夢から覚めた日(5)


        *


『Iruの歌に救われたの。もう新曲を聴けないなら、生きていけない』


 今日は、いつかSNSで見た誰かの言葉が夢の中で聞こえて、目を覚ますと汗をかいていた。

 誹謗ひぼうに限らず、自分を好きでいてくれる言葉ですら重荷で、それもまた一つ辛くさせる。

 今の自分は世間からどう見られているのだろう。昔はライブの感想などを見るために折を見付けてSNSで自分の名前を検索したのに、今はどんな言葉も受け止められない気がして、怖くて出来なかった。

 朝から暗い気持ちを引き摺って電車に乗ってここに来たが、どう考えても自分は場違いだ。

 梅雨が明け、空一面に青が広がる好天に恵まれた七月中旬の午前十一時。

 江ノ島駅に着いてしまった。

 こんなに早い時間に外に出るのは久し振りで、眩しい世界に違和感はあるが懐かしさも憶える。

 白いTシャツに、グレーの九分丈パンツ。涼しい格好をしていても江ノ島駅から少し歩いただけで汗が滲む。これから江ノ島まで歩けるのか不安になるくらい、太陽の熱に体力を奪われていた。

 溜め息を漏らしながら十分程歩いて、ラストリゾートの前の交差点が見えた。

 あの場所で待ち合わせの予定だが、歩いて向かっている自分に気付いたのか、待っていたアシスターが横断歩道を渡って駆け寄って来た。白いブラウスはいつも通りで、下は珍しく九分丈のスキニージーンズを履いている。黒い長髪を結わえた姿は夏にぴったりだった。

「要さん、本当に来てくださったんですね! あ……九分丈、お揃いですね」

 拍子抜けしてしまう笑顔。どうやら来ないと思われていたらしい。この分だと提案を受け入れるメールが届いた時は相当驚いたことだろう。

「……それにしても暑いですね。今日は平日ですし、そんなに混んでいないと思うので……休みながらのんびり行きましょう」

 今し方見たあどけない少女みたいな笑顔のせいで、背伸びしているようにも見える。並んで歩き始めた彼女の黒髪が揺れ、桜のような良い香りが微かに鼻孔をくすぐった。

「富士山がくっきり見えますね」

 弁天橋を渡り始めると、アシスターは遠くの富士山に顔を向けた。

 青空の下、こころしか声は弾んでいて、頭の上に音符が一つ見えたような気がした。

 ゆったりと歩くカップルや、老夫婦、大学生くらいのグループと時々すれ違う。アシスターが言った通り人はそこまで多くないため、せわしなさを感じることもない。

「天気が悪いと見えないので、晴れて良かったです……」

 続けて「いや、ちょっと暑すぎるかな……」と小さな声が聞こえた。

 すごく分かる。軽率に「そうですね」と声に出してしまいそうなくらい、暑い。

「私、ずっと前まで晴れの日より、曇りの日が好きだったんですけどね」

 彼女の視線が自分から外れた時、思わず口を開いたが何も訊かずにそのまま閉じた。

 アシスターがたまに昔の話をする時に見せる、些細な表情の変化が分かるようになっていた。

「でも……今は晴れの日も好きになってきました。晴れの日じゃないと見えないものもあるんだなって。私なんかが言うのも烏滸おこがましいですけど、これって人生みたいだって思いませんか?」

 自分が話さないようにしていることを忘れているのか、こんなに無言を貫いているのにたずねられると、時々ほだされてしまいそうになる。

「人生にも天気があって……昔の私はずっと雨に降られていたような気がしていたんです。雨宿りをしたまま立ち止まっていて、だから視野も狭くて。晴れの日に何故か引け目を感じていたのは、きっとそれが理由だったんだろうなって」

 人生にも天気があるのなら、俺の天気予報を教えてほしい。

 いつか晴れる日が来ると分かれば。

 それが分かれば、もう少しだけ頑張れる気がした。

 また来たいと思って今日まで来ていなかった島。階段を上り、江ノ島神社の赤い鳥居を見上げれば眩しい日光に目が眩む。本島に着いてからも炎天下の中を歩き続けていると、すれ違う人々の汗の匂いに、そよ風が運ぶ草木の青い匂いに、夏を感じた。

 木漏れ日の溜まる人々の笑顔を横目に、歩き進めるにつれて足は疲れ、息は上がる。あの時以上に疲労を感じつつも、見覚えのある景色に懐かしさを憶えて何処か浸ってしまう。

 こんなの、安楽死するための面談の一つでしかないのに。

「要さん、要さん。最初にお会いした時に言っていた花の咲く場所、ここですよっ」

 突然一段と声が弾んだアシスターに驚いたが、無邪気な様が微笑ましかった。

 人は好きなものを前にした時の姿が何より魅力的だと思う。飾ることのないありったけの等身大の姿に、その人らしさが見える――そんな気がするからだ。

「って、すみません……勝手に一人で騒いでしまって」

 焦りながら団扇うちわでパタパタとあおいで苦笑するアシスターを見て、つい笑いの息が漏れた。

 これまで散々黙っていたのに。

 行く先々で案内人のように島の魅力を話してくる彼女の声を聴いていると、喋りたくなる。

 真っ先に声に出すとしたら「暑い」だが。歩き慣れていると言っていたアシスターでさえ髪の生え際をハンカチで押さえながら「溶けそうですね、この暑さ……」と嘆くくらいだ。

