夢から覚めた日(6)
* * *
「それで……要さんはなんて答えたの?」
太陽の最盛期、炎暑が続く八月下旬。
二ヶ月振りの朱音とのアサーティブ面談で、渚は先日の要との出来事を話していた。
「いや、何も……」
「そうなの? 今……連絡はどうしてるの?」
「謝罪のメールはしたけど、返ってきてなくて」
本当は返事を待っていたいが、何も連絡をしないことで独りだと感じてほしくない。そう思う反面、立て続けに送って要の迷惑にならないかとも考える。もっと言うと、それがきっかけで今以上に追い込んでしまう可能性もゼロではないから、メール一通送ろうとするだけでこんなにも悩んでしまう。
「……訊かれて、困ったんだろうね」
その反応が、胸に痛い。
「やっぱり訊かない方が良かったよね」
朱音は「うーん」と
「私だったら、訊けなかったな。追い詰めちゃうんじゃないかって思って、怖いから」
「……だよね」
「でも、多分すぐに答えられなかったってことは、まだ歌が嫌いなわけじゃないと思うし。要さんにとっても自分の気持ちを見つめ直す機会になってるかもしれないよ」
「いいよ、そんな取って付けたように言わなくても」
「違う、そんなつもりで言ったわけじゃないよ」
「……ごめん、嫌な言い方した」
「ちゃんと面談してる人のことを想ってるなぎだから言えた言葉なんだろうなって思ったの。私は自分がどう思われるかばかり気にして、思ってること言えない時が多くて……だから羨ましいよ」
「……羨ましい?」
朱音は空気を和らげるように苦笑いを浮かべる。
「そうだよ。相手が考え込むほどの質問が出来るって、すごいことだと思うの。なぎは、追い詰めるために訊いたの? 負担掛けるために要さんのことを心配してるの? きっと違うよね」
「違う……けど、結果的にそうさせてしまったら良いことではないよ」
「その結果は、もう変えられないのかな。なぎだって何となく訊いたわけじゃないでしょ」
珍しく朱音の口調が強くなった。
「要さんの本心が、知りたかったから」
「うん」
「本心も知らないのに、ただ生きてなんて言えないから……訊いたんだよ」
安楽死希望者だった頃の自分は、そう言われたくなかったからだ。
「その気持ち、なぎの言葉で伝えてみたらどうかな」
「それは……」
「なぎが本音で話すのを止めて、要さんに本音で話してもらえるとは……思えないな」
「そう、だよね」
「弱みを見せて距離が縮まるのと似ていて、本音を話して初めてぶつかり合えることもあるよね。でもお互いに待ってたら始まらなくて……そのきっかけを作れるのがなぎなんだと思うよ」
私の言葉。語彙力が乏しい自分の言葉でも気持ちは伝わるだろうか。
レースのカーテン越し、陽の光を浴びた朱音の笑顔は、より一層優しく見えた。
「本音で話すのって大事なことなのに、簡単に出来ないよね」
そうだ。
ぽつりと呟いた朱音の一言に気付かされて、自分がREN取得申請をした時のことを思い出す。
あの頃、どうして生きていたくないと思い、孤独を感じていたのか。
育った環境に引け目を感じ、周りとの違いに
当時は分からなかったが、今はそう思える。
けれど、ちゃんと考えられていなかった過程が一つあった。
普通に生きられないと嘆き、悩み、藻掻き、そして苦しまずに人生を終わらせようと決めた自分が申請を取り下げようと心変わりしたのはどうしてか。
それが今、分かった気がする。
――本音を共有し合える人に巡り逢えたからだ。
「あっ、ごめん、なぎ。もう時間!」
朱音のびっくりした声につられて、反射的に腕時計を見た。
「本当だ、もうこんな時間になってたんだ……」
もうすぐ午後四時になる。安楽死希望者との面談を控えている朱音は
「朱音! 色々聴いてくれてありがとう。私の話ばっかりでごめん」
「ううん。気にしないで」
それじゃあまたね、と駆け足気味に言って、扉が閉まると部屋は静かになった。
窓辺に寄って江ノ島を見つめながら思い返す。
一ヶ月前、要と二人であの場所を歩いた日。初めて喋ってくれたこと。
あれからどんな日々を送っているのか、想像は悪い方ばかりへいく。
