後編



 目を覚ました時は、すでに日が高かった。

 見慣れない室内と、嗅ぎ慣れない臭いに少しだけ固まってから、昨晩、寝落ちするまでの出来事が前頭葉でさらさらーとスクロールされていく。


 ――では、明日の朝一〇一五ひとまるひとご


「ふみゃあっ!?」

 主の覚醒を察して機能復帰した生体ポータルが、目の端に現在時刻を表示する。ただいま朝の九時三十分。

 約束の時間まで、もういくらもない。

 何という不覚! などと自分に突っ込んでいる暇もない。朝食は当然抜くとして、洗面とか、身繕いとか――


 ――クサイのよ、あんた! 何年ドブ川に浸かってたらそんな臭いになんのよ!


 昨日聞いた、コボルトの娘の罵声が鮮やかに蘇る。それは無意識的な自身への警告そのものだった。

「にゃああああああっっっ!?」

 えらいことである。数日来の悪臭を抜くどころか、昨日は顔ひとつ洗っていないのだ。

 本日も一日、植生調査で山々を一日歩き回る、という、ここ数十年来のルーティーンが繰り返されるのなら、このまま出ていってもいい。葉っぱの露を集めて顔ぐらい洗えるだろう。

 しかし、ここはセントラルで、これから都市住民として人に会うのである。しかも、ただの仕事付き合いの相手などではない!

 次の十五分間、アミラは永年の知恵を集大成して、必殺の脱臭技をすべて我が身に試した。明日から少し毛が抜けるかも知れないな、と思いつつ、使える薬剤と貴重な水をさんざんに消費して、これだけは手荷物に携帯していた臭気チェッカーの数字を睨む。

 ぎりぎりなんとかごまかせそうだ。あとは滅多に使わないコロンを濃い目にふりかけて。

 さて、いよいよ勝負服を。

 …………

 ……

 ぱんつとブラは?

「はにゃにゃにゃにゃあああっ!?」

 水浸しの姿で、アミラは一瞬、発狂寸前になった。オーバーでなく、ポータルの体内モニターが異常ストレスを最大値で警告してきた。こんなことは二十四年前、西部海岸で肉食性の大型ミミズの群れにキャンプ全体が急襲されて以来である。

(落ち着けっ! 死ぬわけじゃない!)

 なんとか自分をなだめ、事態を整理する。

 これから一生もののイベントに臨まなければならない。目標は最大限に自分を高く評価してもらうこと。

 そのための服はある。けど、下着がない。

 選択肢は?

 1 これから超特急でコンテナを漁る。……確率的に無理っぽい。何よりも、また汗だくになってしまう。

 2 さっきまで着てたものを大至急洗濯、脱臭、乾燥させるのは……ちょっと間に合わない。

 3 下着なしで行く……これまでには、そういう装いで戦った日もあった。それは憶えている。でも、今日のこれはマズい。色々とマズい。軍人としても、社会人としても、女性としても――。

 4 ならば、下着の代わりになるものは。

 アミラは居室の中をすばやく見回した。ブラの代わりになるもの。パンツの代わりになるもの。そんな都合のいいもの、あるわけが――

 と、アミラの視線が、昨晩の食事の残骸の上にピタリと止まった。

 そこには、ピンクポテトのツルと、ピンクナッツの殻がほったらかしになっていた。

 ツルはちょうど細めの帯ぐらいの幅と厚さで、殻はなだらかな浅いカップ状のものが、ちょうど二つ転がっている。

 ナイフもある。

 時刻は九時五十三分。加工に要する時間を一瞬で計算し終えると、アミラは覚悟を決めたように、それらの素材へと手を伸ばした。



 十時二分、ベレーを軽く整えながら、アミラはドアの施錠をした。

 今日も天気はいい。春らしい陽気で、街全体も何となく柔らかい雰囲気を感じる。

 中天にさしかかっている陽の光に目をすがめていると、背後からかしこまった声が投げかけられた。

「お出かけでありますか、カミザキ大尉」

 振り返ると、昨日のコボルトの親子がいた。たまたま出かけようとしているところに鉢合わせたようだが、居住まいが昨日と全然違う。子供達も揃って真面目くさった顔つきで、目が合った途端にびしっと敬礼なぞ決めてきた。