「歩いたら喉も渇くし、お腹も空きますね……お昼時ですし、しらす丼食べませんか?」

 アシスターと同じようにこの長い髪を結びたい――熱に参ってそんなことを考えていた頭が反応する。こんなもので疲れるほど体力が落ちてしまったのかと自嘲じちょうしながらも、提案に頷いた。

 小休止の場所に選んだのは階段を登り切った先、照明がほんのり明るい木造の飲食店。

「いただきます」と行儀良く手を合わせるアシスターを前に、心の中だけで「いただきます」と言うのが申し訳なくなる。

 美味しそうに生しらすを食べる彼女の姿を見ていると、ついはしを止めてしまった。

 面と向かって誰かと食事をすること。

 それだけなのに。たったそれだけで、自分がとても虚しい生活を送っていたことに気付いた。

 食べ終わってからもずっとそんなことを巡らせながら歩いていると、長い階段を降りた先に海が見えた。

 辿り着いたのは、本島の奥にある紅い岩屋橋いわやばし

 紺碧こんぺきの空と群青ぐんじょうの海がとても眩しく、薄目でらした視界に広がる。一色で青とくくるには勿体もったい無い、様々な青色を贅沢ぜいたくに見渡せるこの場所は、かつてミュージックビデオを撮影したロケ地の一つだった。

 偶然ではないだろう。

 Iruの曲を全て聴いたアシスターなら知っていて連れて来たはずだ。

 橋の奥の方に行くと、彼女は紅い欄干らんかんに手を置いて少し大袈裟おおげさに空気を吸い込んだ。

「江ノ島が好きだって言っておきながら、まだここには一回しか来たことがなかったんです。見渡す限り青で……向こうに島とか陸は見えますけど、何だか、世界の端っこに来たみたいに感じませんか?」

 梅雨の後の陽射しを思わせる晴れやかな顔で、アシスターは海風を浴びながら言う。

 世界の端っこ、か。

 心地良さそうにしている穏やかな口調。静かな環境に身をゆだねる彼女。

 広大な空も海も、一人のアシスターがそこに立つだけで背景と化す。決して背景が目立たないわけではない。歌を際立たせてくれる伴奏のように、青色を放ち、波の音は響き続ける。

 もしアシスターがIruのライブに来たらどんな反応をするのか。今見ている普段の笑顔よりも弾けた笑顔で「Iru」と呼んでくれる、そんな世界も見てみたい。

 ――俺は、本当は……。

「少し風が強いですけど、気持ち良いですね」

 アシスターの言葉に「そうですね」と、初めて声に出して言い掛けた時。

 後ろから女性の声が聞こえた。

「あ、ここら辺! いやー、初めて来たのになんか懐かしい気分!」

「懐かしいって、昨日見せてくれたIruのPVってそんな前のやつなの?」

「んー、まあ四、五年前かな? 私まだ高校一年の頃だったから」

「高一の頃かー。私全然聴いてなかったからなあ」

 唐突に聞こえたIruという名前。

 と胸をかれたが、振り返らずに耳をそばだてる。どうやら女性二人が話しているらしい。

「だから、今からでも聴いてよー。全部良い曲だし、勿体無いよ!」

「だって活動休止中でしょ?」

「まあ……そうだけど、休止ってことは多分また活動再開してくれるって!」

「えー、今活動してないなら新曲聴けないしライブも行けないし、好きになる意味無いじゃん」

 微かな心の灯火が蜃気楼しんきろうのようにゆらりと消えた。そして悪夢から覚めた時と同じように、現実に引き戻されて胸の鼓動がどんどん速く強くなっていく。

 馬鹿だ。何を今まで浮かれていたんだろう。

「要さん、その……すみません……」

 観光客とおぼしき二人がその場を離れると、アシスターもまさかこんな偶然が起こると思っていなかったのか謝ってきた。さっきまでの楽しげな雰囲気と違って、分かりやすく気を遣ってくる。

「……もう少し先の方、行ってみませんか」

 歩き出したアシスターの少し後ろを歩きながら、ポケットから携帯電話を取り出した。

 勢いのままSNSの画面を開き、I、rと打って、指先が固まる。

 どうして、この指は確かめるのを躊躇う。

 活動していなければ意味は無い。詰まるところ、歌しかない自分が歌うことさえ出来ないのならもう生きている意味は無いんだ。

 それを自分で認めたから安楽死の申請をしたはずなのに。

『俺は、本当は……』

 さっき、その後に何を浮かべていた?

 まさかこの期に及んで、また歌いたいとでも?