私が何かを変えられるのかは分からない。
けれど、何もしなければ何も変わらない。
それから慎重に、どう伝えるのかを一文字単位で、慎重に打ち続けた。
* * *
九月も半ば、要は普段より少し早く、正午前に目が覚めた。
昨日寝る前から今日のことを考えていて、寝るのが遅かったはずなのに。『もう』なのか『まだ』なのか、面談しに行くのは今日で五回目になる。江ノ島に行った日から何度かメールを送ってきたアシスターは、数日前、遂に初めて電話をしてきた。
メールを返していなかったため、少し罪悪感を抱いたものの「外に出る気分でなければ、私がお伺いしても良いですか」と言われた時は流石に驚き、即座に断った。相手はアシスターと言えども女性。それにとてもじゃないが誰かを呼べるほど綺麗な部屋ではないし、片付けるくらいなら外に出る方がマシだ。
『でしたら、あの……会ってお話ししたいことがあるんですけど……次はいつ、ラストリゾートに来ていただけそうですか?』
申請してからもうすぐ半年。会わない期間を長引かせれば、その分だけ会う躊躇いも大きくなって、やがて困るのは自分。
そういう経験はこの三年間で沢山してきて、もう
気に掛けてくれているのにどこまで失礼な奴なんだと自分を咎めたくせに、いざ当日を迎えてみると起き上がる気分にもなれない。
やはり面談を断ろうかと携帯電話を手に取る。
――歌は、もう嫌いですか?
最後にアシスターと会った日からあの質問が頭から離れない。
好きだと言えば歌いたくなる。だが、歌えないのが分かっているから好きだと言えない。
相反する想いは複雑に絡まり合い、言葉にならなかった。
あの日、口数も少ないまま別れてその晩にアシスターから謝罪のメールが届いた。自分が勝手にSNSを見て、勝手に落ち込んだだけなのに。そう思うと謝られていることさえ惨めに感じてしまった。
メールの返事をしなくなった
着替えもせずに寝間着姿で過ごし、夕方に起きる。日中はカーテンを開けないくせに、時には灯りの乏しくなった真夜中、窓の向こうの
溜め息を吐いて、夜明けに眠る日々を繰り返すばかりだった。アシスターと出逢う前まではこの生活に後ろめたさを感じることも無かったのに、今はどうしようもなく自分に嫌気が差している。
来る日も来る日も、ずっとあの問いが胸に刺さったまま抜けなくて。
外にはまだ暑さが残る、午後五時。
ラストリゾートに着くとアシスターが面談部屋の前で待っていた。
「お久し振りですね、要さん」
「……そう、ですね」
中に入っても、前回の別れ際の気まずさもあって何を喋るべきか思い浮かばない。
「要さん……電話した私が訊くのもお
目を逸らし、頷く。
アシスターは疑問を抱いているに違いない。それならどうして今まで喋らなかったのか、と。
「もう既にこの前、喋ってしまったので」
気付いたら声に出してしまっていたあの時。声を出したことに対してか、声が掠れていたことに対してなのか、それとも言い方だったのか。アシスターが目を丸くした理由は訊けずにいる。
何せ、自分でも驚いたくらいだ。
喋ると『声が出せるならいつか歌えるよ』と言われるから、根拠の無い励ましが嫌になって、人前で声を出さなくなったのに。それももう、一度声を聞かれた以上隠す意味など無かった。
「話せるなら『本当は歌えるんじゃないか』って思われるのが嫌で……話さなかったんです」
「そう……だったんですね」
「はい」
「江ノ島でのこと、申し訳ありませんでした。それと……ありがとうございます。声を聴けてすごく嬉しいです」
じわりと、何かが込み上げる。
毎回のように謝罪とお礼の繰り返しをされて、この先に何があるのだろう。
確かに今まで喋らなかった自分に原因がある。申請をしたのも自分の意思の他に無い。
けれど、ごめんなさいとありがとうだけを言うために呼ばれたのなら。残り五回の面談も同じことを繰り返すのなら。
正直もう、うんざりだった。
「あれから、ご体調はいかがでしたか? 私はちょっと足が筋肉痛になっちゃって」
体調は特に変わらない。いつも通り寝ていたし、食べていた。食べながら、無意味で馬鹿馬鹿しいとさえ思った。
