第3話 泣き叫んで喉をかきむしりたくなるほど

 ナリオは基本的には朝と夕方に一回ずつ館の厨房を訪れているようだった。遅寝をすれば、あるいは早起きをすれば会えることがわかった。商品たちの中でもっとも過酷な仕事をこなすレザにとってはきついルールだったが、早起きなら寝坊をする同僚たちよりナリオを独占できる可能性が高まる。


 ナリオの父親が来る日もあるので、日が暮れるより早く起きてもナリオに会えない日もある。会えても、他の少年たちによる邪魔が入ったり厨房の食事係たちに追い出されたりする日もある。


 だが運よくナリオと二人きりになれた時、ナリオは決まってレザにあんずのパンを食べさせてくれた。


「なかなか大きくならないな。俺が今のレザくらいの頃は一日中めちゃめちゃに食べてものすごく身長を伸ばしたもんだけど」


 あんずの芳醇な味と胡桃の歯応えを味わっている間、ナリオは時々レザの頭を撫でた。


 仕方がない、常に栄養不良なのだから、レザの体は生命の維持に必死で身長を伸ばすところまで回らないのだ。


 滑稽な話だが、レザの体はレザの意思に反して生きようとする。美味しそうなパンがあれば亡き父母が見たらさぞかし悲しむであろう勢いでがつがつと頬張った。


 食べるのはささやかな反抗でもあった。その分処理が大変になるからだ。


 しかしナリオのその言葉を聞いていると、別の懸念が頭をもたげてくる。


「大きくなったら、か」


 親指の腹で唇の端についたあんずの果汁を拭う。


「僕も男だから、生きていればそのうち声が低くなったりひげが生えたりするのかもしれないな」


 その時自分はいったいどうなるのだろう。どういう扱いを受けるのだろう。十代前半のわずかな時期にしか見られない中性的な肢体はレザを香り立つように美しいと言わしめていたが、この美貌はいつか失われる。


 自分だけではない。娼館の少年たちはみんな通る道だった。


 レザは第二次性徴を迎え客足が遠退いた先輩を何人か見てきた。当然の摂理なのに、客はどんどんつかなくなるので、そのうち立場がなくなる。やがて底値まで落ちて、最後は強制的に卒業させられる。事実上の払い下げらしいとはほんのりと聞いたが、友達付き合いのないレザはその後どうなるのか具体的なことは知らない。


 漠然とした不安が襲いかかってくる。


 もう恐ろしいことは何もないように思っていたが、案外怖いものがまだ残っていた。


 本物の見世物小屋に行かされるのかもしれない。いっそ殺してほしい。


「……ザ。レザ?」


 はっと我に返ると、ナリオが金茶の瞳でレザの顔を覗き込んでいた。


「顔色が良くないよ。ちゃんと寝てる?」

「問題ない。大したことじゃない」


 あんずのパンを包んでいた紙をたたんだ。右手で紙を持ったまま左手で自分の髪を掻き上げる。


「あ」


 ナリオがレザの左手をつかんだ。


「ここ」


 触れられたところが熱くなった。指先が震えた。

 客にはもっと敏感な場所を触られているというのに、レザは今この二年間で一番の羞恥を感じた。こんな穢らわしい自分にナリオの手が接触しているというのがたまらなく恐ろしかった。


