第4話 そんなことで喜ぶと思ってる?

 転機は数日後突然訪れた。


 ある晩、レザは個室に呼ばれた。狭い個室だった。たいていの客は裕福な市民で複数人でレザを凌辱するために大枚をはたいて大部屋を取るので、一般の商品たちが一見の相手をするような部屋に呼ばれるのは珍しいことだった。


 準備をして薄衣を纏い部屋に行く。ノックをしてから戸を開ける。


 部屋の中に入って客の姿を視認した瞬間、レザは衝撃のあまり足がすくんでしまった。


 柔らかい上等なマットを敷いたベッドに、ナリオが腰掛けていた。


「レザ」


 戸に背をつけて立ちすくんだ。


「どうしてお前がここに」


 声が震えた。足も震えた。


 酷い裏切りだった。


 レザが大人になったら恋人として身請けしてくれると言っていたナリオが、十三歳のレザのひと夜を商品として買い取ってここにいる。


 あの日以来心をナリオに託してしまったレザは、日々の苦痛を乗り越えるためにずっとナリオのことばかり考えていた。すっかり大人になった自分がナリオに丁寧な愛撫を施される様子を妄想することでなんとか生きてきた。下卑た客に何をさせられてもいつかはナリオに連れられてここを出ていくと思えば耐えられた。


 そのナリオが、一晩分の金を払って娼館の狭い個室でまだ幼さの残るレザを抱こうとしている。


 ショックで頭がどうにかなりそうだった。


 口を開けば恨み言を叫びながら泣いてしまうだろう。レザは唇を引き結んでうつむいた。


 ナリオが立ち上がった。ゆっくり歩み寄ってきた。それを怖いと思った。二年前まだ客に犯される苦痛と恐怖でおびえていた頃のことを思い出した。否、あの時より酷い状況だ。淡い初恋が無惨に散った。


「レザ」


 彼の腕が伸びてきた。レザは身を硬くした。何をさせられるのかと思うとつらかった。


 正面から抱き締められたのは、これが初めてだった。悲しかった。


「な……、何をすればいい? 僕に何をさせたい?」


 言ってしまえば客と商品の間柄になったことを強く認識させられて涙が滲み出してきた。下唇を噛み締めて零すのをこらえた。


 しかし、ナリオは次にこんなことを言った。


「いや、レザに会いたかっただけで、レザに何か、たとえばこう、性的な奉仕、を受けたいわけじゃないんだ」


 そう言われた途端、全身の筋肉が弛緩した。思わずナリオに身を預けてしまった。


 よかった。ナリオはただレザを貸し切りにしたいだけなのだ。そう思っただけで安心のあまり魂が抜けてしまいそうだった。


「とにかく俺の話を聞いて」


 体が離れた。けれどナリオはレザの手をしっかり握って布団のほうに導いた。


「そこに座って」


 彼はレザだけをベッドに座らせた。そして自らはレザの目の前に膝をついた。ナリオの金茶の瞳がレザの紫の瞳を覗き込む。


「大変なことになった」

「何が?」


 初め彼の父親が怪我でもしたのかと思った。パン屋としての営業が続けられなくなったら大変だ。それこそ館に出入りできなくなって会えなくなる。


 だが、ナリオは予想外のことを言った。


「国王が処刑されそうなんだ」


 レザは目をまんまるにした。


「どうして?」

「税金を無駄遣いしたからだ」

「昔はそうだったかもしれないが、今は何もなさっていないじゃないか。宮殿の北の塔に幽閉されていると聞いた。議会で定められたとおり一日二食の貧しい生活を受け入れて謹慎していると」

「俺はバカで字も読めないからよくわからないんだけど、どうやら政治がうまくいっていないらしい。金が回らないのはいまだに抵抗している王党派の連中のせいだとかなんとかで、総統は民衆の怒りを王族に向けて心をひとつにしようとしているっぽい」

「王族はもう誰一人として服の一着も買えないのに?」

「みんな目が紫ってだけで殺されて当然だと思ってるんだよ」


 わかっていたつもりだった。けれど今ほど理不尽な理由で嫌われていることを強く意識させられたのは初めてだ。頭から血の気が引いていくのを感じた。


「みんな血眼で王族の生き残りを捜してる。ひとり残らず捕まえて断頭台に立たせる気なんじゃないか? レザがここで体を売っているのはみんな知ってることだから、きっと近いうちに憲兵が来てレザを引きずり出すんじゃないかと思う。って、みんなそう噂してる」

