神罰の島

左安倍虎

神罰の島

 この女は魔女なのか、とその老婆を一目見るなり思った。

 潰れた左目に鷲鼻、口を開けば数本の歯がのぞくばかり。吹きつける潮風に乱れた白髪が頬に貼りつくと、いっそう恐ろしげな姿になる。セリフォス島の北東にある名もない小島ではじめて会った人物が、この老婆だった。

 いぶかしげな目で私を見上げる老婆にメドゥサの居場所を尋ねると、彼女はためらう様子もなく、私を手招きした。あの怪物の住処まで案内してくれるらしい。メドゥサは元は人間だったというが、老婆はその頃からの知り合いなのだろうか。


「お一人でこの島においでなさるとは、よほど肚の据わったお方なんだねぇ。体格も立派だし、さすがはポリュデクテス様が選りすぐった勇士ですねぇ」


 背を丸めて私の前を歩きながら、老婆は私に語りかける。口調は親しげだが、言葉の端に私を嘲弄する響きがある。目を合わせたものを石と化す化物に一人で立ち向かうつもりか、と言われている気がするのだ。だが怯んではならない。私はこの島の民と、セリフォス兵とを襲った怪物を退治しなくてはならないのだ。


「ペルセウス様、とおっしゃいましたかね。もし貴方が石像になっても、この島には飾っとく場所もありませんでね、できればセリフォスの兵士の方々が引き取ってくれるとありがたいんですがね。ついでにドラクマの方もはずんでもらえれば」


 老婆は指で丸をこしらえた。この女は私を石に変えたあげく、商売までするつもりなのか。見かけに違わず、性根まで魔女そのものらしい。


「口を慎め。私がメドゥサに負けると思っているのだろうが、私はただの人間とは違う」

「へぇ、どう違うので?」

「私は大神ゼウスの子だ」


 私は声を張った。だがこれは不安の裏返しだ。私は体格と腕力には恵まれたが、肝心な場面で戦意をなくしてしまう。この手で人を傷つけることにためらいがあるのだ。そんな私を励まそうと、母はお前はゼウス様の子なのだから、と何度も言い聞かせた。本当にそうなら、なぜヘラクレスのような勇気が私にはないのだ、と思ったものだ。


「おやおや、貴方ずいぶんと大物なのですねぇ。でも大物ぶりではフィオナだって負けちゃあいませんよ。なんたって、あのアテナ様と美を競ったこともあるくらいだからねぇ」


 フィオナというのがメドゥサの本名らしい。それにしても、女神と美を競うなど正気の沙汰ではない。


「フィオナとやらがどれほど美しいか知らないが、女神ほど美しいわけがあるまい。しょせんは人の身だ」

「殿方だって、好いたおなごを我が女神だと思うことくらいあるでしょう」

「それとこれとはわけが違う。なぜアテナ様と張り合おうなどとしたのだ」

「お知りになりたいですか」

「この手で討ち果たす前に、怪物の言い分くらいは聞いてやってもいい」

「ほう、そうですか。それならばぜひ、あの漁師小屋にお立ち寄りを」


 老婆が指さした先には、粗末な小屋が建っていた。海辺で風雨にさらされたせいか、板の壁がところどころ剝げ落ちている。周囲の雑草が伸び放題なのがいかにも侘しい。雑草の中に転がっている数体の石像に一瞥をくれると、私は盾を顔の前にかざしつつ、小屋の中へと入った。あの兵士たちと同じ運命をたどるわけにはいかない。


