プロローグ

プロローグ(1)

 心地良い潮風にいざなわれるように、今年も桜のつぼみほころんだ。

 冷たい夜風になびく二人の長い髪、橋の床版しょうばんに映るシルエットは江ノ島の方へと向かって進む。

 神奈川県かながわけん藤沢市ふじさわしの本土と江ノ島を結ぶ弁天橋べんてんばし。ここから見える風景は、日がな一日、緩やかに様変わりしていく。

 朝は遠くでかすんだ富士ふじの山が。うららかな昼下がりは行き交う人々で賑わい、夕刻には沈みゆく灯火が人々の心を奪って立ち止まらせることもある。まさしく今、こうして夜のとばりが下りれば辺りに波の音が響き渡り、江ノ島の頂上にあるシーキャンドルは一際目立ってあおく光り輝く。

 それらの全てに風情ふぜいを感じながらも「やっぱり私は花が好きだな」と零す彼女、とうみねなぎさは今年で二十二歳を迎える。

 胸元まで伸びた艶やかな髪は憧れの先輩に近付くために努力した、いろの結晶。可愛らしい富士山唇が特徴的で、身長は一五六センチメートル、華奢きゃしゃな体付き。この一、二年で身形みなりに気を遣うようになったが、笑うとより小さく見えてしまう一重瞼ひとえまぶたの目には今でもコンプレックスを抱き、容姿に自信があるわけではなかった。

 横にいる同期のパッチリとした目には、そんな自分がどう映っているのだろう。橋を渡る途中、手摺てすりに両手を置いて何となく海を覗いてみると、隣を歩く彼女、くすのきあかも真似をした。

 朱音の方を向いて目が合うと、自分と同じくらいの長さの、緩めのウェーブヘアを揺らしながら「どうしたの?」と微笑み掛けてくれる。

 愛らしい笑窪えくぼは純真さを感じさせ、一緒にいるとどこか安心感を与えてくれるおっとりした声。

 朱音と出逢ってから、自分もこんな風に温かみのある人になりたいと思うようになった。

「そうだ、朱音。忘れない内に……これ、大したものじゃないけど……」

 モカ色のトートバッグの中から白くて小さな紙袋を取り出して、朱音に渡す。

「えっ?」

 きょとんと受け取る朱音に「明後日あさって、誕生日だよね」と言うと、パッと表情が明るくなった。

「なぎ、覚えててくれたの? ありがとうっ」

「ううん、ちょっと早いけどおめでとう。気に入ってもらえるか分からないけど……朱音、明後日休みでしょ? 明日は私が休みだからさ、今日の内に渡しておきたくて」

「ああ、そういえばそっか……! ね、これ、今開けても良い?」

「えっ、うん、良いよ」

 喜んでもらえるか少し不安で、プレゼントを開ける朱音をどきどきしながら見つめる。朱音は紙袋から黒い箱を取り出すと「あっ、もしかして、口紅?」と嬉しそうに箱を開けた。

「わあ……綺麗きれいな色! すごい、嬉しい」

「ほんと? ピンクベージュなんだけど、朱音に似合いそうな色だなって思って」

「ありがとう、明日から使う! 控えめな色だから仕事の時に使っても大丈夫だよね?」

「うん、一応それも考えてこの色選んだから、使ってもらえたら嬉しいな」

 笑って目を細め「本当にありがとうね」と、またお礼を言ってくれる。その素敵な笑顔に羨ましさを感じたまま歩き始めると、少し経ってから朱音はしみじみといった様子で嘆息を漏らした。

「二十二歳かあ……あっという間に歳取っていくんだろうな」

 若さへの名残惜しさだろうか。自分は若さにこだわる感覚をまだ知らない。むしろ歳を重ねる度に「また一年生きた」ということを実感して、心が満たされる記念日だと感じられるくらいだった。

 本当に、時が経つのは早かったな、と振り返る。

〈安楽死〉がこの国の制度として合法化されてから十数年の月日が流れ、西暦二○四○年。

 全ての始まりは、ある感染症の世界的な流行だった。従来の風邪の病原体であるRSウイルスが変異して生まれた、JARSジャルス(Japanese-artificial-respiratory-syncytial)Ⅱ型ウイルス=日本型人工的呼吸器合胞体ウイルス。感染力は強く、重症化した者が助かる確率は低かった。

 第一発症者が日本人だったことを理由に称されたJARSは、あらゆる悲劇を招いた。

 経済の衰退や外国からの襲撃。更には人の心が荒んだことによる治安の乱れ。

 この国は次第に不穏に包まれ、人々は生き辛さを抱え、死が幸せなのではないかと錯覚してしまうような――そんな、哀しい世の中へ変わっていった。

 そんな中、一人一人の生き方を尊重することを目的として生まれたのが〈安楽死制度〉だ。

 物心が付いた時から安楽死を希望することが出来る世界だったからか、それより前の世界が想像付かない。

 命の終止符の打ち方を選べないなんて、残酷に思えてしまう。

 ただ、自分の意思で死を望むことが出来るとはいっても無闇な安楽死が増えないよう、その制度には様々な要件が義務付けられた。

 代表的なのが『RE(Requirement of End)』と呼ばれる終焉要件しゅうえんようけん――それは「充分条件」と「必要条件」の二つに分類されていて、どちらかの要件を満たす必要がある。

