長い長い恋の終わらせ方

湾多珠巳

前編





 移動支援車から降り立つと、アミラは目の前の居住ブロックを見上げた。

 あの人のいる街に、ようやく来た。

 あの人に会うために、ここまで戻ってきた。

 永年の望みを叶えるための、新しい生活がいよいよ始まる――と盛大に気分を高めようとしたものの、目の前の物件はいささかしょぼくれた外見だった。

 規格に則って配置されている以上、瀟洒な一戸建てなど望むべくもないのは分っている。とは言え、コンテナをそのまま積み上げて野ざらしにしたような外見は、どうにかならなかったのかと思う。

 ネコ科属性の我が身からすると、麗しのわが家は快適で居心地よく、なにより親密な空気がなければならない。なのに、見るからに場末感の漂う界隈の中、日当たりもあまり良くなさそうだし、外壁にはカビっぽいものまで生えている。

「まあ……贅沢は言えないよね」

 ひとりごちて、壁面に添っているスローブに足をかける。これよりはるかに過酷な環境の中で長らく暮らし抜いてきたのだ。それどころか、ここに来る途中でもそんな調査対象区に寄り道してきたばかりである。雨風と危険生物の心配がなくなるだけで、極楽と思うべきだろう。

 標準歴で言えば、今は三月下旬。当面は日光量も増えていくし、カビも少なくなるはずだ。この季節に引っ越してきたことだけは、さしあたりプラスに作用していくはず。

 新居は四階建ての二階部分にあった。荷物は一通り中に運び込まれているはずだった。鍵代わりになっている認識票をかざすと、ドア横のレセプターが反応し、こん、と澄んだ解錠の音がした。同時に首元の生体ポータルへ、新居者宛ての通知やら催促やら各種情報がどどっと流れ込んできたようだが、とりあえず全部確認保留にする。何がなんでも聞かなければならない通知なら、ブロックしても勝手に視神経上に投影されるのだ。

 緊急の用件はないようだった。まあ、新生活早々空き巣でもやってきたのでなければ、大した連絡はないはず。

 永年の習い性で、つい用心深そうにドアを細開けして中を窺っていると、「何やってんだ?」という声と共に、三階から二つ三つ、人影が降りてきた。

「新入りだろ? あんた……おおっと、ワーキャット様がご入居か!」

 顔を合わせた相手が、目をまんまるにして言った。あんまり賢そうではない、白地に黒斑点が散った、コボルトの雄だ。――正しくは、イヌ科属性の総身改変を選択した純男性の方、とでも呼ぶべきなのだろうが、よほどの七面倒な状況ならまだしも、こんな居住区の片隅で余計な気遣いは却って失礼に当たる。

 どうせこいつら、大もとは同じ航宙部隊のチームメイトなんだし。

「おい、見ろよ! 今度のお隣さんは、黒毛のかわいい仔ネコちゃんだ! せいぜい喉周りをくすぐってやろうじゃねえか」

「よしな。爪で引っ掻かれるのがオチ。チキン缶の残りカスでも投げてやるんだね。上手にタンゴを踊れるようになったら、頭ぐらいなでてやろうじゃないの」

 赤茶色い二人目のコボルトも軽口で応じ、一人目と並んでニヤついた顔でアミラの前に立つ。たちまち、その四つの耳がびくっと震えて、ピンととんがった。挑発に乗って毛を逆立てているものとばかり思っていたワーキャットが、何とも生ぬるい、鷹揚とも言える笑顔で二人を眺めていたからだ。

「お前たち、タカクラのクランだね? 最近の工兵科はずいぶん威勢がいいねえ」

「工兵科って……なんだよその古い言い方。まるで」

「ああ。今は生産技術部とか言ったっけ? しっかし、黒ネコにタンゴとはね。そのジョークが何千年前のもんか、あんた達のじいさんに聞いたことはある? あたしをからかうんなら、もう少し気の利いた今どきのものを持ってきな。それとも、あんた達の鼻はカビだらけのジョークも嗅ぎ分けられないほどになまくらってことかな?」

