 小蝿が音を立てて飛び立って、俺は右手で叩き潰した。


 塗装の剥げた玉簾を押し退けて、蒸し暑い廊下に出て、風呂場に向かう。磨りガラスの引き戸を開けると、青いバケツがふたつある。

 ひとつはカルキを抜いた水道水で満ちている。もうひとつは肉と髪の欠片が張り付いて悲惨に汚れている。汚れた方のバケツに錆びた糸鋸が血糊も落とさないまま突き刺してあった。片付けを忘れたのを思い出す。


 俺が兄の首を切り落とし終えて、浴室に溜まった血を洗い流している最中、水を入れ替えようと思って置いておいた金魚鉢に飛沫が飛んで、首がない兄が身を起こしたからだ。


 兄は寝起きに枕元の眼鏡を探すような手つきで浴室のタイルを叩き、そばにあった金魚鉢の縁を掴んだ。

 俺が唖然とする間に、鉢は乱雑な切り口の首に吸いついた。兄はヘルメットを確かめるように頭の金魚鉢を数度揺らした。それから、俺の名前を呼んだ。それだけだ。


 兄は俺が薄緑の浴室にシャワーをぶち撒けて、血を全部排水溝に流し落とすのを眺めていた。目もないから眺めていると言うかはわからない。

 俺が蛇口を閉めると、座り込んで水飛沫を浴び続け、ずぶ濡れになった兄がふと呟いた。

「図書館の本、返却期限が今日までだった……」

 馬鹿かと思ったが、俺が返しておくと答えた。殺した手前、そのくらいの後始末はしなきゃならない。それに、金魚鉢の頭をくっつけた男を外に出すより面倒が少なさそうだった。


 俺は水で満たした方のバケツを掴んだ。

 浴室のタイルの目地にはまだ赤黒い血が残っている。ハイターを使わなきゃ取れないだろう。しまっている場所は覚えていないが、兄に聞けばいい。



 俺はバケツを、兄は生ゴミを入れたゴミ袋を持って玄関を出た。

 汗ばんだ人間に抱きつかれたような熱気と湿度が押し寄せる。

「ゴミ」

 俺が言うと、兄は軒先に置いてあるプラスチックのゴミ箱の蓋を開けて、ビニール袋を押し込んだ。屈んだとき、頭から水が溢れて、兄が慌てたように縁を抑える。中の金魚が忙しなく泳ぎ回った。間抜けな光景にまた苛立った。



「面倒だからここで洗うぞ」

 俺は庭の隅に転がしておいたホースを掴んで引いた。土で汚れたホースが泥水で滑って、内臓を引き摺り出しているような気持ちになる。兄があのまま起きなければ自分がやった作業かもしれない。


 兄は籘の椅子を引き出して、庭の中央に置いた。脚のひとつが折れていて、ガムテープで補強してあるが、座ると傾く。また水が溢れるのを想像したが、兄は何なく腰を下ろし、それはそれで苛ついた。



「金魚」

 俺の声に、兄は従順に首をもたげる。俺はバケツを下に置いて零れ落ちる金魚を受けた。空になった金魚鉢は中身があるときより滑稽ではなかったが、宇宙飛行士のヘルメットのようでどことなく不気味だった。


 俺はホースから水を出し、持ってきたスポンジに洗剤の泡をつける。古いスポンジは泡立てる間にぼろぼろと崩れた。

 金魚鉢の縁を掴んで水を流し込み、鉢を揺らしてから水を捨てる。兄の前髪を掴んで水を浴びせているような気分になった。


 空の鉢に泡立てたスポンジを突っ込むと、兄がえずいた。

「何だよ」

 喉の奥に指を入れられたような嗚咽だった。

「いや……」

「痛むのか」

「痛まないけど、妙な感覚だ」

 俺は構わないことにして、スポンジで鉢の中を引っ掻き回した。泡の軌道が鉢の表面に白い墨を佩く。気分が悪くなるのか、兄は何度か身動いたが、声は出さずに拳をぎゅっと握っていた。筋の浮いた白い手の甲に泡が落ちた。

 

 遠くで子どもの声がする。近くの木々に囲まれた児童公園で練習をする野球少年の声だろう。子どもたちの汗を吸い込んだ土埃日差しと混ざって、フェンスの向こうが烟るのが目に浮かぶ。


 俺も兄もスポーツには縁がなかった。児童公園に併設された、刑務所のような煉瓦造りの図書館に自転車を停めてふたりで訪れたのはいつ以来だったろう。


 掲示物が冷房の壁でそよぐのを眺めながら、向かい合わせに座って会話もなく本を読んだ記憶がある。 ときどき飽きて視線を上げると、兄が読むカミュやサリンジャーの表紙が見えた。年代が上がると、エルロイやブコウスキーになったのを覚えている。