「昨日の非礼の件、改めてお詫び申し上げます」

「あ、いや、どうぞお気になさらず。あたしもう、退役してますし」

 しどろもどろで返礼したものの、ゴスケはもちろん、半日前に噛みつかんばかりだったジローダやサンミまでが、やたらとキラキラした目でアミラを見上げている風なのを目の当たりにして、ちょっと困ってしまう。

「ご立派なお姿ですが、これから表彰式典などにいらっしゃるので?」

「え? いえいえ、とんでもない。ただのプライベートです。ちょっと大事な人に会うので」

「そうですか。カミザキ大尉のご活躍は、当然褒賞の対象になるべきものと、僭越ながら愚考する次第であります」

 苦い表情を抑えるのに苦労した。ケルヒラに寄ってくれと中央が泣きついてきた時、アミラが出した条件は、この件を自分の功績にするな、というものだった。通りすがりがたまたま暴れまわって、それがたまたま幻獣に当たったことにしろと。

 そうしておかなければ、アミラは昇進してしまう。昇進したら少佐になってしまう。少佐になったら、あの人と肩を並べてしまう――と、そこは口に出して言うことはなかったが。

 できれば色々と話をしたそうなコボルトの親子達に、急ぎますのでと断って、ようやくのことでアミラは道を歩き出した。

 公園は徒歩二十分の距離だ。アミラは四分で着いた。

 おかしなことではない。「徒歩」はヒューマンが地上の道をゆったり歩く際の尺度だ。時に建物を飛び越えたりするのが当たり前のコボルトやワーキャットだと、時間は大幅に短縮される。

 西口には、すでにミノルの姿があった。五歩ほどの距離を置いて、アミラは高ぶる感情を抑えかね、しばし棒立ちになった。

 ミノルがふっと顔を上げ、アミラと目を合わせた。

「直接会うのは四十年ぶりぐらいかな?」

 気さくな笑みを浮かべて、青っぽい暗灰色な上品な毛並みのコボルトがゆっくり近づいてくる。

「……なんだ、泣いてるじゃないか」

「泣いてません」

「それにその服。懐かしいな。私も着てくればよかった」

「二人とも礼装服じゃ、悪目立ちしすぎですよ……」

 どうやら物々しい印象だけは回避できたようだ。いっとき胸が一杯になったのを何とか抑えて、服のチョイスに間違いがなったのを幸せな気分で噛みしめるアミラだった。が。

「それと、うん? なにかユニークな香りがするね。こう、フルーティーと言うか」

 さりげなくミノルの腕に自分のを絡ませようとしていたアミラが、ぴたっと動きを止めた。

「なんだろう。ちょっとこれは今まで――」

「あ、あのっ、とりあえず、街の真ん中を見てみたいんですけどっ」

「ん? そうか。そうだったね。では行こうか」

 もちろん、アミラには分っている。ミノルの言う"ユニークな香り"は、今アミラの素肌に密着しているアレから発しているものに違いない。

 んなことをバラしてどうする!

 それからの一時間ほどは、楽しくもハラハラし通しのひとときだった。雑貨店の店頭を冷やかす時はそれとなく風上に立つのを避け、大型店に入る時は歩く方向を常に意識してミノルの後ろに位置することを心がけ、礼儀正しさを表に出しつつ安全な間合いを保ち続けた。

(べったりくっつく千載一遇のチャンスなのに!)