「お、おおお、言ってくれるじゃないの! うちのクランをコケにするってんなら――」

 むきになった赤茶がアミラに吼えかかろうとした、その時、

「やめろ」

 と、短い制止の声がその背後から発せられた。やや毛足の長い、薄いグレーの三人目のコボルトだった。よほどの先天障害があるのか、ただの洒落者か、四角いメガネなどかけている。

 メガネコボルトはアミラの前に進み出ると、

「子供たちが失礼した。拙者はゴスケと申す。我らのファミリーは三階の三室を使っている。こちらは息子のジローダ、娘のサンミ」

 どうや口の悪いコボルトたちの父親らしい。兄のように見えたが、結構年を食っているようだ。臭いでオスメスの区別はついても、年齢まではなかなか分からない。まして自分以外の種族属性である相手なら。

「これはご丁寧に。新しくこの部屋に入るアミラって言います。以後、見知り置きを」

「滞在はどのぐらいの予定で?」

「――私自身は、ここを終の棲家とするつもりで来ました」

 三人の間に緊張が走った。筋肉反射が醸し出す体臭の変化から察するに、メガネの方は困惑三割、ガキの二人は反感と敵意が六割というところか。なるほど、こういう探りの入れ方をすれば、世代差は歴然と出てくるもんなんだ、とアミラは妙なところで感心する。

「ま、いきなり一階下がネコ科のねぐらになるってのも落ち着かないでしょうけどね。慣れますよ、お互いにね。少々時間がかかっても」

 何かに思い当たったように、メガネがアミラの目を覗き込んだ。それがどういう内容かは察しがついたが、アミラはただちょっとだけ可笑しそうに、

「何か?」

「いえ」

 それ以上、言葉を重ねることはせずに、では、と軽く会釈すると、子供達を促して、スローブに足を向ける。

 赤茶の娘だけが、鼻にシワを寄せながら、なおもアミラの前に佇んでいた。首を傾げたアミラに、サンミは心底から不愉快そうな唸り声で言った。

「あんた。そこに住むんなら、一日三回は体洗ってよね」

「三回は多いんじゃないかな。真水は貴重品だ」

 ぐわっと牙を剥いて、娘は今度こそ激高した吼え声をアミラに浴びせかける。

「クサイのよ、あんた! まだ若いんでしょ!? いい年のメスのくせに! なんてひどい体臭! 何年ドブ川に浸かってたらそんな臭いになんのよ!」

「サンミ!」

 慌ててゴスケが駆け戻ってきて、娘を引っ張っていこうとする。

「面と向かってなんて失礼なことを! 大変申し訳ない。うちはまだ他種族とのつきあいが少ないもので」

 恐縮するゴスケに、アミラは依然穏やかに微笑むばかりだった。

「あーいや、こちらこそ気がつかなくて。無理ないですよ。お嬢さんの言う通り、ドブ川に十年ぐらい浸かってたようなもんなんで」

「そ、そうなんですか?」

「一応日数かけて体臭は整えてきたつもりなんですけどねー。道中でちいっとばかしケルヒラの湿地帯に野暮用ができて、全部やり直しです。すいません、これから体洗いますから」

「お、こ、こちらこそ、それはまた重ね重ね失礼を! ほら、サンミ」

「え、ケルヒラって、え? まさか――」

 何か問いたそうな娘を無理やり急き立てて、コボルトの親子は階上に引っ込んでしまった。

 あの様子だともしかして気づいたのかな、とアミラは少々きまり悪そうに、耳の後ろをカリカリと掻いた。どのみち知れ渡ることになるだろうとは思っていた。秘密指定も何もしていないのだから、あのメガネがこの場でポータル越しに照会でもかければ、アミラの素性など、一発でバレる。実年齢も、バイオメディカル処置歴も、旧艦内での職歴すら。

 しかし、新居のドアをくぐる前に悟られてしまうとは。まあケルヒラを知っているような親子なら仕方がないか、とも思う。

「いい年のメス、ね」

 一人、おかしそうにクスクス笑い、壁に手をついてうにゃーと伸びをすると、アミラはようやく部屋のドアを大きく開いた。

 それなりに年季の入っている部屋だが、消臭処置が行き届いていて、前居住者の痕跡は何もない。ドアを締め、サプライコントロールをオンにし、改めてポータル経由の居住情報を一つ一つ確認する。

 運び込まれた私物は大した量ではないので、薄暗い三部屋の内部は、がらんとした空気感ばかり……と予想してたが、妙にみっしりした質量感がある。何だ?

