プロローグ(2)

「あっ、見て。桜だ」

 みどりの広場に着くと、ライトに照らされた薄紅うすべにの桜が見えた。

「こんなに綺麗なのに、誰もいないね」

 朱音はそう呟くと「満開だね」と桜の樹の方へ足早に向かう。樹のそばに近寄ると、下枝しずえに触れようとして手を伸ばした。

「あっ、朱音、駄目だよ!」

「えっ?」

 思わず大きな声が出てしまって、驚いた朱音が伸ばした手を引いて振り向く。

「あ……ごめん。桜は、触ったら駄目なの」

「そう、なの?」

「傷付きやすいんだ、桜って。ちょっとしたことでも……」

 きょとんとしていた朱音の表情がほぐれていく。

「そっか、知らなかった……。ごめん、見るだけにするね」

 綺麗なソメイヨシノを目の前にして、触りたくなる気持ちは同じだった。

「ずるいよね、こんなに綺麗なのに触らせてくれないなんて」

 ぽつりと呟くと、朱音は「確かにっ」と綻んだ。

「でもね、花が咲く時ぐらいしか人に見向きされない樹だから、少しくらいの我儘わがままは聞いてあげたいなって思うの」

 朱音は何も言わず、笑みを浮かべていた。

「……ごめんね、いきなりこんなこと言って」

「えっ、なんで謝るの?」

 自分の発言で気まずい雰囲気にしてしまったかと思ったが、どうやら朱音はさして気にしていないようだった。

「今まで以上に、桜好きになったかも」

「え?」

「……あー、ほんと、大人になるのってあっという間だね」

 どうして、と訊くタイミングを失ってしまった。

 朱音はブラウンのレザートートバッグから携帯電話を取り出して桜の方に向ける。

 写真を撮るいつもの姿。一つ一つの思い出を大事にしてくれる朱音らしい一面を見て安心した。

「だよね……。まあ、専門学校も一年間しかなかったから、余計にそう感じるんだろうね」

「うん。なぎはアシスターになってなかったら、今頃何してたと思う?」

 伏し目になった自分の視界に、樹下が広がる。

 三年前、致死薬を口にする直前、眞白が駆けつけてくれたから自分は救われた。

『私も眞白先生みたいに、寄り添える人になりたい』

 もしも眞白と出逢えていなければ、アシスターになることはおろか、今生きていたかどうかも分からない。だから、アシスターになっていない自分を想像出来ない。反して朱音はアシスターにならなくても医者になって、別の形で沢山の人を救っていたのだろうか。

「私は……何だろうね、あんまり浮かばないな」

 気のいた言葉を言えずにいると、朱音が「あっ」と声を出した。

「遠野さん達、来たよ」

 言われて振り向くと眞白と陽菜が、小さな階段を下りてこちらへ向かっている。

 美しい花のような眞白。

 いつの日もりんとしたたたずまいに目を奪われる。

「ごめん、遅くなっちゃって!」

 いつも太陽のように明るい陽菜は、そう謝りながら向かって来ると「桜すごいね〜!」と嬉しそうに八重歯をみせた。

「おつかれさまです! あっちの方、もっと綺麗ですよ!」

 朱音はそう言って、陽菜とデッキの方へ向かった。

 楽しそうに桜を見上げながら歩く二人を見ながら、眞白は微笑む。

「ふふっ、二人とも元気ですね」

 朧月おぼろづきの下、雪をあざむくほどの白い肌は相も変わらず綺麗だ。

「なぎちゃん、ごめんなさい。少し遅くなってしまって」

「大丈夫です。仕事おつかれさまです……思ったより時間掛からなかったみたいで良かったです」

 歩き始めた眞白の少し後ろを歩く。

「今年も、綺麗に咲きましたね……毎年こうしてなぎちゃんとお花見出来ることが嬉しいです」

「……本当ですか?」

「はい。勿論ですよ」

「毎年お花見すること……義務みたいになってないですか?」

「なっていません。私も一緒に見たいですから」

「眞白先生は……やっぱり、眞白先生ですね」

「ふふっ、何ですか、それ。確かに今は先輩後輩の関係ですが……私は、ずっと変わりませんよ」

 続けて「それに、ここに来るといつも昔の呼び方をしてくれるので嬉しくなります」と照れくさそうに付け足した。

 ライトに照らされた、デッキに向かう道。そのかたわらにある花壇の花を見ながら歩いていると眞白は「ピンクのお花が多いですね」と言って、しゃがみ込む。ゆっくり見られるように、わざわざ足を止めてくれたのだろうか。