「いつまで盾のうしろに隠れてる気だい?言っとくけどね、あたしはこんな狭いところで戦う気はないよ」


 小屋の隅から艶めいた声をかけられ、私は盾を降ろし、おそるおそる薄目を開けてみた。身体に変化はない。フィオナは私を騙し討ちにする気はないようだ。


「こうしててもね、あたしにはうっすらとあんたが見えるんだ。どうやらアテナ様があたしの目に与えた魔力のおかげで、やたらと目がよくなったみたいでね」


 フィオナは細長い布で目を隠していた。布の下には形のよい鼻と、大きな口と、ほっそりとした顎がある。噂に聞いていたとおり、頭髪は蛇だ。だが太く束ねた髪が連なっているようにも見え、意外と不気味ではない。遠目に見れば、蛮族バルバロイの女で通るかもしれない。しかし下半身に目をやると、やはり彼女が人間でないことを確信する。腰から下が大蛇の胴なのだ。黒光りする鱗に覆われた胴には、奇妙な艶めかしさがある。


「なぜ、アテナ様と美を競うなどという真似をしたのだ」

「へぇ、あたしの話を聞く気があるのかい。セリフォスにも少しは知性のある男がいるようだね」

「魔物にも死ぬ前に存念を述べる機会くらいはあってよかろう。その姿になった経緯を聞かせてくれ」

「ああ、それがセリフォス仕込みの寛大さってやつかい?まあいいや、話してあげるよ。あれはちょうど今から一年前、嵐の夜のことだった」


 フィオナは少し顔を持ちあげた。目隠しの下では遠くを見るような目つきをしているのだろうか。


「この島の浜辺に、五十がらみの男が打ちあげられたんだ。あたしも含めて近隣の者たちが、必死でそいつを介抱した。そしたら息を吹き返してね」

「助かったのか」

「ああ、でもこのあとが良くなかった。あいつは陽気な男で、島の者ともなじんでいたんだけど、いつからか自分は海神ポセイドンだなんて言い出してね。嵐で船が沈んだのに生き残ったもんだから、気が大きくなってたらしい」

「ずいぶんと調子のいい男だな」

「調子に乗り過ぎたのか、ついには深夜あたしの家に忍びこんで、無理やり乗っかろうとしてきたんだよ。お前も神の子が欲しいだろう、なんて言ってね。蹴り飛ばしてやったら、慌てて逃げて行ったけど……翌日から、あの男の姿が見えなくなった。その頃からなんだよ、この海域での不漁がはじまったのは」


 フィオナは軽く溜息をつくと、少しだけ俯いた。


「まさか、その男が本当に海神だったわけではあるまいな」

「それならもうちょっといい男に見えるはずだよ。とにかく、あれからずっと不漁は続いた。このままじゃこの漁村は立ち行かない。皆で知恵を絞ったあげく、このあたしを売り物にしようって話になったのさ」

「売り物?」

「アテナ様に勝るとも劣らない美女がこの島にいる、って噂を流したんだよ。その噂に釣られてやってくる客に民芸品を売ろうとしたんだ。例えばこんなのをね」


 フィオナは部屋の隅から木彫りを拾うと、私の前に示した。


「翼ある馬……か」

「それはあたしが彫ったんだよ。こう見えても手先は器用なんでね」

「しかし、なぜこんな生き物を?」

「こんな馬がいたらいいと思ってさ。不漁に悩まされ始めたころ、こいつに乗ってオリュンポス山に駆けのぼり、神々に文句を言ってやりたいと思ってたんだよ。でも文句を言う前に、あたしはこの姿にされてしまった。アテナ様の怒りに触れたんだろうね」


 自嘲するように笑うと、フィオナの頭を覆う蛇たちがしおれたように下を向いた。


「少しづつ客がここを訪れていた頃だったからね、そりゃあ皆落ち込んだよ。今度はここは蛇女の島だって噂が立った。そして、噂を聞いたセリフォスの兵士たちがやってきたんだ。怪物の姿を一目見てやろうとね」

「その者たちの末路が、表に転がっていた石像か」

「全員が兵士じゃないよ。この姿になったばかりのころ、うっかりあたしと目を合わせてしまった者も混じってる。あれ以来、あたしは目を隠して過ごしてるんだ」

「兵士と戦う時だけ目隠しを外すのか」

「戦おうとしたことなんてない。兵士たちが無理やりこの布を剝ぎ取ったんだ。目の魔力のことは話したのに、それは美貌を隠すための嘘だろうって言われたんだよ。あいつらはいつも王に差し出す女を探してるから、そう思ったんだろうね。蛇女まで欲しがるなんて、あの王もどういう趣味なんだか」