 内心で悔し涙に暮れつつ、でもその機会はこれからもあるはず、と自らを慰めていた。

「結構歩いたな。そう言えば、そろそろ昼食時か」

 正午近くになり、ミノルがそう言って行きつけのビストロに案内してくれた時は、正直ほっとした。食事どころであれば、衣類からの微妙な香りなど、どうにでもごまかせる。

 ようやくミノルとも落ち着いた話ができる、とも思った。歩きながらでは、いわゆる「積もる話」は何一つできないままだった。

 やれやれ、という気持ちで、それほど大きくはないビストロの卓につこうとした、その時だった。

「あんれー、アミラとミノルじゃないか」

 能天気な声が奥のテーブルから聞こえてきた。ミノルはその瞬間、驚きつつもぱあっと顔を輝かせ、アミラは愕然として苦虫を千匹噛み潰した顔になる。

(なんでこいつがこのタイミングでっ!)

 奥のテーブルで手を振っていたのは、セントラルでも少数派のヒューマンだった。両脇を固めている随伴者二名もヒューマンだ。遺伝子改変操作の万が一の事故に備えて、旧ミドウスジ号の一部のスタッフは、あえて純粋な人間のままでいることを求められたのだが、その数少ない実例が目の前の三人である。もっとも、細胞の若返りについては何の制限も設けなかったので、結局亜人類になるのがイヤだった奴らの逃げ道だったんじゃないか、との疑惑は、一部でくすぶり続けてはいる。

「いやー、嬉しいな。着いた早々、同窓会が開けそうじゃないか」

 明るい声の主は、そんな陰口に全く頓着してないような天真爛漫さで、アミラとミノルを迎え入れた。二百年前の移民事業で全権責任者となり、退役扱いとなった今もこの星の行政に強い影響力を持ち続けている男、旧ミドウスジ号艦長、ヨドガー・オオサカである。

 ミノルがテーブルの手前でびしっと敬礼を決めた。不承不承、アミラもそれに倣う。

「ご無沙汰しております、艦長。再びお会いできて光栄です」

「艦長はやめて。航宙艦なんかとっくに解体済みで、もう百年前から町並みの一部だっての」

「はい、オオサカ大佐」

「ヨドガーでいいって。君も元気そうだなー、ハーマーヤーディ少佐」

「どうか私のこともミノル、と」

「うん分かった。アミラも久しぶり。てか、何、その格好」

「カミザキ大尉と呼べ。気安く呼ぶな」

「うわー、相変わらずだなー」

 軍属にあるまじきアミラの態度を全く咎める風もなく、むしろひときわ嬉しそうに歯を見せて笑うヨドガー。と、その左隣りに座っていた女性がすっくと立ち上がってアミラを指さした。

「身をわきまえろ。艦長に向かって何だ、その口の聞き方は」

「おやケルマン中佐。本日もヨドガーのお守り役、ご苦労さまですこと」

「副長と呼べ。元航宙飛行大隊長風情が、ヨドガー様を呼び捨てなどと」

「だって本人がそう呼んでくれって百七十年も前にあたしに頼んだんだし」

 アミラと女性との間に期せずして火花が飛び散った。向こうのテーブルでは、勘違いした客の一部が深刻そうな顔でこちらを窺っているが、むろん、全部茶番である。エリザベス・ケルマン中佐。かつてミドウスジ艦内で、アミラに言い寄るエドガー、そのエドガーを密かに(しかしバレバレで)慕うエリザベスという三角関係が、いっとき耳目を集めたことがあり、三者とも二百歳を超えた今でも、その関係は暗黙のネタとして続いているのだ。

 とは言え、エリザベス・ケルマンとは反りが合わないというのも事実ではある。

 それにしても、ケルマン副長がセントラルにやってくることは、昨日のミノルとの会話で聞いていたが、艦長までくっついてくるとは。まあ退役軍人同士、暇を持て余しているだけなのだろうけど。

「で、アミラ、その格好は何?」

 一通りの儀式がすんでアミラとミノルが着席すると、ヨドガーが質問を繰り返した。

「まだ訊くのか。ってか、見てわかんないの? 引っ越してきたばかりだから、こちらの少佐……ミノルと、そのデー……いや、ちょっと街の案内を」

「「……ははあん」」

 さすがに元艦橋組は察しがいい。今さら隠すことでもなかったが、アミラは思わずそっぽを向いて、しかめっ面を作ってやる。黒毛のワーキャットだと、こういう時に赤い顔が見られずに済むのがいい、と思う。少なくともヒューマンには見分けがつかないはずだ。とは言え、目の前の二人はアミラの顔面温度の変化など、先刻お見通しだろう。一方で、当のミノルはどこかが決定的ににぶいタイプで、ただニコニコとアミラ達の会話を眺めているだけだ。