 現実を、世間の反応を見た上でそう思えるのかと、最後にuの文字を打った。


『最近知ったIruの活動休止前のライブ、声カッスカスじゃん。観てるだけできついわ。これで金取ってたの? 俺が代わりに歌った方が良いんじゃねってレベル』

 

 足は止まり、放心状態になりながら、惰性だせいでゆっくりと画面をスクロールして言葉を見ていく。

 活動再開を楽しみに待ち望んでいるファン同士の会話もあった。なのに、響かない。

 どうしてだろう。

 どうして、他に嬉しくなる言葉も沢山書かれているのに、悲しくなる言葉の方が心の深い所まで届いてしまうのだろう。

 自分で調べたくせに、もう何も見たくなくなって、心がまた空っぽになっていく。

 下を向いているときびすを返してきたアシスターの白いスニーカーが視界に入った。

「要さん、どうしたんですか? ……大丈夫ですか」

 昔なら恥ずかしくて出来なかったが、もうどうでも良かった。

 これが事実だと訴えるように、アシスターに画面を見せる。

「……こんなの」

 アシスターの震えた声。どんな顔をしているのか見ることが出来ない。

「……沢山の人に愛されてきたんです。誹謗だけじゃなくて、愛されてきたのも事実ですよ」

 そんなこと、分かっている。

 誰よりも、一番真っ直ぐ心に響く自分が分からないはずが無いだろう。愛されている言葉を、誹謗の言葉を、ただの事実として見ている他人とは違う。本当の喜びも痛みも本人にしか受け止められないのに、どうして平気で当たり障りの無い言葉を言える。

「だから、そんな要さんを傷付けるような声に耳を傾ける必要なんて……」

 観光客が通り過ぎると、アシスターは無言になる。

 早く喋りたいのを堪えながら、周りの人にIruだとバレないように気を遣っているのだろう。

「私には間違いなく響きました。要さんの歌声も、書かれた歌詞の言葉も。全部、響きました!」

 言われて、拳を強く握る。

「本当に、メロディも歌い方も好きですし、でもそれ以上に歌詞がすごく好きなんです」

 語彙力が無いと言っていたアシスターは必死で、目を逸らすことなく真っ直ぐに。

 ただ褒めれば褒めるほど、逆に残酷な一つの事実を突きつけているということには気付いていないらしい。

「……違う」

 心の声が漏れた。アシスターに初めて聴かせた声は、聞くに堪えないくらいかすれていた。

 彼女は今までにないくらい目を丸くして驚いている。

「違うんだ」

 本当は最初に聴かせる言葉をこんなものにしたくなかったのに、一度声に出すと抑えきれない。

「東峰さんが、聴いてくれたのは……今の僕の歌じゃない」

 アシスターは瞬きを繰り返す。

「昔の僕の声だから響いた……それだけです」

 こうから否定すると、彼女は眉尻を下げた。

「満足に歌えない歌手が今更歌って、誰が聴いてくれるんですか。誰の心に響くって言うんです」

「……すみません」

「自分のことを全部分かってるのは、僕だけなんです。誰にもこの苦しみは分からないんです」

「それは、そう、だとしても……。私は――」

「この三年間なんて……」

 無意味だった。

 浮かんでいたその言葉は言えなかった。本当は、認めたくなくて。

 波の音だけが響き渡る中、こちらを見つめてくるアシスターに背を向ける。

 帰路を歩き出すと彼女はそっと隣に並んできた。

 自分より生命力がありそうな、岩を打ち付ける白波。階段を下りて岩場へ向かう家族の笑い声。

 海に近い側を歩いていて良かった。景色を見るフリをしてアシスターに顔を背けていられる。

「あの……疲れてませんか?」

 忘れていたが、訊かれてふくらはぎの辺りの疲労を思い出す。

「江ノ島の入り口まで船で戻れるので……乗りませんか」

 気まずい雰囲気の中で頷くのは抵抗があったが、正直、同じ道を引き返す気力は無かった。

 アシスターの提案通り遊覧船に乗ると、潮風が汗ばんだ身体を優しく撫でた。

 波に揺られる船上で、彼女は気を紛らすように話し掛けてくる。

「歩くのも良いですけど、船だとやっぱり楽ですね」

「……」

「あ……見てください、向こうの方で凧揚たこあげしてる人が……」

 少し明るめの声は耳に入ってくるが、左から右へと通り過ぎていく。

 さっきのファンは、今でもPVの撮影地に来てくれるくらい好きでいてくれたのだろうか。

 果たしてそれは良いことなのか、もう判断が付かなくなっていた。

 一方的に活動を辞めた挙句、今の今まで活動再開出来ずに待たせてばかり。ついには安楽死の申請までしてファンの声や想いを無下にしようとしている。

 そんな自分を、まだ好きでいてくれだなんて思えるわけがない。

 寧ろ心が痛むから嫌いになってほしいとまで願い続けてきたが、それは口だけで、結局嫌われたら傷付いてしまっている。

 何て、浅はかだったんだろう。

 隣からアシスターの視線を感じて目を合わせると、唇が物言いたげに動いていた。

「あの……要さんは……もう、歌は嫌いですか?」

 その問いには、答えられなかった。

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