生きるために食べるはずの生き物が、安楽死が出来る日を迎えるために食べ物を口にしている、その矛盾に。
「特に……寝てばかりで、
心の痛みを和らげる予防線のつもりなのか、自嘲するように笑いながら言うのも情けない。
アシスターは笑いにつられることなく、俯いて思い詰めた表情をするだけだった。
「……この前の、ネットで見た言葉のせいですか?」
「……」
「それとも、私が質問したことのせい……ですかね」
そうだと言えば、どうせまた謝ってくるだけだろう。
アシスターは答えを待つように黙り込んでいたが、いつものような憂いの顔ではなかった。眉には少々力が入っていて、意を決したような面持ちだ。
なのに、次いで問い詰めてくるわけでもない。一体、何と答えれば良いんだろう。
窓の外を見る。夏の終わり、海に沈まず空に飢えたような太陽がオレンジ色を広げていた。
ああ、なんで歌えなくなったのかな。
歌えたら良かったのに。
「もう一回……」
あの頃に縋りながら目頭が熱くなっていたところ、彼女が静かに声を出した。
「え?」
「もう一回、今度は要さんの声で、直接確かめたくて質問したんです」
「は……どういうこと、ですか」
アシスターはテーブルの上に電子端末を置いてこちらへ寄せてくる。
そこには初めてラストリゾートに来た時、アシスターに送ったメールが映し出されていた。
《歌が大好きで、歌うことが自分の全てだった》
「……っ」
「私、最初に会った日……このメールを見た時から、要さんは本当に歌が好きな方なんだって思っていたんです」
顔を上げて、画面を真っ直ぐに見つめるアシスターの顔から目を離せなかった。
「大切なものって、守り続けるのはすごく難しくて……この三年間のことも、簡単に諦めて捨てることが出来なかったから……それくらい好きだったからずっと努力されてきたんだろうな、って。だから――」
「言って、何が変わるんですか」
冷たく放った。
「もう自分の想いとか、関係無いんですよ。頑張ったって、結果が出なければ無駄なんですよ」
どうせ頑張っても歌えない。昔の、卑屈だった自分に戻っているのが憎い。
心底嫌になっていくのに、言い始めたら抑えられなくなる。
「東峰さんも、ネットに書かれていたのを、見たでしょう。全部、歌えなくなったせいだ……自分が傷付いたのも、ファンの期待を裏切ったのも」
「あれは、ほんの一部で……」
「一部なら傷付かないって、東峰さんは思うんですか!」
アシスターの言葉が楽観的に思えて、歯止めが利かなくなる。
「優しい言葉だって苦しくなる時があるって……知ってますか」
「……」
一度活動休止を決めた時、沢山のファンの温かい言葉にも触れた。
「もう、自分一人の歌じゃなかったんですよ……。会ったこともない、大勢のファンが待ってくれている……そのプレッシャーがどれだけのものか、分かりますか」
早く届けなければならない。早く完璧な歌声に戻して。早く、早く。
一刻も、早く――。
「僕は…………僕は、プレッシャーを知って、応えられなかった」
手術後、声が本調子ではないと分かりながら
休止した時と違って歌声を危ぶむ心配の声だけではない。心無い裏切りのような言葉たちはとても骨身に
「どんどん余裕が無くなって、自分の人間性までダメになっていくのが、分かるんです。気持ち良さそうに歌ってるアーティストが、憎くもなって……自分の代わりなんて幾らでもいるんだって」
半年、一年と、目紛しく流れる時間の中、新たなアーティストは脚光を浴びる一方で自分は過去の人へと変わっていく。足掻いても二の矢三の矢を放たれるように、どんどん追い込まれた。
ぱらぱらと零れる言葉を、彼女は目を潤ませながら聴き続ける。
「なのにっ――」
言い掛けて
「……なのに」
いつまで経っても、あの歌声は戻らなくて。
「頑張ることしか出来ないのに、それさえ認めてもらえないのに……好きだなんて……」
悔しさが押し寄せ、とうとう泣くのを堪えきれなかった。
「もう言えるわけ、ない、でしょう……!」
声は震え、涙はぼろぼろと溢れてくる。
「要さん……」