 エントランスの奥をひょいとのぞいて、思わず「にゃっ!?」とのけぞった。

 荷物が、めっちゃくちゃ多い。

 おかしい。発送時の荷物は手持ちコンテナで数えるほどで、移動車両の手配さえつけば、一人で運べていた程度の量だったのだ。

 間違いで赤の他人の荷物が紛れている可能性を考えると、うかつに検分して回るのもはばかれる。こういう時はしょうがない。アミラは襟元の音声通信スイッチをオンにし、四日前に送り出されたばかりの古巣を呼び出した。

『おお大尉、そろそろ連絡してくる頃だと思ってましたよ』

 集配・集荷担当官を指名して呼び出すと、応じたのは四十年来部下だったハミュートス軍曹だった。

「そろそろって、お前、何をした!? 荷物がこれだけ膨らんでるのはどういう――」

『いやだなあ。色々餞別が入ってますよって言ったじゃないですか。それに、新しい生活の応援材料とかも』

「応援、だと?」

『カフェスタジオ開くんでしょ、大尉? あれ、画廊だったかな? あ、小物屋ですよね、アクセサリーとかの?』

「…………」

 セントラルに戻って何をするつもりか、と聞かれた際、「スタジオを作りたい」と言ったのは事実だ。計画の全容をぺらぺらと喋るのはためらわれたし、かと言って嘘をつくのも気が引けたので、せいぜい解釈に幅のある、気を利かせた返事をしたつもりだった。

 それがどうやら裏目に出たらしい。

『いやあ、"スタジオ"ってどういう店なのか、誰に聞いても今ひとつ分からんので、俺達の持ち合わせで使えそうなもの、全部送ったんですよ。あ、いらないものは売っぱらちまって一向に構わないんで』

「移転早々、このあたしにチャリティバザーでも開かせるつもりか、貴様」

『うん、それ。それですよ、大尉。引越し先で周囲と馴染むんなら、バザーがいちばん。いやでも会話が生まれますしね。犬っころ共とも、一日でマブダチになれること、請け合いでさあ』

 ため息を殺しながら、そう言えばこういう男だったと、アミラはがっくりうなだれた。多分親切心で動いているのだろうが、どこまで善意を信じていいものやら分からない。一から十まで細かく命令を出す分には、優秀な部下だったのだけれども。

「……わかった。とりあえず、この荷物はお前らが間違いなく送り出したものなんだな? で、その内訳はどうなってる?」

『いや、中身までは分からんですな。各自で好きにまとめて出せってことにしたんで』

「なんだとおお!?」

『さすがに足の早い食いもんなんかは入れてないはずですがね。レーションと事務連絡書類とジョークグッズなんかを一つにまとめてる可能性はあります』

「……どの箱が誰からなのかも分からないってこと?」

『そうですな。まあ、びっくり箱のつもりで開けてってくださいよ。俺達からの、心からのプレゼントってわけで――』

 その後、どういうやりとりをして通信終了したか、アミラは覚えていない。気がついたら、山積みになったコンテナを一つ一つ切り崩し、中を改めて、時に全部引っ張り出して再分類し、という作業を、ひたすらオートマティックに進めている自分がいた。

 できればこのまま忘れたふりをして、しばらく放置しておきたかったのだが、軍曹の話しぶりだと、一通りチェックしておかなければ、後々厄介事が増えそうな気もする。意欲と身体運動を極力切り離して行動する技は、士官学校でさんざんに叩き込まれたものだ。