「そんな……」


 剥き出しの憎悪に目眩がする。


「僕らが何をしたと言うんだ……」


 ナリオが膝立ちになってレザの痩せた体を抱き締めてくれた。


「逃げよう」


 大きな温かい手が背中をさする。


「外国に逃げよう。俺が連れていくよ。どこか遠くに行こう」


 それは天啓のように思われた。


 体を起こした。


 けれど、再度目と目が合った時、レザは、諦念のようなものに襲われた。


「いい」


 ずっと死ぬことを望んでいたではないか。


「僕のことは忘れてくれ」


 この苦しい生が終わるのならば、それはそれで本望なのではないか。


 何度も何度ももう死にたいと思った。自分の体を自分で傷つけたこともあった。死ぬ勇気がなくて今の今まで生きてしまったが、ギロチンで刎ねられればあっという間だ。痛いことも苦しいこともなく一瞬で事切れるのではないか。


 かえって、王族として死ねるのならば、という思いも湧いてきた。レザは誇り高くあれと両親に言い聞かせられて育った。王族として断頭台に立つのは父母の望みに適うことではないか。自分たちを追い詰めた野蛮な下民どものために死ぬのは癪だったが、じたばたせずに天へ昇れば正統な王位継承権を持つ者として家族に会えるのではないか。


 それに――ナリオに迷惑がかかる。

 ナリオはこの街でパン屋として生計を立てている。父親の工房でパン職人になるための研鑽を積んでいる。

 父親を捨てて出ていくのか。工房を捨てて出ていくのか。レザのためにか。

 お尋ね者になるかもしれない。一生追われて過ごすかもしれない。

 レザのためにか。


 この地獄を終わらせたい。

 そして、ナリオには幸せになってほしい。


「その時はその時だ」

「だめだ」


 レザが言い終わるか否かのところで、ナリオは強く言った。温厚な彼がこんなに険しい表情と低い声をレザにぶつけたのは初めてだった。


「ここにいたら死ぬんだ。俺と行くんだ」

「断る」


 だがそれがナリオを守るということなのだ。


「どうして? まさかそれが王族の務めだからなんてバカなこと言わないよな」

「そうだな」


 曖昧な返事をして濁した。どう解釈されてもいい。迷惑をかけたくないということだけは知られたくない。優しい彼に自責の念に囚われてほしくない。


 ナリオの手がレザの折れてしまいそうなほどに細い腕を握った。


「どうしてだよ。遠慮するなよ。今日だってどんだけ払ったと思ってんだよ、君を助けるためだと思って貯金を全部注ぎ込んだんだぞ、俺は君が助かるなら全財産を失ってもいいと思ったんだぞ」

「僕はここから出られない。門を亭主の私兵が見張っているのを知っているだろう?」

「そうなんだけど、何か手段はないのかな」

「ない」


 断言してから、ナリオを傷つけてしまったような気がして視線を落とした。


「すまない」


 少しの間、ナリオは沈黙した。

 レザはちょっとでも明るく振る舞っていると感じられるよう声のトーンを高くした。客を前にしてこんな媚びた態度を見せたことはない。うまく笑うことまではできなかったが、ナリオを励ますには十分だと思いたい。


「大丈夫だ。何も怖くない」


 嘘だ。みんなの前に裸で連れ出されて石を投げられるのが怖い、刃が落ちる直前に処刑広場に集まって喜ぶ民衆を見たくない。


「そうだ、せっかく全財産を払ってくれたんだ、一晩中遊ぼう。何をしたら気持ちいいだろうか。手でも口でも、何でも――」

「そんなことで俺が喜ぶと思ってる?」


 今度はレザが黙った。


 部屋の中で動いているのは蝋燭の炎のゆらめきだけだ。


 ナリオが手を離した。


「……きっと急な話で混乱してるんだよな」


 彼は勝手にそう結論づけた。


「そうだ。そうだろ? なあ。一晩経って冷静になったらまた考えが変わると思う」


 レザは無言で首を横に振ったが、ナリオは納得しなかった。


「ここの連中に怪しまれないようちょっと休憩して夜のうちに帰る。朝になったらいつもどおりパンを焼いて、焼けた品を持って、今度は業者として戻ってくる。そしたら一緒に出ていこう。なんとか門を抜けられるよう考えておくから、レザは勝手口の外にいて」


 レザはまた首を横に振った。けれどやはりナリオは頷いてくれなかった。


「ちょっと仮眠する」


 そう言ってベッドに身を投げ、顔を背けた。


 宣言どおり、彼は月が沈む前に帰っていった。レザはわざと布団をぐしゃぐしゃに乱して、横になって片付け係の到来を待った。


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