 後々その作家たちを知って、案外暴力的な本を読むんだと思った。


 たまに兄と目が合うと、気遣うような諦めたような曖昧な表情をして、兄の方からいつも目を逸らした。母親が違うからか、いつも距離のある兄弟だった。喧嘩らしい喧嘩もしたことがない。他人が家にいるような感覚だった。

 今、兄は俺のジーンズのポケットの縫い目をじっと見つめて耐えている。



 勢いよく金魚鉢に水を流し、泡を濯ぎ落とす。空の鉢にバケツに流しておいた金魚を注ぎ込むと、兄が顔を上げた。


 懐かしい記憶が蘇った。昔は逆だった。この籐の椅子に座っているのが俺で、兄は俺の前に立って俺の髪を切った。髪が目に入らないように、俺は俯いて兄のジーンズのポケットの縫い目や痩せた太腿を見つめていた。沈黙が続いて、兄が身を避けると散髪が終わった合図だった。

 兄がそれを覚えているか、今思い出したか確かめる気はない。どうでもいいことだ。



「金魚、減ったな」

 俺は記憶を振り払うように呟く。

「残り三匹か。あんなにいたのに」

 兄が苦笑の混じった声で答える。何が面白いのかわからないところで笑う男だった。

「減ると何かまずかったりするか」

「いや、別に…….」

 金魚鉢が左右に揺れた。

 昔からほしいものやしてほしいことを言われたことはない。

 両親の遺した古い家に住み続け、印刷所で働き、家と職場と、たまに映画館や図書館を往復するだけの人生を生きていた奴だ。元々ほしいものなどないのかもしれない。

 兄が結婚するかもしれないと聞いたときには驚いたが、そういうものかと思った。つまらない夫になり、つまらない父になる。ここに住んでいる大多数の人間のだ。

 結婚の話は立ち消えになった。理由を聞いたことはない。ただ、妻子がいるより、俺とこの家で死体みたいに暮らしている方が兄には似合っているのは確かだと思った。奇妙な安堵があったことは覚えている。


「金魚、買いに行くか」

 兄は驚いたように鉢の水を波打たせた。



 海岸埋立地のここら一帯はどこを歩いても枯れたハマナスが落ちている。

 サンダルの裏に溶けたアスファルトが噛みつくのを感じながら、俺は兄を連れて歩いた。


 金魚鉢を頭につけた人間を見て住人はどう思うのか、自棄のような気持ちで確かめたかったが、すれ違う通行人は皆、見向きもせずに通り過ぎた。

 兄は普通の人間に見えるのだろうか、それとも俺にしか見えていないのか。町にろくな知り合いはいない。聞いて確かめることもできない。

 田舎だが、密接な近所付き合いがない無関心な町だ。だから、俺たちも住めた。



 ほとんどがシャッターを下ろした霊安室のような商店街を抜ける。アーケードから挿す日差しはいくらか弱まっていた。どこかの軒先からくぐもったラジオの競馬中継の声が聞こえた。