 とはいえ、この量は――。

 そろそろ夕方が近いようだ。ここに着いたのは昼過ぎだった。カーテン越しに、赤みがかった夕陽が部屋の壁へ縦長の光を投げかけている。

 西部の熱帯湿潤区にいた時には及ばないにしても、すでに全身汗みずくである。少しは風を入れた方がいいかと思い、原始的な開閉式の窓に手を伸ばす。

 不意に、首元で微弱な電流が走った。個人通話の着信である。軍曹がまた何かを思い出したのかなと、網膜投影されている諸元すらろくに確認せず、回線をオンにする。

「今度は何の用だ?」

『懐かしいな、カミザキ大尉。君の声は二百年経っても変わらんな』

 アミラは飛び上がった。頭と背中と腰を天井に同時に打ち付けて、反発で床に叩きつけられそうになったのを、辛うじて受け身で回避し、床をゴロゴロ壁まで転がって派手にぶつかり、ようやく止まった。

「ふぎゃっ!」

『アミラ?』

「しょ、しょ、少佐どの、お久しぶりであります! 大変失礼を――」

『少佐はよせ。もう退役して五年になる』

「で、では」

『ミノル。敬称はいらない。ただのミノル』

「はい。……ミノル」

 ミノル・ハーマーヤーディ少佐。アミラの二歳上で、その出会いは地球での士官学校時代に遡る。当初は、なんとなくいいな、という程度だったが、縁は同じ艦の同じ航宙大隊に所属が決まってからも続き、一時は飛行小隊でペアを組んだこともある。

 積極的で行動第一のアミラにとって、控えめで思慮深いミノルはある意味、自身の理想でもあった。軍人ではあるものの、文化人類学の学位も持っている。大学あたりで研究者になっていても全然おかしくない人材だった。そして、若い頃のアミルは、その手のインテリにことの他弱かったのだ。

 中途半端なタイミングで付き合いだしたなら、それなりに絶頂を極めつつもそれなりに幻滅し、ほどよい距離感を保ち続ける関係になったのだろう。だが、アミラは結局何一つモーションを起こせず、ミノルの本心も分からないまま、ただ「敬愛している先輩士官」としてずっと思いを胸に秘め続けた。植民星に到着後も特に何もなく、互いに離れた任地で、何十年に一度会うか会わないかという状態のまま、ついに退役の時を迎えたのだった。

 そんなアミラだったから、その時の姿はまるで、意中の人と夢の中で出会った思春期の少女のようだった。体を丸めて両手で顔を挟み込みながら、寝っ転がったまま右に左に悶えるようにのたうっている。長い尻尾まで生き物みたいにくねくねと先っちょをうねらせていた。

「あ、あの、どうしてここが」

『さっきタカクラから連絡があってね。彼の五男坊の近隣に、黒毛のワーキャットが入居してきて、それがどうやら旧ミドウスジ号の乗員らしいと』

「あー、やはりバレてましたか」

『その五男坊は先のケルヒラの幻獣騒ぎで補給プランに関わった中堅官吏だそうだ。現地には行ってないが、幻獣討伐の顛末を聞く立場にはあったってわけだ。当然、失敗寸前だった作戦の終盤で、奇跡のように現れていいとこを全部横取りしていった、流しのワーキャットのことも知ってる』

「流しのワーキャットって……急きょケルヒラに寄ってくれって、中央参謀が泣きついてくるから仕方なく」

『"超大型水獣を手慣れた動きで難なく馴致"。こんな報告でピンとこない方が、どうかしてる。ちょっと調べたら、君の退役記録と移住申請はすぐに出てきたし』

「ううう、恐縮です」

『しかし、君もセントラルに移住するとはね。いよいよそんな時代になってきたと言うべきなのか』

「え?」

『実は近々、他に何人かこっちへ移ってくるみたいだって話を聞いたんだ。副長……じゃない、ケルマン中佐とか、ヌルヌルーディ准将とか』

「げっ……」

 昔の上官たちである。より正確に言うなら、宇宙軍選抜候補生時代からの、腐れ縁の悪友たちである。むろん、会えば楽しいだろう。だが、そんな大所帯になる前に、できればアミラは永年の夢を叶えたかった。