「とりあえず食事にしようか。二人とも時間はあるんだろ? 百ン十年ぶりに、パワーランチと洒落込もうじゃないか」

 ヨドガーがそう言い、そのまま旧い悪友達は昼食を共にすることになった。

 当初、適当に席を立つつもりだったアミラだが、そこは積もる話の量が半端ではなく、気がつくと、時にはむしろ場をリードしながら、硬軟織り交ぜてのあらゆる話題を語り合う流れになってしまった。

「だから、これからは星全体でまとまっていくことを第一にしていかないと、ダメだよ」

 アミラがそう力説したのは、デザートも終わって全員がコーヒー類を嗜んでいる最中のことだった。

「中央参謀部にいっぺんきちんと言いに行かなきゃって思ってたんだけど。あの御大層な"幻獣討伐"って、ワーキャット部隊の感覚じゃ、ただちょっと規模の大きい水獣狩りなんだよね。いや、別にコボルトのレベルがどうとか言うつもりはないの。つまり、それぞれの種族とかクラン単位で貯めてる戦術のノウハウが、今のところ全然融通し合う形になってないでしょ?」

 先だってのケルヒラ湿地帯での作戦を巡る、アミラの所感である。永年ワーキャット部隊の上層で経験を積んできたアミラからすると、幻獣を仕留めたとの高い評価は、種族間での認識のすれ違いがおめでたい形で吹き出したもの、としか思えなかったのだ。

「データはきちんと全星規模で閲覧できるようにしてるけど?」

 ヨドガーが一応の反論という感じで言葉を挟んだ。

「もちろん、分かってる。でも、どんだけ生体ポータル経由でリアルな体感データ流したところで、それは戦闘の体験じゃないんだし。佐官級で意見交換するような会議とかはもういいから、下士官レベルでお互いを教え合うようなこと、中央の方で主導できないの?」

「我々はもう退役済みだからな。この時代に、そんな少人数の思いつきをいきなり統合会議に持ちかけるわけにもいかん」

 ケルマンがそっけなくコメントした。

「だが、アミラの言い分は分かる。種族とクランに分かれて、我々は薄く広く、この星を知ることを優先してきた。そろそろ次の段階だろうとは思う。そうは思わないか、准将?」

 元副長が水を向けたのは、ヨドガーを挟んだ反対の位置に座り続けている、もう一人のヒューマンである。ヌルル・ヌルヌルーディ准将。旧ミドウスジ号メディカルセンター主幹、要するに主席艦医である。二千数百人を獣人に改造したマッドサイエンティストなどと、銀河の一部からは悪役じみた扱いも受けているようだが、旧乗員の間であえて弁護しようとする動きはない。人の体をおもちゃにして嬉しがっていたのは、誰がどう見ても事実だからだ。

 むろん、禿げ上がった頭に長い白ひげの薄気味悪い外観をわざわざ選んで、二百年近く維持しているという変人ぶりも、悪評の材料になっているだろう。だが、旧艦橋組とはそれなりの友情で結ばれているようである。

「医者の立場からは別に大したことは言えんな」

 ヌルヌルーディの言葉は、いっそそっけないほどだった。

「諸君らの体の差異は、外見ほど大きなものではない。そもそも猫だアザラシだと、個性を競い合うほどのものでもなかったんだが」

 さすがにアミラがツッコミの構えを見せた。准将は即座に、分かってる、と手を挙げて、

「まあ、我々の存続がかかっていたんだし、軍団……調査団か? そういう集団としての帰属意識抜きにやっていけなかったのも確かだ。とは言え、人口もおおむね順調に伸びているし、その数字に合わせての食料確保のめども立った。分断よりは統合の方向に持っていくべきだと、私も思う」