「なんという下卑た真似を……」


 私はこの島の民と、視察に訪れた兵士とをメドゥサが一方的に襲ったと聞かされていた。だがこれではまるで話が異なる。


「同情ならいらないよ。どっちみちあんたはあたしを殺す気なんだろう」

「罪なき者を討つことはできない。今からセリフォスに引き返し、ポリュデクテス様に貴方の無実を訴える」

「ふん、あの王があんたの話なんて聞くものか」

「陛下は寛大なお方だ。飢饉の年には民の苦境を察し、年貢を免除してくれた。しかもみずから貧民のため、鍋料理を振舞ってくださった」

「その鍋に入っていたのはなんだと思う?この島で獲れた蛸や魚だよ。地の果てのような島から年貢を搾りあげて、セリフォスではいい格好をしてるわけだ」


 私は絶句した。ポリュデクテス様の治世は、この島の犠牲の上に成り立っていたというのか。


「そういえば、あんたの母親はたいそう美しいそうだね。この島まで噂は届いてるよ。あんたが留守にしてる間、王が手を出さなきゃいいけどね」

「陛下がそんなことをなさるとは思えないが」

「いい加減目を覚ましな、ペルセウス。あたしがアテナ様に劣らぬ美女だって噂が流れてた頃にも、それを聞きつけたセリフォスの兵士があたしを連れ去ろうとしたことがあるんだよ。でも、アレクサ婆さんはあたしを匿ったんだ。そのせいであの顔になっちまったんだ」


 私が老婆の顔に目をやると、アレクサは絞り出すように語りはじめた。


「セリフォスの兵士たちは乱暴でねぇ、私の胸ぐらをつかんでフィオナを出せって叫ぶんですよ。でもフィオナはこの島の宝だ、ポリュデクテスなんかにゃ渡せない。それで、フィオナは流行り病で臥せってるって嘘をついたんです。そしたらあいつら、陛下に差し出すべき身体を病で汚すとは何事だ、とか言ってさんざんに私を殴りつけた。最後は『陛下は寛大なお方だから命までは取らん』なんて捨て台詞を吐いていきましたよ」


 アレクサの片方しかない目から流れ出た涙が、床を濡らした。彼女の震える肩を見るうちに、心の底から怒りがこみ上げてきた。

 

「さぁ、もうこっちの事情は全部話したよ。そろそろ表に出ようか。さっさと決着をつけるとしよう」

「罪なき者を討つことはできないと言っているだろう」

「まだ駄々をこねる気なのかい、ペルセウス?ポリュデクテスはあんたの言い分なんて聞かないって言ってるじゃないか」

「聞いてもらえるまで説得する。誠心誠意訴えれば通じるはずだ」

「それは向こうに誠意があればの話だよ。ペルセウス、どうして王があんたを一人で送り出したと思う?」

「私は大神ゼウスの子だ。一人で十分だと思ったのだろう」

「今ここであたしが目隠しをずらしたらどうする気だい?その場であんたは石像になるよ」


 フィオナが目隠しに触れる素振りをみせると、私は思わず身を固くした。口をつぐんだ私に、フィオナが畳みかける。


「ポリュデクテスが本気であたしを討ち取る気なら、最低でも五人は兵士を送り込むはずだ。あたしを取り囲んで全員で槍で突けば、目をつぶっていても誰かの槍があたしを貫くだろう。あんたを一人でここに寄こしたのは、あんたを始末して母親を我がものにするためだ」

「陛下にとり、私は邪魔者でしかないのか」

「そうだよ。だからこそ、あんたはあたしを討たなきゃいけないんだ。王を説得しに戻ったって、寝返ったと疑われて捕らえられるに決まってる。結局母親は王のものになる。それが嫌なら、あたしの首を獲るしかない。王も英雄を無下には扱えないよ」