 そのためにこそ、ここに引っ越してきたのだから。

『古い仲間と集まるのもいいもんだ。その時はぜひ――』

「ああ、あの……ミノル」

『何?』

「あ、あたし、こっちには今のところ、頼れる知人なんて全然いないんです。街のことなんかを、色々と教えていただけると――」

『ああ。そんなことか。でも、セントラルなんて所詮はミドウスジ号の第二居住区なんだから、配置はだいたい――』

「分ってます! 分ってますけど、そのままそっくりじゃないんだしっ! 何より、あれから百五十年以上――」

『はは、すまんすまん。冗談だ。では、明日の朝一〇一五ひとまるひとごにセントラルの公園西口で、どうかな?』

 あっけなく承諾がもらえて、アミラはとっさには頭が回らなかった。

「あ、一〇一五に……え、よろしいのですか? ええ、はい……それでお願いします」

『ではよろしく。しかし……君から誘いを受ける日が来るとはね』

 何となく思わせぶりな言葉を残して、通話は終了した。

 アミラはぼーっとしていた。二、三分は横になったまま、ただ天井を見ていたようだ。

 目の隅に、ふにゃりふにゃりと、ゆっくり柔軟運動をやっている自分のしっぽの先が見える。

「にゃっ!」

 突然、大声を上げてアミラは起き上がった。

「にゃっにゃっにゃっにゃにゃ、にゃっにゃっにゃっにゃっ!」

 切れのある動きを挟んで、リズミカルに手足を伸ばしたり体を捻じ曲げたり首を逸らしたりをやり始めた。アミラの宴会芸の十八番、「黒ネコのタンゴ」である。

 つまり、アミラは今、最高に機嫌がよかった。

 こんなに早く、こんなにスムーズに、永年の望みがかなうなんて!

 朝からの待ち合わせ。きっとランチも一緒にできる。それから午後を楽しく過ごして、もしかしたら夕方からも? じゃあ、散策にも食事にもばっちり合うような服で、めいっぱいドレスアップして――

 ってどんな服だ?

 スポーツ格闘技のイメージピクチャーのような、挑みかかるようなポーズを決めたまま、アミラはフリーズした。冷や汗のような発散水蒸気の露が、耳から頬をつたって一筋流れてくる。

 唐突に、アミラは飛び上がった。

「ふぎゃーっ!」

 身もフタもない慌てっぷりで、アミラはコンテナの山に突っ込んでいく。服。デートに着ていける、いや、他人様と外出するのに最低限恥ずかしくない服。

 そんなものが、どこにある?

 わかっている。アミラ達は元々が軍人だ。一年中、いや、一世紀中でも、常在戦場の心持ちで生活し、それを誇りとしてきた。

 だから、擦り切れた泥色のジャンプスーツで現れても、ミノルは受け入れてくれる。それは分ってる。

 だけどっ!

 せめてっっっ!

 やけっぱちになってコンテナを取り崩していると、見覚えのある色と傷の気密ケースが、立方体パズルの隙間に見えた。これはっ!?と引っ張り出してフタを跳ね飛ばす。わざわざ保存に気を遣って、長い年月に渡って手元へ置き続けた私物など、アミラの記憶の中では、数えるほどしか存在しない。

 果たしてそれは、ン十年前にしまいこんだ当時のままの、堂々たる勝負服であった。

 九十四式航宙派遣軍礼装服。

 式典用の、いわゆる金ピカ服である。古来、これに勝てるものはウェディングドレスかハダカしかない(とアミラは士官学校で教わった)。

 格式、オシャレ度、そして相手に対する敬意。文句のつけようがない。

 が、しかし。

「これを……着るしかないのか」

 ちょっと街を案内してもらう程度の、デートと言えるかどうかも分からない顔合わせには、ちょっとゴツい。

 が、金モールを外して制帽じゃなくてベレーでもかぶれば、そこそこ着崩した感じになるだろうか。

 うまい具合に、さっきひっくり返していたコンテナの中から、小粋なエンジのベレーだけは見つけていた。軽く頭の中でコーディネートを試してみる。悪くない。

「よし。これでよし」

 自分に言い聞かせるように声を出すと、急に激しい空腹感が襲いかかってきた。

 すでに陽は沈んでいる。夕食の頃合いである。が、メシの準備など何もしていない。

 何となく、餞別品のコンテナの中に食材が交じっていそうな気がして、鼻とカンを頼りに、荷物を開けて回る。

 三つ目がビンゴだった。西部調査区ではすっかりベースキャンプの日々の食材として定着している、サツマイモのような野菜と、ココナツのような果物が、コンテナいっぱいに詰めてあった。それぞれピンクポテトにピンクナッツなどという通り名がついているものだ。