 年齢が八十歳以上であったり、難病を患った場合であったり、特定の条件の内どれか一つでも当てはまる場合に安楽死の申請が出来る充分条件(Sufficient-condition)――通称『RESレス』。

 そして精神的苦痛や肉体的苦痛など、十四歳以上で生き辛さを抱える者が必要な条件を全て満たす場合に限り、生涯で一度のみ申請出来る必要条件(Necessary-condition)――通称『RENレン』。

 中でも特徴的なのはREN取得申請の場合、申請してから一年間は安楽死が出来ず、その期間で〈人命幇助者アシスター〉と呼ばれる者との「十回以上の面談」が必要になることだろう。

 安楽死希望者が自らの気持ちと向き合い、生きる意味を見つめ直すための一年間。その限られた時間の中で面談を繰り返すことで、心の奥にある本当の想いに寄り添うことが必要とされるアシスターは、生と死の狭間で揺れ動く者の命運を委ねられていると言っても過言ではない。

 少なくともアシスターとして安楽死希望者と正面から向き合っている、今その真っ只中にいる自分はそのくらいの覚悟をしている。きっと、朱音もそうだろう。

「私……二十年以上も生きたんだ」

感慨深くなり、ぼそりとひとちた後、朱音を見ると少しだけ首をかしげていた。

 アシスターになってからも、こうして安楽死制度の要件を思い返すことがある。

 

 生まれた直後に親に捨てられた自分。人の心を持たない親と確信したのは後になってのことだったが、学生の頃はそんな両親のいない生い立ちに引け目を感じ、人間関係も上手く築けないまま児童養護施設で孤独な日々を過ごしていた。高校二年生で進路希望調査があった時、自分は将来の夢もこの先の希望も、何も持っていないと気付いてしまったことを今でも覚えている。

 進みたい道も無ければ、振り返って幸せだったと感じられる思い出も無い。

 苦しみだけが続くのに生きている意味が分からなくなってすがったのが、安楽死制度だった。

 二十歳未満がREN取得申請をする場合は、一親等の許可が必要となっている。親の居場所は分からなかったけれど、代わりに市役所が戸籍謄本こせきとうほんから親の情報を調べて、REN取得申請の申し出理由と同意書を送ってくれた。

 結果、親にはさらりと同意され、REN取得申請が認められた。

 しかし、一人のアシスターと出逢ったことにより、想像していた運命は大きく変わった。

『生きてほしい』でも『死なないでほしい』でもない。自分の目を真っ直ぐ見て、ただ只管ひたすらに心に寄り添ってくれるひたむきな姿。

 ――ずっと生きる苦しみから解放されたかった。

 その願いがやっと叶うというところまで来たはずなのに。

 申請を取り下げても、幸せになれる保証なんて無いのに。

 命以上に、心の中に残っている微かな希望を守ろうとしてくれているかのようで。

 面談中は自分を想ってくれる言葉や考え方の一つ一つに心を動かされたが、それでも迷い続けて最後の最後、致死薬を飲む寸前。彼女が『約束』をしてくれたから申請を取り下げられた。

 救ってくれた彼女に憧れて自分もアシスターになった今は、あの頃より前を向いて生きている。

 その後の人生が幸せ一色であふれているなんてことは勿論無くて、忘れた頃になって辛いことや苦しみが襲い掛かってきたら、自分はどうなってしまうだろうと時々考えることもある。

 ただ、こうして朱音のような大切な人と出逢えたのだって生きているからこそのこと。あのまま安楽死をしていたらこの幸せも知らなかったのだと思うと、どれだけ感謝してもしきれない。

 一番親しい朱音にも、友達でいてくれていることがどれだけ救いになっているのか、伝えたい。

 だけど、今の自分が伝えても、きっと伝わりきらないだろう。

 アシスターである自分が一度は安楽死を望んでしまったことを、打ち明けられずにいるからだ。

 かつて安楽死希望者だったことを知られたら、大切な朱音との距離感が変わってしまいそうで怖くて話せない。

 心配させたり、気を遣わせたり。安楽死しようとした人というレッテルが貼られて、今の自分を純粋な目で見てもらえなくなりそうで。

 こんな性格だから、まだ周りの人との関係に隔たりを作ってしまっているのではと不安になる。

「夜って全然人いないんだね……こんな時間に江ノ島来たことなかったな」

 二十時半を回っていた。江ノ島本島、仲見世通なかみせどおりの坂に並ぶ店は既に閉まっていて、昼と違って観光客も居らず閑散としている。その光景を物珍しそうに見ながら、朱音は続ける。

