第5話 行きたい。生きたい
一度自分の部屋に下がった。
特殊な経緯でここに来たレザには他の少年たちと違って個室が与えられている。といってもクローゼットを改装した狭い部屋だが、どんな広さでもひとりになれるのはありがたい。レザはこの二年リネンを替えたことのない布団にくるまっていろいろ考えた。
眠れぬまま夜が明けた。
最初に感じたのは空腹だった。
否、何かを食べたい、という欲求だった。
何かを、ではない。パンを、だ。
栄養を求めているのは体ではなく頭であり心だった。食欲ではない。ナリオが作ったものを体内に入れたいという感情だけがある。まだ十三歳でしかも薄汚い男娼のレザには確信が持てないが、死ぬ前にひとが作ったものを食べたいと思うのは愛というものかもしれない。
先ほどナリオが今朝もいつもどおりパンを焼いて持ってくると言っていた。うまくいけばあんずのパンにありつけるし、失敗しても黒パンが待っている。最悪ナリオの父親の作でもいいから、ナリオとつながりたかった。
ふらふらと部屋を
厨房に行くとまだ誰もいなかった。少年たちが部屋に戻るまでにはまだ時間がある。食事係は寝ているに違いない。八百屋や酒屋の出入りもあるはずなのに、誰も彼もが怠慢だった。
蛇口を捻り、水を飲んで顔を洗う。自分しかいない静かな空間に水の音だけが聞こえた。
不意に勝手口の戸が開いた。まったく声を掛けられなかった。
顔を向けると、息を切らせたナリオが入ってくるところだった。
彼はレザの姿を見て肩から力を抜き大きな息を吐いた。いつものように抱えていたパンの木箱を調理台の上に置く。
「外にいなかったから来ない気かと思った」
そして、レザの返事を待たずに細い手首をつかんだ。
「早く行こう。誰かに見つかる前に」
ナリオの手を振り払おうとした。しかしナリオの握力があまりにも強くて離れなかった。それでもナリオはレザの動きからレザが拒んでいることを察したらしく、眉尻を垂れて悲しそうな顔をした。
「早く伝票を置いて出ていけ」
冷たく突き放した。ナリオはゆるゆると首を横に振った。
「伝票持ってこなかった」
「なぜ? 月末に精算するんだろう?」
「もういい。どうせ集金に来ないから。今月分はタダ働きでいい」
「まだ僕と行くなどと言っているのか」
「そうだよ」
「お前がよくても親父さんは困るだろう」
「親父も行くけど?」
驚愕の展開だった。
「親父も待ってる。一緒に行くんだ」
「工房はどうしたんだ」
「昨日片付けて掃除したよ。賃貸契約はまだ残ってたんだけど、大家さんも人間の命には替えられないから仕方がないと言ってくれたよ。目をつぶってくれるって」
言葉が出なかった。
「誰がどこまで知っている?」
「言ったでしょ、レザがここにいるのはみんな知ってるって。少なくとも工房の近所の人たちは応援してくれたよ」
そんな世界がこの国にあるとは思ってもみなかった。
「行くの? 行かないの?」
喉の奥が詰まった。胸の奥が突かれたような思いだった。
「行こうよ。俺が一生守るから」
それは愛されて育ったお前の世迷いごとだと言ってやれたらよかった。もう誰も助けてくれないものだと割り切って緩やかに死ぬのを待つほうが気楽だった。
そう思っているのに、涙が溢れた。
「い、行き――」
左手をナリオにつかまれたまま、右手で自分のシャツの前を掻き合わせた。
「行きたい。生きたい」
ナリオが手を離したので一瞬不安になったが、次の時、ナリオはレザの頭を撫でてくれた。
「ちょっと乱暴なことをするけど、じっとしててね」
そう言うと、ナリオは普段はパンを入れている箱を開けて中から大きな袋を取り出した。麻の袋は大きくて人間でも子供なら入ってしまいそうだった。
それを、レザに頭からかぶせた。
すっぽり入ってしまった。
中は粉っぽくてたまらなくて思わず咳き込んでしまった。
「行くよ。じっとしてるんだよ」
どうやらナリオは袋に入れたレザを担ぎ上げたようだった。足が宙に浮いた。足元の袋の口を紐で縛られる。出られない。汗で粉が体についた。
ナリオの肩に乗せられた。
勝手口の戸が開閉する音がした。
ナリオはレザの体重をものともせず外を小走りで移動した。
門番の声がする。
「おい、パン屋、何だその荷物」
ナリオは平然と答えた。
「店の厨房が手抜きして料理しないから前に仕入れた小麦粉が余ってて売ってくれるって約束になってたんだ。パンを卸すついでに貰ってきた」
意外にもナリオは平気で嘘をついた。
門番はそんなナリオを疑わなかったようだ。
「飯係も酷い奴らだ。子供は痩せても客がつくから手抜きをする」
「そうだね。まあ俺には関係ないけど」
「俺にも関係ない。子供は小麦粉より簡単に仕入れられる」
ぎぃ、と門が開く音がした。
「行っていいぞ」
レザは胸を撫で下ろした。
それからどれくらい移動したことだろう。一瞬だったような気もするし、永遠だったような気もした。
やがてどこからともなく海鳥の声が聞こえてきた。都会の喧騒も聞こえる。港だ。ナリオはレザを担いだまま港に来たらしかった。
レザは娼館から港までどれくらいの距離があったのか知らない。何せ子供の頃両親に連れられてきて以来だ。あの薄暗い路地からは相当な距離ではないかと推測するが、ナリオの歩くリズムは変わらなかった。
ややして男たちの野太い声が聞こえてきた。
「よお、ナリオ、待ってたぞ。それで全部か」
顔見知りらしい。
「お待たせ。これで終わりだよ」
「よし、乗れ」
おそらく船乗りだろう。レザは積荷として船に乗せられるらしい。
船、と思って驚いた。
ナリオは本気でこの国から離れる気なのかもしれない。
レザのために、か。
ナリオはタラップを上がったようだ。今までで一番揺れた。
足が止まったところでようやく、ナリオはレザを床に下ろした。
袋の口の紐が解かれ、上に引っ張って剥がすようにして外に出された。
周りを、屈強な船乗りたち、乗船客だと思われる紳士淑女、そしてナリオの父親が囲んでいた。
「無事だな」
ナリオの父親が言った。
「よくがんばったな」
船乗りの一人が、大きな声を上げた。
「出航だ!」
船が動き出した。
桟橋のほうから警笛の音がした。びくりと肩を震わせてそちらを見ると、青い制服を着た憲兵たちが船を追いかけてきていた。
「逃げたぞ!」
「待て、止まれ!」
乗船客の紳士がステッキを振りかざしながら笑った。
「ざまあみろ! 子供にこんなことをさせる国なんてこっちからおさらばだ!」
ナリオがレザの目の前に膝をついてレザの頬についた小麦粉を服の袖で拭った。
「もう大丈夫だよ。みんなで遠くに行こう」
レザは大声で泣いた。わあわあと声を上げて泣きじゃくった。こんなに泣いたのは生まれた時以来かもしれない。
そんなレザをナリオは抱き締めてくれた。二人揃って小麦粉で真っ白になった。
「面舵いっぱーい! 東に針をとれ!」
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