薔薇姫

此糸桜樺

1.薔薇の君

――いつの御代であっただろうか……。


 初夏に生い茂る新緑の草葉。白い陽光が萌黄色の植木を優しく照らし、その上にはちらちらと蝶が飛んでいる。春が過ぎ、しかし、まだ夏の実感が湧かない、そんな季節の変わり目のことであった。


「あなた様は、将来、中宮となる御方おかたなのです」


 一人の女房が、手厳しいような凛とした声で言った。鮮やかな橙色の唐衣からころもに、淡い花柄の、そして青柳の表着うわぎ……。顔に刻まれたシワは、彼女の厳格な性格を表しているかのようだった。


「ええ。心得ておりますわ」


 少女は、カタ、と筆を置き、ゆっくりと女房を振り返った。

 流れるような動作で、たった今書いた和歌を女房へ差し出す。


 薔薇の文様が施された唐紅の小袿こうちき、無数に咲き誇る桃の花のような五衣いつつぎぬ、五衣の下で波打つ緑のひとえ……。姫君の髪がさらりと音を立てた。濡羽色の豊かで美しい髪がまっすぐに床へと広がる。

 その見目はまさに、唐から舞い降りた天女のようだった。

 

 女房は、姫君の和歌にじっと目を落とした。


 しなやかで美しく、気品溢れる筆跡。良質な紙と、薄くすった墨。技法的にも難しい、高度な和歌。


「……お見事でございます」

「ありがとう」


 姫君は知的で透き通った瞳を嬉しそうに細めた。その様子に、女房は「これは困りましたね」と苦笑いしながら言う。


「どうかしましたの?」

「いえ。左大臣様から、姫様へ厳しく和歌を教えるよう申し付けられておりますのに、姫様がなんでも器用にお出来になってしまいますので、肝心の教えることがなく困っているのです」

「あらあら」


 姫君は小花のごとく、くすくすと可笑しそうに笑った。

 一方、女房は呆れたように苦笑いをこぼす。姫君に呆れたのではない。姫君の師であるはずの、力不足の自分自身に呆れて。


「ねえ、わたくし、本当に中宮に相応しいのかしら?」


 姫君は、つい先日、裳着をすませたばかりである。女性の結婚は普通十三、十四歳あたりであるから、もうすぐ中宮として、帝のもとに入内することになるだろう。


 ――やはり、これほどの御方でも、帝と会うのは緊張するらしい――女房は、意外そうにふっと微笑んだ。


「もちろんでございます。姫様ほど相応しい方はおりません」


 女房は自信ありげに言った。お世辞ではない。本心から。

 なぜなら姫君は、まるで神の加護を一身に浴びているような、そんな御方なのだ。なんせ、今をときめく左大臣の一人娘。習字・和歌・琴・漢文の素養に加え、またとない美貌。

 あえて不足を一つあげるなら……女君にとって大切な「守ってあげたくなる可愛らしさ」があまり無いことだろうか。


 しかし、今世の帝ならその心配もあるまい。必ずや、帝もお気に召す。


 薔薇の花束のように華やかで洗練された佇まい。

 容姿端麗、才色兼備、唯一無二の絶世の美女。


 世の人から、彼女は、こう呼ばれている。


 薔薇の君――さうびそうびきみ、と。

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薔薇姫 此糸桜樺 @Kabazakura

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