「なんかさ、江ノ島独り占めしてるみたいだね」

「確かに。この辺りって鎌倉かまくらとか、もっと有名な夜桜のスポットあるから、わざわざここまで歩いてくる人いないんだと思う」

「あー、考えてみればそっかあ……。だからお花見の隠れスポットなんだね」

 みどりの広場へ向かいながら楽しそうにしている朱音を見ると、やはり安楽死希望者だった過去は知らないまま、ずっとこのままでいてほしいと願ってしまう。

「なぎは去年も、とおさんと二人で来てるんだもんね」

「うん、そうだね……」

 一昨年おととしもその前の年もだよ、と言い掛けたが、朱音にはこのことさえ言えない。

 同じ職場の憧れの先輩であり、かつて安楽死希望者だった時、捻くれて塞ぎ込んでいた自分に諦めずに向き合い続けてくれたアシスター、とおしろ

 生きる希望を一緒に見付け、自分がアシスターを目指すための後押しまでしてくれた絶対的な存在で、今でも二人で会う時は当時と同じように『眞白先生』と呼んでいる。

 眞白と出逢い、REN取得申請を取り下げたのは三年前、二○三七年の四月。

 眞白からの提案もあってアシスターになることを決意したものの、そのためにはアシスター養成専門学校に通って一年間、安楽死に関することや安楽死希望者との向き合い方を学ぶ必要があった。しかし時期的にその年に専門学校に入学することは叶わなかったため、入学までの一年間は学費を貯め、自分なりにもう一度生きるために人生を見つめ直す期間として過ごした。

 専門学校への入学はストレートで進学する人よりも一年遅れた形となったが、結果的にそのお陰で同い年で自分と同じように一年遅れて同期として入学した朱音と仲良くなれた。

「遠野さんとやながわさん、そろそろこっち向かって来てるかな?」と、朱音は後ろを振り返る。

「うーん……結構ゆっくり歩いて来たからね……あっ、もう向かってるって連絡来てたみたい」

「ほんと? 良かった。思ったより仕事早く終わったんだね」

 眞白の同期であるやながわも、安楽死希望者だった時に面談してくれたアシスターの一人だ。

 当時は明るく前向きな性格の陽菜に、自分みたいな内向きな人の気持ちは分からないと決め付けていたけれど、後になってどれだけ自分のことを気に掛けてくれていたのか気付かされた。今は一緒にいると自分に足りていない部分を埋められていくようで、もっと近くで見ていたいと思う。

 仕事終わりや、休みが被った日にはこうして四人で出掛けることもある。今日も当初は四人で一緒にここへ来る予定だったが、眞白も陽菜も急遽事務仕事をすることになり、二人は遅れて向かって来ていた。

「遠野さんとか柳川さんみたいな、後輩想いの優しい先輩になりたいよね」

 今年からもう後輩が出来たことを改めて実感して、そうつぶやいた。

「大丈夫だよ、なぎは優しいから、きっと慕われるって」

「それは朱音の方だよ。私なんか全然そんなことないから……」

「優しいの。専門学校の時も、アシスターになったばかりの時も、色々支えてくれたでしょ」

 専門学生の時、朱音が自分の過去を話してくれた、あの初夏の日のことを思い出す。

 

 ――もうすぐね、親の一周忌なんだ。

 穏やかに、想いをせるように。共に医者だったという両親はその一年前、朱音が医学部受験に失敗して浪人生だった時に、交通事故で亡くなったと打ち明けられた。

 それまで両親の背中を追って医者を目指してきた朱音は、皮肉にも両親の死によって自分が本当にやりたかったことを目指せるようになったという。

 それが、アシスターだった。

 医者を目指さなければと固定観念にとらわれていたという朱音だったが、本当は学生の頃からアシスターに関心があったらしい。突然の親の死に心が不安定になっていたところを支えてくれた学生時代の友達が、アシスターになることを後押ししてくれたというのも話してくれた。


「……懐かしいな。朱音と会ってから、もう二年も経つんだね」

「ねっ、そんなに経った感じしないなあ」

「でも本当、朱音と仲良くなれて良かったな。私、友達なんていなかったから」

 ひしひしと感じながら言うと、朱音は頬に季節外れの紅葉もみじを散らす。

「改まって言われるとなんか照れる……けどね、私もなぎと仲良くなれて嬉しかった。同い年ってあまりいなかったから不安だったし」

 嬉しく思いながらも、ずっと友達がいなかった自分にとって大切な存在の朱音が過去を打ち明けてくれているのに、自分は『安楽死希望者だった』という隠し事をしていることに罪悪感を抱く。決して噓をいているわけではないのに、後ろめたさが心にのし掛かり思いわずらっていた。

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