「いや、私とともに王を討とう。その目の力があれば二人でも戦える」

「できることなら、あたしだってポリュデクテスをひと睨みしてやりたいよ。で、王の石像をこしらえたあとはどうする?神々を敵に回して戦い続けるのかい?」


 フィオナの言うとおりだった。彼女は女神アテナの怒りに触れて今の姿になったのだ。オリュンポスの神々は、彼女を討とうとする者に力を貸すことだろう。王が私に与えた盾も、鍛冶の神ヘパイストスが打ったと伝えられるものだ。


「それにね、あたしはこの姿のまま生きながらえたくはないんだ。化物の住む島だって噂が流れてるから、ここには商人も旅行者も寄りつかない。魚も買い取ってもらえないんだ。あたしが生きているうちは、この島に未来はないんだよ。だから喉を突こうとしたこともある。でも皮膚が硬くて、あたしの力じゃ刃物が通らないんだ。なら強者に倒してもらうしかない。でも強ければ誰でもいいわけじゃない。野蛮なセリフォス兵に手柄を立てさせるくらいなら、あんたの手にかかるほうがいい」


 そう言い残すと、彼女は小屋の外に出た。私も覚悟を決めなくてはいけないようだ。


「言っとくけど、あたしは全力で行くからね。あんたも無抵抗の者は討てないだろう」


 浜辺でフィオナと向き合うなりそう言われた。フィオナは私の気性を見抜いていた。怪物とはいえ、女相手に剣を振るうことにためらいがあった。そんな私の甘さを振り払うかのように、フィオナは銛を握り、目隠しを外した。私はとっさに顔を伏せる。

 その刹那、強烈な衝撃が私の盾を打った。尻尾の一撃だろう。蛇の尾は鞭のようにしなり、左右から襲い来る。かと思えば、時おり銛の刺突が頬をかすめる。剣を振っても、それは空を切るばかりだ。目を使えないのでは埒があかない。


「その盾、ずいぶんよく磨かれてるねぇ。あたしの顔が映せそうじゃないか。……へぇ、悪くないね。これならまだまだアテナ様と張り合えそうだ」


 すぐそばでフィオナの声が響いた。そこまで彼女は美しいのか。直視できないまでも、盾に映した姿なら見ていいだろうか──そこまで考えて、私はフィオナの意図を悟った。

 私は盾の表面をのぞき込む。フィオナは頭上から銛を叩きつけようとしていた。その一撃を盾で弾くと、私は真っすぐフィオナの胸を突いた。


「あり……とう、ペルセウス」


 そう言い残すと、フィオナは前のめりに倒れた。白い砂浜が血に染まってゆく。それからしばらくの間、私はアレクサの嗚咽を聞いていた。


 その日から一月ほど海が荒れ、出立が遅れた。フィオナの首を手にようやくこの島を去るとき、アレクサはまだ首には魔力が残っているかもしれないと警告した。むしろ望むところだ。それでこそ、フィオナの望みをかなえてやれる。

 セリフォスへ戻るなり、島民から母が王に連れ去られたと聞かされた。王は私が死んだと勘違いしたようだ。フィオナの見立ては正しかった。ポリュデクテスは寛大さの鎧で本性を覆い隠していただけだった。


 私は急ぎ王宮に向かうと、革袋からフィオナの首を取りだし、王の前に捧げた。ポリュデクテスは私の帰還に驚いたが、やがて好色な笑みを浮かべつつ、フィオナの首の前にかがみ込んだ。その途端、王の身体は石と化した。

 これで、この男は愚者として歴史に名を刻むだろう。私はフィオナの首を手に、襲い来る衛兵を退けつつ、王宮を後にした。城門を出て空を見上げると、雲の隙間から陽光が差しこんでいる。神々しい光景だ。今の私の所業を、神々もご覧になっているだろうか。

 私はフィオナの首を天に掲げた。その目が天空の彼方の神々を睨みつけていることを願った。今、フィオナはどんな顔をしているのか。それを確かめる術がないことが、唯一の心残りだ。

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