「そういうことは、でも、上からの掛け声よりは、下からの動きであることが望ましいのでは?」

 ミノルが考え深げに呟いた。興味深いものを見る目で、ヨドガーが問い返す。

「君らしい意見だが、そもそも君自身はこれから何をするつもりなんだ?」

 ミノルがまばたきをしてヨドガーを見返した。

「と言いますと?」

「とぼけるなって。行政改革の話をしてるつもりなんかないんだろう? その下からの動きってのは、具体的にどんなものを考えてるんだ?」

「文化です」

 ミノルが即答した。

「というより、文化でなければならない、と思っています」

 ミノルの言葉を予想していたように、ヨドガーが質問を継ぎ足す。

「具体的には?」

「特にどういう文化と名指しするつもりはないんですけど……まあ音楽でも美術でも。むろん行政機構の交流事業なんかでも一向に構わないんですが、人をまとめていくのは、やはり文化活動ではないかと。すみません、私も今、何か新しい動きがないかと色々探している最中で」

「あたしねえ」

 アミラがそう割り込んだのは、自身でも全く想定外だった。ミノルと二人っきりの時に、もっといいムードになってから相談しようと思っていたことだ。でも、なぜだかアミラは、妙に口が軽くなっている気分だった。話すのなら今しかないと思った。

「映画作りたいなって思ってるんだけど」

「映画!?」

 ヨドガーが素っ頓狂な声を上げた。昼食時でさらに混み合ってきたビストロの客が、いっせいにアミラ達のテーブルに顔を向ける。

「映画って、あの映画? そんなの、地球からの定期配信でも」

「うん、けど、この星を舞台にした映画なんて、まだほとんどないよね。なんか、植民事業団謹製の記録ムービーみたいなのはあるけどさ」

「今までそれどころじゃなかったからなあ」

 感慨をこめて同意したのはヌルヌルーディだった。懐かしいものを思い出すように、細い目で中空を見やっている。

「確かに悪くない試みかも知れん。しかし、これだけ種族が入り混じったうちの星なんかに合うシナリオなぞ、どこにある?」

「作ればいいじゃない。って言うか、うちの星の話をそのまんま映画にすればいいんだよ」

「ええ? でもそれは」 

「面白いな!」

 副長が懐疑的に返そうとしたのを遮るように、ミノルが声を上げた。

「映画か。それはいい。少人数でも大会社でも、素人でも専門家でも作っていける。趣味と割り切ってもいいし、ビジネスにしていけるならそれもいい」

 いきなり絶賛されて、アミラは面食らった。いつになくミノルが興奮しているようにも感じられる。

「私も応援する! そうだ、さっそくプランを考えよう! 監督は君がやるのか、アミラ?」

「え、ええと、まだそこまでは」

 実は撮影スタジオを作るつもりでいました、などと言えば、なにかとんでもない方向に話が飛んでいきそうな気がして、つい曖昧な言い方になってしまう。ヨドガーが苦笑しながら、ミノルの肩を叩いた。