 熱帯魚屋は商店街の外れにある。いつも薄暗く、看板にペンキで描いたエンゼルフィッシュの絵が掠れて、ない方がマシなほど陰気に見えるのも昔と変わらない。


 兄は店の前で足を止めた。

「入らないのか」

 自分だけで買うのも考えたが、兄が何と答えるのか

 気になって、俺もわざと動かなかった。

「俺はやめておくか……」


 曖昧な答えが暑い空気に溶けたとき、店のベルが鳴って勝手に扉が開いた。

「いらっしゃい、お久しぶりですね」

 藍染のワンピースから染みに塗れた手足を突き出した老婆が笑いかける。

 学生時代に一度見ただけの店主だ。俺の肩越しに兄が会釈を返した。波打つ金魚鉢はどう見えたのだろう。


 店主は扉を開けて俺たちを招き入れた。金魚鉢から漂っていた古い水の匂いが、店内に充満していた。

 仄暗い光の中、水中を泳ぐように店主が店の奥へ進む。

「金魚ですか?」

「はい。また少し」

 店主の問いに淀みなく兄が答えた。

「若いひとが買いに来てくれるのは珍しいですからね。ありがたいですよ」

 店主が床に置いた水槽から網で笹の葉のように細い金魚を掬う。無言でそれを見る兄の背に、俺の知らない兄の生活があるような気がして目を背けた。


 静まり返った店内に水の音だけが響く。

 手持ち無沙汰で俺はひとつずつ水槽を眺めた。

 ポンプから噴き出す泡の水圧で錐揉みされる白メダカの群れが、浴槽に浮かんだ精液のようで自分の想像に嫌気がさした。

 和金の薄い腹を押し広げる重たげな銀の内臓と金属のように武骨な背骨がぎらつく。

 ネオンテトラは深夜のサービスエリアの、眩しいが温度がなく、鮮烈だがどこかの虚しい光を帯びた色だった。


「はい、じゃあこれでね」

 店主が兄の手首に夏祭りのような金魚入りの袋をかけて笑った。

「ご兄弟で来るのはお久しぶりですね」

 俺は不意を打たれて言葉に詰まる。

「高校以来ですね」

 代わりに兄が答えた。俺は何も言えないまま、俺の傍を擦り抜けた兄の後について店を出た。



 日差しは更に弱くなり、空気が冷えていた。

 空に雲がかかって、雨が降るのかもしれない。


「覚えてたんだな」

 少し前を歩く兄が独り言のように言った。

「お前と金魚を買いに行ったの」

「ああ……」

「ちょうどあそこの帰りだ」

 アーケードの切れ目を兄が指差す。巨大な白いブロックのような冷凍食品工場の駐車場からトラックが吐き出されるのが見えた。



 高校生の頃、あの工場で夏休みだけ短期バイトをした。

 霜が降りる中、主食の付け合わせ用の馬鈴薯や人参を袋に詰めた後、灰色の消毒槽を長靴で渡って、別世界のように暑い外に出る。単純だが気が楽だった。


 仕事終わりに、バイト仲間と駐車場であの頃から吸い出した煙草を咥えながら、軍手でドライアイスを投げ合っているとき、土手の上で自転車を引く兄が通りかかった。



「危ないことするなと思ったよ」

 兄が笑うと、水にこぽりと銀の泡が立った。

「あのとき、すげえ他人行儀だったよな。同級生に本当に兄貴かって聞かれたぞ」

「邪魔しちゃ悪いと思ったんだ」


 あの日、兄は気遣うような諦めるような顔をして目を伏せた。何だそれはと思った。俺は軍手を投げ捨てて、土手を駆け上がった。

 兄は俺を見て、目を丸くし口を薄く開いた。あの間の抜けた顔はもう見られないが、俺のせいだ。


 追いかけたものの、特に話すこともなく、夕暮れの土手を自転車のタイヤが回る音だけ聞きながらふたりで歩いた。

 赤とんぼが飛んでいた。台風が過ぎた後の八月は秋が来るまでの余白だと毎年思う。

 雨風で夏が押し流された夏の死骸を看取るような感覚が嫌いで、俺は祭りの夜を思い出させる熱帯魚屋の前で足を止めたんだと思う。


「急に『ほしいのか』って聞くから何のことかと思った」

「お前がずっと見てたからさ」

 俺が答える前に、兄は財布を開いて店主の老婆を呼んだ。知らない速度で事が進んで、俺の手首には今の兄と同じように金魚入りの袋がかけられていた。


 帰り道、兄は間を持たせるように金魚の世話の仕方を一通り説明して、家の前で責任を持って育てろと当たり障りのないことを言った。

 今までも兄から誕生日に何かもらったことはあるが、一番覚えているのは金魚だ。


 兄はあのときから、金魚が死ぬたびに買い足した。解けかけた糸を結ぶように、少なくなった金魚がいつの間にか増えて丸い鉢を泳いだ。



「何で……」

 言いかけた全く同じ言葉が重なった。

 俺たちは顔と鉢を向い合わせて黙り込む。ガラスは歪んだ凸面を見せるだけだが、どんな表情をしているかはわかった。

 何で殺したのか聞こうとしたんだろう。


 鉢から水を零して左右に振り、何でもないと兄が示す。俺も何も言わなかった。



 早くも眠りにつくシャッター街を進みながら、兄はいつまでこうなのだろうと思う。

 あの金魚が全て死ぬまでか。そんな気がした。


 だが、最後の一匹が死ぬ前に俺たちのどちらかが金魚を買い足すだろう。熱帯魚屋の店主が死んでくれれば別だが、長生きしそうだ。


 その間、俺は兄が何故金魚を買い足していたのか聞かないし、兄は何故俺が殺したのか聞かない。そういう兄弟だ。そういう時間には慣れている。



 赤とんぼが飛んでいた。

「もう九月か」

 呟く兄の顔に夕空が反射していた。秋が来るまでに、兄の身体の方が腐るだろうか。頭の捨て場所はまだ思いつかない。

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