歩き続けている内に、沢山分かったことがある。元の歌声を取り戻すことは、
そして自己表現が出来る唯一の手段である歌は、完璧な歌声ありきのものだと思い知らされた。
それを失った自分なんかには誰も支えられない。想いを届ける術はもう無いんだ、と。
歌を手にする前の自分みたいに、無に
歌声を取り戻すために頑張って生き続けるか、諦めるか。苦しみから逃れるには諦めるしかないと思い、そうすると自分の生きている意味は無くなってしまって。
「誰にも認めてもらえなくて……結果を残せず諦めて……」
だから、安楽死の申請をした。
「それが、本音ですか?」
「……そうですよ」
不規則に鳴らす、すすり泣く音の中。アシスターの顔を直視出来ないのは、自分よりも若い、歳の離れた女性の前で泣いていることがあまりにも惨めだからだった。
「要さんは――」
言い掛けて詰まって、彼女は姿勢を正す。
「歌を認められたい……のでしょうか? 歌を届けたい、じゃなかったんでしょうか……?」
時が止まったような感覚に陥った。胸の奥に埋まっていたものを掘り起こされた気分だ。
「私は、本音を言うと……たとえ元の歌声じゃなかったとしても、またIruさんの歌を聴きたいと……思っています」
そんなことを言われても、出せないものは出せない。
「もう、歌声は元に戻らない……なのに、まだ頑張れって言うんですか」
「……いえ」
「でも、東峰さんが言ってるのは、そういうこと……ですよね」
「そうではなくて……」
アシスターは一度小さな唇を結んで目線を落とした。
「皆、分かってもないくせに分かったフリをして……それで結局歌声が出なかったら言いたい放題言って……! 頑張れなんて、言われなくても――」
「頑張れなんて……」
彼女は声を震わせながら、ゆっくり顔を上げる。
「頑張れなんて、簡単に言えるはずないです……!」
怒っているようで。それでいて泣き出しそうな顔をして。
「……でも、頑張らないでなんて、もっと言えない」
「…………なんで、ですか」
「要さんがこんなに頑張ってきた大切な時間を、一瞬で終わりにしてしまうような言葉だから……だから私は、言いたくないんです」
受け入れたくなかった。そんなこと、今まで誰が言ってくれた。
いや、自分で決め付けて、誰彼構わず拒絶していたから聞こえていなかっただけなのか。
分かったフリをしていたのは、俺の方だったんだろうか。
「Iruさんの歌を初めて聴いた時、良かったとか良くなかったとか、そんな一言で済む感想じゃなかったんです。何て言うか……要さんが心の中で感じていたことが、ストン……って入り込んでくるような、繊細な感性が真っ直ぐ伝わってくる歌だなって」
「だから、それは昔の――」
「勿論、Iruさんの昔の歌声も、すごく、すごく好きですよ」
アシスターは涙目で微笑を浮かべる。
「でも私が感動したのは……誰しもに認めてもらえるような完璧な声じゃないと歌えない歌だから、じゃないんです」
「……」
「歌が何より大好きな要さんが作った、心で感じたままの、心の声が伝わる歌だから……いつかまた聴きたいんです」
「は……」
「この三年間、ずっと届けようとしてくれていたって知った時、要さんはどれだけ辛かっただろうって思ったんです。だから……これは、一人のファンの声だと思ってください。頑張ってよりも、もう一度聴きたいよりも、伝えたいのは――」
それが初めて、アシスターの涙を見た時だった。
「ずっと歌おうとしてくれて、ありがとう、Iruさん」
胸が詰まった。言い表すことの出来ない、熱い何かが込み上げてくる。
「……だから、歌が好きって言えない、だなんて……もう我慢しないで」
受け入れてほしい気持ちで一杯なのだろう。
必死なアシスターが何だかこの数年間の自分と似ていて、鼻を
今まで気持ちを抑制することで一杯だった。何度祈っても歌声が戻らなくて、歌えないなら嫌いになった方が楽だと思って。
今死んでもこれ以上後悔しないけど、このまま生きていたらもっと後悔するんじゃないか。努力なんて首を絞めるだけだと思い始めてから、そんな不安や葛藤と常に戦って。
