今日は死体埋め日

目々

彼此岸反復横跳び

「『今日死体の日だから空けといてね』ってさ。もうちょっと気の利いた言い方できないの、タカシさん」


 文句の体裁を取りながらも極力棘を取り去った声音で問いを投げて、秀晶は助手席に凭れ、窓の外に視線を向ける。

 八月も半ばを過ぎて、死にかけた夏の残滓が微かに息をしているような夜。暗い道の左右には首をだらりと折って萎れ始めたひまわりの残骸が群れている。対向車も後続車もいない道路で律義に赤信号で停車しながら、崇は夜闇に滲むように光る灯火に目を細めた。


「言ってもねえ。僕センスとかあんまりないからね、いいじゃない死体の日。燃えるゴミの日だってゴミの日って言うでしょ」

「そりゃそうだけど。……そうだけどさ」

「聡兄さんだったら何か気の利いた呼び方ができたかもしれないけどね。ごめんな、おじさんあんまりそういうの得意じゃなくって……」

「謝んないでよ、そんなことで」


 と低い声の呟きから少し間をおいて、助手席の窓が無造作に開く。流れ込む夜風は瀕死の夏の気配を纏って不愉快な温さを帯びていた。

 微かな音を立ててライターの火が一瞬灯り、すぐに嗅ぎ馴れた煙草の匂いが漂う。


「けど何度目だよって話だよ、タカシさん。つうか何度目でも見つからねえのは何でなんだろうね」

「見つかんないならいいと思うけどね、僕としてはさ」


 何度目かも分からない会話。最早カーナビに頼らずとも迷うことの無い道を深夜に走るたび、秀晶は同じ疑問を繰り返す。崇も同じ答えを返し、そしていつもオチも結論もないまま会話は煙草のために開けた窓から煙と一緒に流れて失せる。


 部屋に死体があるんだと甥の秀晶から泣きそうな声で電話が掛かってきたのが五月の半ばのことだった。

 今や崇以外は誰も住んではいない実家の自室で、鳴り響く着信音と秀晶の喚き声に叩き起こされて、怒りというより困惑するばかりだった。万年床の上で日曜の朝から鳴き喚く名前も知らない鳥の声と凶暴な日射しに脳を灼かれながら、とりあえず髭ぐらいは剃ってから駆け付けた方がいいんだろうかとひどくどうでもいいことを考えていた。


 アパート前の駐車場、車止めの側には数本の吸い殻が捨てられたままになっていた。

 秀晶が大学に進学したとき、仕事の都合がつかなかった父親に頼まれて近場に住む唯一の親族として引越しの手伝いに訪れて以来の訪問だった。

 セキュリティなんて概念を買い叩いた分だけ家賃が安いことを証明するような薄っぺらくて傷だらけの扉の前でチャイムを押せば、開いたドアから何かが覗いたかと思った途端に伸びてきた手に腕を掴まれて引きずり込まれた。


 そのまま狭い玄関で黙って俯く秀晶を、崇はしばらく黙って眺めていた。食い込む指がひどく冷たいことに驚きながらもそれなりに痛いから離してくれないかな、などとぼんやり思いながら、それでも相手を刺激しないような質問から始めた。


「なあ、秀ちゃん。おじさん来たからさ、説明してくんないか」

「……あのさ、俺、その」


 指に一層の力がこもり、崇はさすがに眉を顰める。

 振り払うのは逆効果だろうな、と分かるくらいに動揺している秀晶の真っ白な掌を見て、僅かに思案してからとりあえずの言葉を吐く。


「分かんないけどさ、おじさん──僕はとりあえず味方だから。小さいときから、ずっとそうだったろ?」


 どこかがひどく痛んだのを堪え損ねたように勢いよく顔を上げて、その父親に似た目が怯えた色を滲ませて崇を見た。

 どうしようタカシおじさんと縋りついてくる声が、どこに行こうと無邪気に後を着いてくるほどに懐いていた子供の頃のままだったのが妙におかしかった。


 細かな傷の目立つ、艶のないフローリングの床上に赤いアロハ。芸術と悪趣味の境目のような光景だと陳腐なことを考えてから、崇はひっそりとため息をついた。

 片付いているというより独房じみて物がない部屋に横倒しになったままの男は今にも起き上がりそうなほどに安らかな横顔を見せていて、すべてが秀晶の勘違いなのではないかと思う程には『死に顔』という言葉から遠い表情をしていた。


「全然──全然、知らないやつなんだ」


 開け放したドアに掴まり、肩口を壁に預けたまま、秀晶は目を閉じて言った。


「昨日の夜、連休中の短期バイトの金で飲み歩いてて……二軒目くらいで会ったような気がしなくもないけどそれもはっきりしなくて、そもそもどうやって帰ってきたのかも分かんない──けど、朝頭痛くって目が覚めたら、」


