第6話 どこまでも。一生。永遠に、一緒に

 開店準備をしていたら、少し遠くから声を掛けられた。


「レザー、ナリオー、おはようー!」


 目を向けると、顔馴染みの女性が手を振りながら駆け寄ってきているところだった。パンを卸している酒場の看板娘だ。もう片方の手には膨らんだ小袋を持ち、脇には新聞紙を挟んでいる。


「おはよう。どうした? こんな朝早くに」

「今日は徹夜だよ。さっき営業が終わって店閉めたばっかり。用事が済んだら帰って寝るわ」


 そして、彼女は笑顔で小袋を差し出した。


「はい。これ、ちょっと早いけど先月の掛け金」


 レザが受け取った。ずっしりと重い。相当な金額が入っているように思われる。


「いつもより多くないか?」

「お母さんがちょっと多めに包んでやれってさ。先月はうちの売り上げもよかったからいいんだよ、受け取って」

「そう? それならば遠慮なく」


 娘が、はあ、と溜息をついた。


「ねえ、レザもナリオも結婚しないの?」

「何だ急に」

「いや、二人ともいい男なのに女の影がないな、と思って」


 レザはからっと笑った。


「違うんだ。僕とナリオが夫婦なんだ。僕が嫁に来た」

「そうなの? いつ?」

「六年前」

「やだ、六年前ってレザいくつよ。ナリオがそんな幼児趣味だったなんて見損なったよ」

「失礼だな、六年前は俺も子供だったに決まってるだろ」


 娘がふるふると体を揺する。


「そっかあ。二人とも独り身ならあたしが間に入って両手に花ごっこできたかもしれないと思ったんだけどな」

「お生憎様」


 レザとナリオが故郷の国を発ってから、かれこれ六年が過ぎた。

 二人は今、あの国とは海を挟んで別大陸にある遠い新天地でナリオの父親と三人で暮らしている。


 最初のうちこそ追っ手を恐れ、あの国が王族の生き残りを探しているという話を耳にするたびに引っ越しをしていたものだが、遠ざかっていくうちにだんだん噂も聞かなくなっていった。この地ではほとんど話題にならない。この間珍しくちらりとまだ政情不安が続いていると聞いたが、具体的に王党派がどうとか共和派がどうとかという情報はついぞ入らぬままだ。ここならようやく腰を落ち着けられるかもしれない。


 レザはナリオとその父に倣ってパンを焼くようになった。しばらくタダ飯喰らいをしていたが、毎日せっせと働く二人を見ていたら何かしたくなったのだ。


 貴人の館に納めるわけではないパン職人一家の収入は微々たるものだ。働いても働いても原料費を引いたらわずかな金しか残らない。けれど三人が贅沢をせず慎ましく暮らす分には何とか事足りる。いざという時のための貯金も少しながら蓄えることができた。


 小麦粉を練る肉体労働に従事し、一日三食自分で焼いたパンを食べるようになったレザの体は、六年間でめきめきと成長した。今となっては身長も体重ももうナリオとほとんど変わらない。


 可愛くて美しい少年ではなくなってしまったことに多少の不安もあった。頭の片隅にもしものことがあったらまた体を売ればいいという考えがあったためだ。


 しかしナリオはそんなレザを深く愛した。その愛情は年々強まる一方のように感じる。


 一緒に暮らし始めた頃は口づけをするにも一苦労だったのに、人間は変わるものだ。


 去年、レザが十八歳になったのをきっかけに、二人はようやく体を繋げた。ナリオはレザが大人になるのを律儀に待ってくれたのだ。それに彼は殊更な挿入を望まなかった。レザの心身に負担がかかると思っていたらしい。しかしレザのほうが望んだ。さんざんに犯されて穢された肉体を彼に開いてほしかった。そうしていざ受け入れてみると愛する恋人との交歓は強烈な快楽をもたらすことを学習してしまった。今となってはレザのほうがねだる有様だ。


 六年の歳月はレザの世界のすべてを変えた。生きていくのも悪くないと思えるようになった。昨日より今日、今日より明日のほうがわくわくすることが起こるような気がする。夕方に眠り早朝に起きるナリオとの暮らしは楽しい。


「ところで、二人って字は読める?」


 酒場の看板娘に訊ねられ、ナリオとレザは顔を見合わせた。


「読むだけなら、ほんの少しは。書くほうは、俺は家族の名前とパンの材料名しか書けないけど」

「そういう頭脳労働は僕がやっている。新聞ぐらいなら一応問題なく読める」

「そう。じゃあこれレザにあげるわ。昨日の、今朝までいた常連客のおじさんがくれたんだけど、あたし読み書きはからっきしでさ。プレゼントしてあげるから読んでね」


 娘が小脇に抱えていた新聞紙をレザに押しつけた。

 そして、可愛らしい笑顔を浮かべて手を振った。


「じゃあね! 元気でね!」


 小走りで離れていく。その姿が早朝のまだ静かな街に消えていく。


 ナリオとレザはもう一度顔を見合わせた。


 新聞を広げた。


 薄く口を開けて固まったレザに、ナリオが問いかけた。


「何て書いてある?」

「僕に莫大な懸賞金がかかっている」


 ナリオに紙面を見せた。まだ十一歳だった頃のレザの似顔絵と、略歴、懸賞金がかけられた経緯が載っている。


「中流市民を優遇する政策をとる共和党の一党独裁に不満を感じた貴族層と貧困層が結託して反旗を翻したそうだ。あの国は今正統な血を引いていて紫の目をした新しい王を求めている」

「レザは十三番目じゃなかったの?」

「十二位より上は共和党政府が殺し尽くしたということだ」


 何の救いにもならなかった親戚の死はそんなに悲しくない。ナリオとの平和で愉快な生活が失われるほうがもっとずっと悲しい。


「どうする? 帰る? 王冠が待ってるぞ」

「戴いたほうがいいと思うか? そうしたらお前は王配として優雅に暮らせるだろうな」

「まさか。なんでレザにあんな仕打ちをした国に戻りたいと思うと思うんだ」

「そうだな、僕もあの国のために働くのなどまっぴらごめんだ、どこかでパンを焼いて暮らすさ」


 ずっしりとした小袋の重みを感じた。どうやら酒場の親子にまで気を使わせてしまったようだ。ありがたいことだった。


 世界はそんなに悪くない。


 新聞をたたんで丸めると、空いたほうの手の指をナリオの指に絡ませた。そうして、触れ合うだけの軽いキスをした。


「どこまででも連れて逃げてくれるんだろう? どこまでも。一生。永遠に、一緒に」


 ナリオが不敵に笑った。


「そう。パンは小麦粉さえあれば世界のどこででも焼けるからね」


 また新しい冒険の旅が始まりそうだった。





<完>

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13番目とあんずパン 日崎アユム/丹羽夏子 @shahexorshid

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