「…………好き、だった」
この気持ちを我慢するしか、無かったんだ。
「どうしても……要さんに、確認したかったことがあるんです」
ぽつりと呟いた言葉に、アシスターは優しく問い掛けてきた。
「そこまで大好きだった歌を、全てを諦める理由にして良いんですか……?」
全てを――その響きに、この数年のことが鮮明に
歌えなくなったあの時からも、ずっと歌いたくて。
いつか、また元の歌声を出せるように。
この声なら……聴いてもらえるかな。
やっぱり、ダメだった……か。
もう届かないのに。何でこんなに苦しい思いしてまで、歌おうとしてるんだろう。
何度も傷付いたのに。なのに、やっぱり歌わずにはいられないくらい。
好きだったくせに。
分かっていたのに、歌のせいにして、俺は――。
「良いわけなんて……」
いつの日も、頭の中の何処かに歌が残っていた。
忘れようとしても忘れられない、もう二度と逢えない大切な人のように。
何で、どうして、突然俺の中からいなくなってしまったんだ。
つうっと、涙がまた頬を伝う。
「好きだったから……こんなに、こんな、に……」
辛くて。
「私は、要さんの……Iruさんの歌に出逢えて初めて、心から音楽を好きになりました」
「…………そう、なんですね」
「自分が作り上げたもので人の気持ちを変えられるって、本当にすごいことだなって思うんです。私は勿論、他の人にだって簡単に出来ることじゃないです」
「僕には、これくらいの、ことしか……」
「そんな大切なものを傷付けられたら、誰だって悲しくなりますよね……」
「これしか、無かったから……」
今までなら、素直に認められなかっただろう。
正面から向き合ってくれるアシスターの前で、眠っていた本当の気持ちが呼び覚まされる。
「でも、要さんにとって、歌は幸せになれる理由であってほしいんです」
夕焼けに染まる部屋、光を
やっと目が覚めた気がした。
「その……」
ただ、何と言えば良いのか浮かばなくて、言葉がすぐに出てこない。
息を凝らすようにじっと見つめてくるアシスターから、目を逸らす。
「ちょっと、力が抜けたというか……」
「……大丈夫、ですか?」
「あ、伝え方が悪くてすみません……気が楽になったというか。もしかすると自分で、自分はこうじゃないといけない、みたいに……縛り付けていたのかもしれないです」
「……そのことが悪いとは、思いませんよ。自分に対する
噛み締めながら頷いた。
そして持ってきていたショルダーバッグを手に取り、席を立つ。
「要さん……?」
「今日は……ありがとうございます。もう一回考えて、また来ます」
きっと答えはもう見付かっているけど、少しだけ時間が欲しい。
今すぐに申請を取り下げることは出来なかったが、自分の意思で素直に言える言葉だった。
*
あれから二ヶ月近く経って十一月。要は初めて鎌倉駅で江ノ電に乗り換えた。
いつものように藤沢駅で乗り換えして向かうよりも時間は掛かるが、どうせ
またいつか、島を歩いて疲れるのも良いかな。
そんなことを思い浮かべながら、太陽を反射させる海の方を眺めた。
江ノ島駅に着き、歩いて向かった国道134号線沿いのラストリゾート。一段と海風が強く、冷気が肌を突き刺した。
「お久し振りです、要さん。寒かったですよね……どうぞ、中に入ってください」
ラストリゾートの面談部屋の前。今日は初めて自分の意思でここに来ていた。
「どうされたんですか?」
部屋に入ろうとしない自分を見てアシスターはもう一度「要さん」と声を掛ける。
二ヶ月振りと久々のせいか、第一声を出すことが思っていた以上に緊張する。
「……あの」
「はい……あっ、ゆっくりで大丈夫ですよ」
「えっと……今日は東峰さんにメールを送りたくて来たんです」
「メール、ですか?」
不思議そうにするのも当然だった。メールなら何処にいようとも携帯電話さえあれば送れるのだから。
躊躇いながらも携帯電話を取り出し、画面を見つめる。
指先がまだ微かに震えていた。
恩返しなんて自信を持って言えるほど大したものではない。
けれど、これはこの二ヶ月間で悩みに悩んで見付けた、自分なりの精一杯の向き合い方だ。