 出逢った頃からずっと変わらない優しさ。

 繊細せんさいな気遣いをしてくれる、そんな所にずっと憧れてきた。

 今話そう、と思って桜の匂いを吸い込んだ。

「最近、アシスターって本当に難しい職業なんだって……前よりも思うようになりました」

「……なぎちゃんも、面談するようになって半年が経ちますもんね」

 専門学校を卒業してアシスターになっても、最初の半年は研修期間として事務仕事が中心となる。面談をするようになってからまだ僅か半年だが、安楽死を希望する人がいる限り面談が途絶えることはなく、たった半年とは思えない程、アシスターとして濃密な時間を過ごした気がする。

「そうですね。上手く言えないですけど、眞白先生みたいに常に自分よりも目の前の相手を想える心の持ち主だったらな……って。時々思っちゃうんです」

「そう思っていただけているのは嬉しいですけど……もしかして、何か悩んでいませんか?」

「悩みというか……」

「……お困りごとですか?」

「えっと……面談している人達への、自分の向き合い方に、自信を持てないっていうか……」

 眞白は「ゆっくりで良いですよ」と耳を傾ける。

 静謐せいひつに佇む桜に囲まれた中、顔を見つめたまま。

 優しげでもあり、自分の目を貫いてその奥まで見透かしてしまいそうでもある視線。昔、面談していた頃はよく目を逸らすことがあったなと思いながら、じっと見つめ返す。

 どんなに眞白の顔を見つめても、胸に秘めている疑問に対する答えは見当たらなかった。


 ――私と眞白先生は、何が違うんだろう?

 

「……私は、どうすれば眞白先生みたいなアシスターになれますか?」

 夜風が辺りをで、花は揺れ、朧月が覗く。

 素直な気持ちになれるのはこの場所だからかもしれない。

 自分の気持ちに正直になっても良い。

 そんな記憶を、心地良い風が連れて来てくれる場所。

「なぎちゃん」

「はい」

「そのように思ってくださってありがとうございます。すごく嬉しいですけど……私みたいになんて、考えなくても大丈夫ですよ」

 きっとそんな風に言ってくれるのだろうと思っていた。共に過ごした年月のお陰か、何となく分かっていた。

「……どうしてですか?」

「どうしてって……なぎちゃんには、なぎちゃんにしかない素敵な所があるからです。初めて会った時、私のことをお花の美しさにたとえてめてくれたの、覚えていますか?」

「勿論、忘れるわけありません」

 孤独な学生生活で唯一、鮮やかな彩りを与えてくれていたのは図書室で見る花の図鑑だった。

 容姿にコンプレックスを抱く自分とは違い、どんな花も美しく凛として咲き誇る。

 それに、花言葉という形でも個々が意味を持つ。

 自分にとって花は憧れの象徴で、眞白の存在も同じだった。

「誰かを褒める時にお花を譬えに出来る綺麗な心――それは、なぎちゃんの良さです」

「ありがとうございます……そう言ってもらえたことも覚えてます。でも、眞白先生と比べたらそんな大したことじゃないような……」

「ふふっ。なぎちゃんにとってはそうでも、私にとってはそうじゃないですよ。花は散っても綺麗だって気付けたのも、花をもっと好きになれたのも、なぎちゃんがその良さを教えてくれたからです。教わった側は、教えた側以上に印象強く残ることがあるのかもしれないですね」