「少し落ち着きたまえ。そこまで急がなくても、映画は逃げないよ」

 はっと我に返ったような素振りを見せて、急にミノルが押し黙った。昼食で特にアルコールは摂っていなかったようだけど、と、アミラも内心で首を傾げる。

 ちょうどそのタイミングで、店に流れていたBGMの雰囲気が変わった。周りにいた客たちの何人かが、組になって店のフロアでくるくる回りだす。

「何これ?」

 アミラが口に出すと、ヨドガーもちょっと珍しそうに、

「ダンスタイムってやつらしい。セントラルでそういう習慣が出来ているとは聞いたことがあるけど」

「へえ」

 ケルマンが口の端を曲げて、煽るようにアミラに言った。

「踊ってきたら? ミノルと一緒に」

「えっ!?」

 すかさずヨドガーが乗っかってきた。

「それはいい。カミザキ大尉、ハーマーヤーディ少佐とダンスを楽しんできたまえ。艦長命令だ」

「拒否します」

「それはミノルとは踊りたくない、という意味か?」

「えええっ、そ、そうじゃないけど」

 慌てて隣を見る。心なしか、ミノルの顔は少し傷ついているように見えた。

「か、艦長命令なんかでそんなこと」

「よし、ケルマン中佐、ヌルヌルーディ准将、協力してくれ」

「エリザベス・ケルマン、先の命令内容に同意します」

「ヌルル・ヌルヌルーディ、以下同じ」

「受領した。艦長と副長と艦医の同意により、軍団最上級命令とする。アミル・カミザキ大尉、君の相方とダンスを踊ってこい。今すぐに」

「なんだそれーっ」

 もう艦長じゃないって言ったくせにっ、とか言うつもりだったが、自分の欲望とも矛盾することを言い立てるのも何なので、仕方なさそうにミノルの手を取る。

 ミノルはただ黙ってアミラの手を握り返した。

 ダンスと言っても、大したステップがあるわけじゃない。ただ、どうやら四拍子らしいので、アミラはちょっとしたいたずらを考えついた。

「ねえミノル、なんだか迷惑なことに巻き込んで申し訳ないんですが」

「……いや、迷惑ってわけじゃ」

 ミノルはなおも言葉少なに、それでもいくらか積極的にアミルに合わせた動きをしている。

「私の動きに合わせて手を握っててくれますか? ただ適当な時に手を取ってくれるだけでいいんで」

「ん、何をするのかな?」

「懐かしいものをお見せしますよ」

 カツッとアミラの靴が威勢のいい音を立てた。ビートに合わせてカッカッカとステップを踏み、動きを止めてはそれを繰り返す。

 タンゴのリズムだ。十八番の「黒ネコのタンゴ」。

 流れている曲想は全然それっぽくないのに、強引にステップを決めていると何となく様になっているのだろう、周囲の客たち――ほとんどがコボルトのカップルや家族連れ達――が、アミラに目を瞠り、踊りを止めて見物するようになっていく。

 ちょっといい気分。艦長達はもちろん、大喜びだ。

「ああ、アミラ!」

 曲が終わるやいなや、ミノルがアミラをその場で抱擁した。予想のはるか上の事態である。アミラは驚きで卒倒しそうになった。

「え、え? ミノル、ど、どうしたんですか?」

「分からない。なんだか、君の踊りを見ていると、こう」

「ああ、あなたらしく、な、ないですよ、こんな」

「そ、そうかもしれない、けど」

「アミラ、あんた」

 いきなりケルマンが目の前にやってくると、突然身体検査をするように、アミラの胸とか腰とかを、礼装服の上から撫で回し始めた。

「なななな、何するのっ!?」

 ケルマン元副長は呆れたように腕を組み、一息に言った。

「あんた、ピンクナッツの殻をブラ代わりにしてるでしょう? で、ピンクポテトのツルをフンドシ代わりに?」

「フンドシって何!?」

「あんたが今着用している、そういう下着の一種。別にあんたの趣味はどうでもいいんだけど」

「しゅ、しゅ、趣味なんかじゃ」

「うん、どうでもいいんだけど、その植物、ワーキャットの体液を含むと、どうやらろくでもない揮発性物質が生成されるみたいで」

「……いったい何の話?」

「たった今准将が分析した結果の話。回りを見てご覧なさい」

 言われて首をめぐらせたアミラは絶句した。アミラ達を見物していたコボルト達が、なんだか異様な雰囲気で人垣になって取り巻いている。なんと言うか、見るからに襲い掛かってきそうな、でも敵意は全然見えなくて――

「こ、これって」

「平たく言えば、対コボルトの特効媚薬ってとこね」

「はあっ!?」

「逃げた方がいいんじゃない? オスにもメスにも効果があるみたいだから」

 そう言って、薄情にも自分のテーブルにまっすぐ引き下がっていくケルマン。その途端、人垣の一部が崩れて、アミラに掴みかかるような動きを見せた。

「いや、ちょっと」

 手心を加えて床にのしてしまうぐらいはできるが、人数が人数である。アミラは逃げた。立体移動しながら店の出口にたどり着き、街路のすぐ先にあった大きなニレのような樹木へ、幹を駆け上がって枝に載る。地上からの高さは五メートルほど。