「……送りました」
「今、見てきますね……!」
部屋の中に携帯電話があるのか、アシスターは慌てて部屋に入った。
送ってしまった。
胸の鼓動が次第に大きくなりつつあるところ、アシスターが戻ってきた。
「要さん、これって」
「はい……また、歌ってみました」
それはつい最近録音したばかりの、Iruの歌のデータを添付した一通のメールだった。
メールだとしても、直接会って送りたかった。
今までアシスターがそうしてくれたように。
突然のことに理解が追い付いていないのか、彼女は目をぱちぱちとさせる。
「また、歌ってくれたんですか……?」
「相変わらず、声は出てませんけどね……」
「すぐ聴かせていただいても良いですか」
「あの、僕は、これで帰るので」
「えっ。何か予定でもあるんですか?」
「いえ、特に無いんですけど……。散々人前で歌っていたくせに、何だか面と向かって自分の歌声聴かれるのは、気恥ずかしくて」
「そういうことでしたら、聴くのは後で……いえ、でも今すぐ聴きたいので、少しだけここで待っててもらえませんか……?」
「……それと、やっぱりまだ、怖いので」
どちらも包み隠すことのない、本音だった。
あれだけ大勢のファンの前で歌っていたのに、たった一人に聴いてもらうだけで恐れている。それも面と向かって自分の歌を好きだと言ってくれた相手なのに。
相も変わらず臆病なままだったが、一つだけ心変わりしたことがあった。
「だけど、この前東峰さんが言ってくれたことで……出来ないことを出来ないって認められるようになった分、少しだけ強くなれた気はするんです」
アシスターは少し目を大きくして、すぐに綻んだ。
「……少しでも何か力になれたのなら、良かったです」
「……本当に、ありがとうございます。それを伝えたかっただけなので」
「でもそれなら私、後で聴かせていただきますけど……本当にもうお帰りになるんですか? わざわざお時間作って来ていただいたんですし、少しお話とか、せめて珈琲飲むだけでも……」
「いえ、折角ですけど……聴いていただくまで落ち着かないですし、またメールいただけると嬉しいです」
「そうですか……分かりました。来ていただいて、ありがとうございました。聴いたらすぐに感想をお伝えしますので!」
「はい、すみません。それじゃあ、失礼します」
頭を下げ、背を向けて白い廊下を歩き出す。
角を曲がる時に振り向くと、お辞儀をした小柄なアシスターの長い髪がさらりと揺れた。
前を向いても大切だったあの歌声は戻らないかもしれない。
そう考えると、まだ生きていくのが怖いと思うこともある。
だけど、自分の心には噓を吐けなかった。
誰かに喜んでもらいたい、誰かの心の支えになりたい。
そんな想いが届く幸せをまだ感じられるのなら、失いたくない。
今は強く、そう思う。
たとえ元の歌声が出せなくても、何よりも大切な歌を好きなままでいて良いのだと、アシスターが教えてくれたから。
《これからまた、歌ってみようと思います》
さっきアシスターにそのメールを送ることが出来たのは、自分の気持ちに正直になれたからだろう。
変えられることを変える勇気と、変えられないことを認めて受け入れる強さが欲しい。
そう、心の声に耳を澄ませて。
ラストリゾートを出て江ノ島駅に着いた時。
アシスターから届いたメールに、要はささやかな笑顔を取り戻した。
開演までのカウントダウン。
シンガーソングライター『Iru』のライブ会場に、客入れBGMが流れた。
みぞおちが降下するような緊張感を抱え、俺は楽屋の鏡の前に立った。
そっと胸に手を当てると掌にバクバクと伝わってくる鼓動。
これが自分の歌、想いを伝えられる証だ。
今日も、皆に届けよう。
歌に救われた自分だからこそ伝えられるものを。
まだ昔の歌声は出せない。
それでもIruはマイクを掴んで、離さない。
声が枯れて出なくなるまで、歌い続けよう。
いつまでも。
これが俺の生きている証なんだ――。
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