 教わった側の方が印象強く残ること。一理あるかもしれない。

「そしてお花を見ると、なぎちゃんのことだったり、そんな綺麗なお花を譬えに褒めてくれたことだったり、色々思い出します。それって、私にとってなぎちゃんがどれだけ大きな存在なのかを表すには十分だと思いませんか?」

「それは……」

「大きな存在なのは、なぎちゃんにしかない素敵な所があるからです。受け止められないのであれば、素敵だとお伝えしている今この瞬間だけでも覚えていてほしいです」

 ああ、こういう所だ。

 しっかりと受け止めてくれた上で、思っていることを真っ直ぐに伝えてくれる。だからどう言葉にしたら良いか分からず行き場を見失いそうになっても、話していると行き止まりが無くなるように感じて、自信が持てるようになる。

 それが、遠野眞白というアシスターだった。

「眞白先生、ありがとうございます」

 結局、気が付いたらお礼が一番に飛び出していた。

「いえ、私もまだまだこれからです。こちらこそ、こうしてお話ししていただけて嬉しいです」

「でも……眞白先生に頼ってばかりの自分は嫌なの。心配掛けたくないとか、そういう意味じゃなくて、ちゃんと一人で立てるようになりたいんです」

「生きていたくない」と吐露とろした姿も、安楽死をしようとした直前に「申請を取り下げて生きていく方法が分からない」と涙した姿も。眞白が一番、誰よりもよく知ってくれている。

 けれど三年前に面談していた時とは違って、今の自分は未来へ向かう決意を持っている。

 眞白がしてくれたみたいに自分も安楽死希望者にとっての光のような存在になりたいという信念が確かにあった。

「……なぎちゃん、変わりましたね」

「いえ、生意気なこと言っちゃって、すみません」

 

 みどりの広場、眞白達が何かを話している傍らで春の花を見上げる。

 毎年桜を見ては「この花のようになりたい」と願う。

 暗い夜空を彩る薄紅の花は数多あまたの人々の期待にこたええた後、散ってもなお地面を彩り懸命に生きるだろう。一年という月日で見ればはかなき一瞬であるおもむきは、まるで夜空を彩った後もずっと人の心に残り続ける夏の花火みたいだ、と思いに耽ける。

「なぎ、何考えてるの?」

 隣を見るとクスッと笑う朱音と目が合う。

「大したことじゃないよ、いつ見ても綺麗だなって」

 この感覚を、ずっと忘れずにいたい。

「もっと綺麗な所、あるかもしれないよ?」

「そうだね、綺麗な所は他にもあると思うけど……私は、最後はここに帰ってきたいな」

「特別、なんだね」

 これからも毎年、こうして大切な人とみどりの広場で桜を見たい。

 生きることを選んだ後にここで決意をしたあの日のことを。

 傍にいてくれる大切な人がいることを、忘れないように。

「じゃあ、また来年も見に来ようよ。寧ろ今年もう一回来てもいいんだよ? 考えてみたら、こんなに綺麗なのに人気ひとけが少ない所って珍しいし……落ち着いてて、私もすごく好き」

 自分の大切な場所が朱音との特別な場所にもなるのなら、この上なく嬉しい。

「ふふっ、ありがとう。そうだね……もう一回くらい来たいな」

「うん、また来よう。遠野さんと柳川さんも、もし良かったらまた一緒に来てください」

 二人は声を合わせたように「勿論!」と弾んだ声を出した。

 人の温もりを知り、人と通じ合う喜びも知った。

 それは、もしあのまま安楽死をしていたら、存在しなかった世界。



 生きることも死ぬことも、自分の意思が尊重されるこの世界。

 たとえ安楽死を選ぼうとも、生きる意味を問わずにはいられないだろう。

 その問いに対する答えが見付からないと嘆く人を前にして、自分がアシスターとして出来ることは何だろう。

 花と花の隙間すきまから差し込む朧月の光を見て、自分の暗闇に差し込んだ光を思い出す。


 そして彼女は花に問い掛けた。

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