 開いた目が男を見てからすぐに逸らされ、崇の方へと向いた。


「警察を呼ばなかったのは?」

「……分かんなかった、から」

「分かんなかったっていうのは、秀ちゃん」

「俺が!」


 細い喉から唐突に迸った大声に崇は微かに目を見開く。秀晶自身も自分の放った声量に驚いたのか目を丸くして、深々と深呼吸をして続けた。


「おれが、殺したかも、しれないから」


 そんなことがバレたら親父に怒られると幼稚な一言を呟く声は焦燥と怯えでひどく震えていた。

 息は止まっている。触れた首筋は五月半ばの室温よりも冷え切っている。何よりも秀晶の独白の最中にこじ開けた片目が一向に閉じる気配もなく空を見ているのだから決定的だ。


 これが死体なのはどうしようもない事実だ、と崇は状況を再認識する。それ以外のことが何一つ分からないのが問題だ。秀晶に何の落ち度もないという確信があるならば、善良な小市民としては甥を説得して警察に通報するべきだろう。見た目には外傷も何もないように見える。事件性がなければ秀晶は晴れて疚しいことのない身だということが証明できるはずだ。


 それでも万が一、記憶も消し飛ぶ酔いの最中に秀晶が何かをやらかしていたのだとしたら──


 その思考が浮かんだ途端、崇の心臓は刃物を差し込まれたように跳ねた。

 兄によく似た顔が、憎たらしいほどに兄によく似た甥っ子が、この状況で自分だけが頼りだと縋りついてくる。可愛い甥であり、それでいてあの兄の子でもある。幼い時から憧れて、それでいて恐れてもいた兄の子の命運が、自身の手の中にあるのだ。

 抑え難いほどの高揚を自覚した瞬間、結論はとっくに出ていたことに気づいた。


 ツテもアテもなかった。だから安直に夜を待って山へ行った。実家の物置から引っ張り出した雪かき用のスコップで穴を深く深く掘って埋めようという、いかにも素人じみた思いつきでしかない崇の提案に、秀晶は半ば呆然として従った。


 生温い五月の夜、男を埋めた穴の側で墓標のように秀晶は立ち尽くしていた。


「バレたらな、僕のせいにしていいから」


 崇が荒い息を誤魔化しながら吐いた安い言葉に、秀晶は顔をくしゃくしゃに歪めた。兄ならば絶対にしないような表情だと理解して、身が震えるほどの歓喜に崇は口元が緩むのを堪えた。


 その素晴らしい夜から二週間経った雨の土曜日。

 また死体が部屋にある、と半狂乱になった秀晶が電話口で叫んでいるのを聞いて、崇は背骨を引き抜かれたような不安感に襲われながらもとりあえずは雨合羽を用意しなくてはいけないだろうなと考えていた。


 信じがたいことだが、それから死体は埋めても埋めても戻ってきた。掘り返されている、などといった様子ではない。死体には腐敗の兆候どころか土汚れの一つもない。初めて甥の部屋で転がっていたときの姿──場違いに安らかな横顔と馬鹿みたいなアロハシャツ──のままで、フローリングの床の上に居座っているのだ。


 理屈も仕組みも分からないが、だからと言って何もしないわけにもいかない。崇と秀晶はその度に五月のあの日を繰り返した。手元に置いていくわけにはいかないのだから、それしか手段がない。今更通報したところで死体これが戻ってこない保証もないのだ。


 そんなことが三ヶ月続いた。

 もう狭い1DKに死体が出現しても甥も錯乱するようなこともない。ただ事務的に死体埋め日──度重なる死体の遺棄と出現に周期があることに気づいた崇が名付けた──になったという連絡を受けては深夜に車を出す。慣れてしまった手順で穴を掘り、埋めて、一服して車に戻る。


 ずっと悪い夢を見ているのかもしれない。崇は何度もそう考えた。気が狂ったのだとしてももっとマシな悪夢があったのではないかと考えてから、バチが当たったのだとしたら妥当かもしれないなと思い直す。


 誰にとっての罰なのかはこの際考えないことにしよう、と崇は思考を打ち切る。

 丁度良く信号は青に切り替わり、アクセルを踏めば低い唸りと共に車は走り出した。


「……たまにね、夢を見んのよ」

「どんな?」

「何かこう、タカシさんと口論になってさ。で、実家の灰皿あんじゃんデッカいやつ。あれが何でか手元にあるから勢いでガンッ」


 息継ぎのように煙を吐いて秀晶は続けた。


「そんでどうしよう、ってなって目が覚める。本当だよ。そうなったら今度こそどうしようもない」


 暗いフロントガラス越しに秀晶の目が映る。

 照明の具合だろうか、妙に白眼が目立つように見えた。


「最近思うんだよ。月一で穴掘ってる最中、タカシさんの背中を見てると、ここであんたも一緒に埋めたらバレないかなあって」


 俺運転免許持ってるしさ、と咥え煙草のまま秀晶が言った。


「……別にいいけどね、僕としては。でも、二人がかりでも大変だったろ」


 崇の問いに秀晶が頷く。

 崇はフロントガラスを見つめたまま、ゆっくり目を細める。


「見つかるといいな、手伝ってくれる人。そんならまあ、あれだ。ちゃんと殺してから埋めてくれれば……僕としては文句はないな、あんまり」


 生き埋めってひどいからなと返せば、笑いに似た声が微かに聞こえて、すぐに紫煙に混ざって消えた。

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