「傷になってる」


 彼は何も思っていないのだろうか、指をくつろげるようにしてレザの手を開かせた。そこにこの前噴水の石組みに這いつくばってできた擦り傷があった。


 思わずうつむいてしまった。


「大した傷じゃない、少し擦り剥いただけで」

「そう? なんだか痛そうだけど。転んだの?」


 ナリオは、レザがどんな痴態を晒しているのか知らない。

 自分をとてつもなく醜いもののように感じる。


「まあ、そう。そんなようなもの」

「そう?」


 ナリオの手が、レザの手から離れた。


「つらいこととか、何かあったら言ってね。俺、聞くことしかできないかもしれないけど」


 何もない。ナリオに聞かせられることは、何も、だ。仮に聞かせられたとして、彼には本当に聞くことしかできない。この呪われた紫の瞳がある限り誰にもレザを救えない。

 そんなことを思って、自分は救われたいのか、と思い至った。不思議なものだ。そんなことはもう二年前に諦めたと思っていた。


 ナリオの白いパンを食べていると、人間性を取り戻した気分になる。


 そんな考えを振り切った。そして噴水での出来事を反芻した。


「そういえば、お前、モテるようだな」


 ナリオが目を瞬かせた。


「モテる? 俺が? どこで?」

「ここで。同僚の有象無象がお前に会いたがっている」

「ここの男の子たちがってこと?」

「そう。お前は優しくて背が高くて、ここらでは一番いい男だと囁かれていた」


 言ってから、失敗したかもしれない、と思った。薄汚い男娼たちにそんな評価をつけられて嬉しい堅気かたぎの人間がいるだろうか。


 しかしナリオは表情を緩めた。


「そっか、なんかちょっと嬉しいかも。ここの百戦錬磨の男の子たちが俺のこと褒めてくれてるんだ。へえ、なんだかいい気分」

「気持ち悪くないのか?」

「うーん、そうは思わないかな」


 照れ隠しなのか、彼は彼自身の頬を揉んだ。


「あのさ。ちょっと、変なことを言うかもしれないけど。聞いてくれる?」

「何だ?」


 パンをタダでくれる礼だ。それにナリオについてもう少し知りたい。


「聞く、聞く」

「実はね」


 彼はちょっと下を向いた。


「俺、男が好きなんだ。昔からそうで、その、将来は男の恋人と暮らしたいと思ってる」


 レザは仰天した。世の中にそんな趣味の人間がいるとは思っていなかった。少年たちを買う男たちはあくまで少女の代わりとして美しい少年を抱いたり痛めつけることで嗜虐心を満たしたりするのだと思っていたから、真剣に同性の恋人が欲しいと言う人間が存在することに驚いた。


「そういう相手がいるのか?」

「今はまだいないけど。俺はまだ修行中の身だから、色恋沙汰とか、とてもとても。別に親父に禁止されてるわけでもないんだけどね」


 興味をそそられた。


「僕はお前の好みのタイプか?」


 するとナリオの顔が耳まで真っ赤に染まった。


「いや、だめだよ。レザはまだ子供すぎる。もっと大きくなってくれないと、そういう気にはなれないと思う」

「そういう気とは……」

「それにレザは売れっ子だから、身請けするにも膨大なお金がかかるんだろうな」


 衝撃を受けた。身請けという概念を知らなかった。そうやって生きる道もあるのかと思うと身震いした。


 自分の紫の瞳をこれほど憎いと思ったことはない。レザは借金があってここにとどめ置かれているわけではなく、紫の瞳をした元王族の少年を強姦することで勝利に酔いたい人々の欲求を満たすために生活している。そんな自分をよそに売り渡すだろうか。それとも、自分の身体が成長して興味を失う人が増えれば、値崩れを起こして不要になるだろうか。


 泣き叫んで喉をかきむしりたくなるほどその日が来てほしい。


「レザが大人になる頃には、貯金、できてるかなあ」


 ナリオが常日頃レザに早く大きくなってほしいと言っているのは、レザが男性を愛するナリオにとってちょうどいい大きさになるのを待っているということかもしれない、というのにようやく気づいた。少女のように愛らしいレザはまだ子供で性の対象ではなく、心身ともに恋人にしても差し支えのない大人の男性になってほしいと願っているのかもしれない。


 こんなふうに生を肯定してもらえたのは、ここに来て初めてだ。


 どっと涙が溢れ出した。ナリオに迷惑をかけないようにと歯を食いしばり声を出すのはこらえたが、次から次へとこぼれて止まらない。


「え、泣いちゃった? 気持ちが悪かったかな」


 首を横に振る。


「出世して金を貯めてくれ。いくらでも待つから」

「レザ……、そう言ってくれる?」

「たくさん食べる。たくさん。早く大きくなりたい」

「嬉しいけど、あまり無理はしないようにね。無理して詰め込んで吐いたりなんかしたら意味がないから」


 ナリオの大きな手が、レザの骨の浮いた背中を撫でた。

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