 コボルトになったら木登りができなくなるというわけでもないだろうに、樹の幹をつたい登ってくる犬は一人もいなかった。が、みんなしてぽわんとした顔のまんま、樹の下で物欲しそうにアミラを取り巻いている。

「どーにかならないの、これっ!」

 面白そうな見物人の顔で店から出てきたヒューマン達へ、アミラは怒鳴った。あくまで他人事のように、ケルマンが言い返す。

「准将によれば、二時間ぐらいで抜けるだろうって」

「そんなっ!」

「そんなところに居ると、ますます集まってくるかもよ。まっすぐ逃げればよかったのに」

「んなこと言ったって!」

「アミラ!」

 ミノルの叫び声が聞こえた。見ると、何かをこらえるようにふらふらしつつも、目は理性の光を宿していた。

「ごめんっ、こんな時になんだけど、結婚しよう!」

「ええええーっ!」

 衝撃でずり落ちそうになったのを、辛うじて耐える。

「な、何を言ってるんですか、ミノル!」

「本当にごめん。ひどいタイミングだとは思ってるんだけど」

「酔ってますね。酔っ払ってそんなこと」

「ああ、酔ってる。でも、酔ってるから今言えた」

 アミラは絶句した。今聞いたのは、何だろう? もしかしたら自分は、もっとも聞きたかったことを、今耳にしたのでは?

「こんなことでもなきゃ、言う勇気が出なかった。ずっと好きだったよ、アミラ。だから、結婚しよう。これからの人生、ずっと君のそばで暮らし続けたい」

「おおお、これはすごい展開だね」

 会った時同様、能天気な声で、ヨドガーが腕組みしながら頷いている。

「まるで映画みたいな話だ。うん、これ、そのまま作ったらいいんじゃない?」

「まことに結構な提案かと。では私もいくらか出資しましょうか」

「わしも一口乗ろう」

「よし、艦長と副長と艦医の合意をもって――」

「勝手に話進めないでくれるっ!?」

 金切り声を上げるアミラに、ミノルがひときわ大きな声で言った。

「降りておいで、アミラ!」

 両手を拡げて呼びかける最愛の人の姿で、アミラは泣きそうになった。これは悔し涙なのか、嬉し涙なのか。こんなバカ騒ぎの中で、こんなありがたい言葉を聞くことになるなんて。

「さあ、来て! 君の答えを見せてくれ!」

「アミラ〜。降りてきたら、准将が中和薬撒いてくれるってよ」

 真剣な声の横で、どこまでも脱力性のことしか並べないヨドガーである。

「なんで今撒いてくれないの!?」

「そりゃ、先に撒いたら、ミノルが恥ずかしさで逃げ出してしまうだろうからさ」

 本人を前に、あからさま過ぎる言いようである。が、その通りかも知れない。

「さあ、試練を乗り越えるんだ。二世紀越しの恋を成就させたまえ」



 彼女が跳んだ時、風は南風だった。

 春の陽光を受けて、その礼装服姿は、ほとんど神々しいばかりに輝いていた、と、現場に居合わせた者の多くがそう証言している。

 事実、後年制作された映画でも、その場面だけは名シーンとして広く人口に膾炙した。

 アミラの夫となったミノルは、しかし、後にこうコメントしたという。

「自分は酔ってたからね。あの映像がどこまで正しいのか分からない。

 ただ、あの映画で幸せな気持ちになったのなら、それは間違いなく正しい」と。

 支離滅裂なシナリオが祟ったのか、残念ながら大ヒットはしなかったが、その植民星の初期の楽天的な空気がよく表れた佳作として、その映画は今もシネマ史の片隅に名を残している。


  <了>

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長い長い恋の終わらせ方 湾多珠巳 @wonder_tamami

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