 とりあえず、これだけで一週間ぐらいは食いつなげそうなほどある。こればっかりは、ハミュートス軍曹の心遣いに感謝だ。

 ピンクポテトは薄切りにしてさっとホットプレートで焼き、ピンクナッツはナイフで半分に割って、果肉をスプーンですくった。後はビタミンタブレットを水に溶かせば、一応のドリンクになる。

 収穫直後のものを詰め込んだのか、ポテトはツルについたままで入っていた。このツルが妙に幅広な茎で、乾燥させれば何かの細工物の材料にでもなりそうだ。ナッツも再利用価値が高そうな形で、その殻は丸身を帯びていて浅く、かつ硬い。乾かしてからそのまま皿として使うのに、ちょうどいい大きさと強度である。

 こういうものをバザーに並べたら、セントラルの住人なら喜んで買うかも知れない。明日、ミノルとの会話のネタにもなりそうだ。いや、おもしろいな。ハミュートス、あいつ、もしかしたら天才だったのかも知れないな――と、食べ終わってとりとめのないことを考えているうち。

 満腹感と疲れの蓄積が作用したのだろう。アミラは知らず、床の上で寝息を立てていた。




 調査移民艦「ミドウスジ」が地球を進発したのは、西暦で三二二〇年のことだった。

 すでに太陽系外の移民計画は第三世代に移っており、目標星は十全な調査も済んでいて、移民事業自体は大きな問題もなく、ミドウスジ号は無事、惑星表層に着陸した。

 だが、いざ植民を始めてみると、調査時と全星的に植生に変化があり、開拓民となっていたミドウスジの乗員達は、一つの選択を迫られた。

 つまり、地表面の開拓を当面棚上げして、惑星への適応も諦め、保護ドームのような居住エリアで高い文明度を保ちつつ生きていくか。

 あえてこの星の適応人類となることを選び、全星的な調査と開拓を同時進行させ、文明度維持よりは未来の可能性を優先するか。

 実は、この件に際して、ミドウスジ乗員達はごく早いうちのシミュレーション会議で意思決定を済ませていた。

 新しい星に生きるため、我らは地球を後にした。

 その星の隔離スペースで、地球もどきを再現するためだけに人生を賭けたのではない。

 そのような事態になれば、我らは星への適応を選択する、と。

 かくて、調査移民艦の総意の帰結としてミドウスジのおよそ二五〇〇名の乗員は、過酷な自然で生きていくために幾種類かの獣人様の姿に分化した。

 ジャングル地帯に最適化した猫型。

 寒冷地に最適化した犬型。

 砂漠地帯向けの竜人型。

 海洋向けの海獣型。などなど。

 いずれも当時の地球では、法的、倫理的な制約が何かと複雑であったテクノロジーであるが、自らを飼い殺しにするか、ヒトの体を捨てて未来をつかむか、という究極の事態が、思い切った選択を容易にした、とも言える。

 そして、この時に一線を越えたのは、単に外形を獣人化したことにとどまらなかった。

 生まれ持った全身の細胞を一括改変することを一度よしとしてしまった以上、老化した体組織をリフレッシュすることは、もはやタブーでも何でもない。

 あくまで自然老化というものにこだわりがある一部の者を除いて、この星では老いさらばえた人間というものが存在しなくなった。

 それはまた、人々が世紀単位で働き続ける、長寿が当たり前の社会をどう組み上げていくかという問題を、全星の住民が等しく考えなければならなくなったことでもあった。




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