夢から覚めた日(4)
*
メールを打っていると後悔が押し寄せる。あのまま親の言う通りにしていれば、たとえ人生が上手くいかなくとも親のせいにすることだって出来ただろう。
皮肉なことに、これは自分で選んだ道の果てにあった結末。
さっきまで美味しそうにガトーショコラを食べていた彼女は、半分残したまま手を止めて画面を見ていた。
「要さんはきっと沢山我慢してきたんですね。でも、その強い想いを捨てずに歌手になったことはとても意味があったんじゃないかって……だってこれだけ沢山のファンがいるんですから、今までの想いも多くの人に届いていたと思いますよ」
そうだろうか。もし意味があったのなら少しは報われる。
『Iruって活動再開したけど、あんな中途半端な声なら歌わない方が良くね』
ドクンと胸が嫌な音を立てた。いつかSNSで見掛けた、心に深く刺さり込む言葉の一つ。
支えてくれたファンや新曲を待ち望むファンに、リハビリをして恩返しするつもりで
《手術を終えて活動再開しても、やっぱり前の歌声が良かったとか、聴く気
そう思い知らされて、ファンの反応に
「Iruさんを知ったばかりですけど、私だって……好きになったのは本当なんです。薄っぺらいだなんて、Iruさんの歌を
下を向いて、送ったメールを見つめたまま目を見開いた。そんなことはないだとか、
ゆっくり顔を上げると、アシスターは自分で言った言葉に驚いたかのように、悲しげだった目を少し見開いた。
「あ……申し訳ありません……」
《大丈夫です。東峰さんも、過去に何かあったんですか?》
密かに気になっていたことをぶつけてみると、アシスターは
「何かがあったというより、ただ胸を張って幸せだったと言えるものでもなくて」
自分が置かれた環境の苦しみを歌った『混迷の春』を好きだと言った彼女なら、もしかすると言い出せない何かを
「本当は……本当は要さんの辛い気持ちを分かるって言いたいです。でも、経験したことでしか分からない痛みや苦しみを私も知っているので……簡単に言えないんです」
もし同じ経験をしている人と出逢っていたら、少しは救われていたのか。
そうすれば傷の
顔を俯かせたアシスターを見ると、訊かずにはいられなかった。
《東峰さんの経験した苦しみって、どんなことなんでしょうか》
きっと精一杯の振る舞いなのだろう。メールを送ると彼女は「私も前に……」と言い掛けた後、一度口を
「その……昔、色々あって、児童養護施設にいたんです。ある日、施設に保護犬が来たことがあって……私にとって唯一の家族みたいに可愛がっていたんですけど、飼い主が見付かってお別れする時はどうしようもないくらい胸が苦しくなってしまって」
犬が唯一の家族と聴いて彼女が育った境遇を何となく察し、思わず口を開きかける。
「
だから簡単に「分かる」と言えないということか。
アシスターの言う通りだ。かつては歌声を出せない苦痛を人に話したこともあったが解決出来なかった。それどころか分かってもらえない上に相手を困らせてしまうだけで、きっと沢山の人に迷惑を掛けてしまっただろう。悲しいことに何も意味を成さない、ただの悪循環でしかなかった。
話しても変わらないという諦めと、打ち明けられない苦しみが胸の中に残り続けている。
《お互いに異なる痛みだとしても、大切な何かを失っている共通点はあるみたいですね》
「時々、思い出す度に胸が痛くなって。要さんも……そうなることが無いですか?」
時々なんてものではない。
強弱はあれど、ずっと痛み続けている。
「失っても、好きだったなって感覚が自分の中に残っているから、きっと痛むんですよね。だから好きだったことを忘れないで、って気付かせてくれるサインだと思うようにしてます」
胸の痛みがまだ歌を諦めていないことに気付かせるサインだったとしたら、どう応えるのが正解だったのか。この三年間と同じように、治るかも分からない未来に向かって諦めずに続けるのが正しかったのか。それとも、もう無理だと諦めようとしている今が正しいのか。
いくら比べてみても、どちらも正しくてどちらも間違っているような気がして。そんな残酷なサインなんかよりも、明確な答えが欲しかった。
「……すみません、私ばかり話してしまって……」
彼女には悪いが、きっと答えはこのまま見付からない気がする。
雨に濡れた窓は遠くの景色を歪ませていた。
* * *
一ヶ月後。渚はあれからまた一度要と面談をして、湿気がじめじめと纏わり付く六月になった。
「なぎ、おつかれさま」
面談部屋に入ってきた朱音は椅子に座り、ふう、と息を漏らした。
日本で安楽死制度が認められるようになってから十数年。刻みつつある歴史の中、安楽死希望者とアシスターの双方にとってより良い環境を整えていくため、ラストリゾートでは常日頃から運営の見直しが図られている。
今まさにここで行われる『アサーティブ面談』も、その見直しによって設けられた一つ。相手の考えを尊重しながら自分の意見も発信する、アシスター同士による定期的な面談だ。
担当している安楽死希望者に迷惑を掛けないこと、そして向き合う中で悩み戸惑い、アシスター自身が心を病んでしまわないように同じ立場の同僚が支えること。
その二つを企図してラストリゾートで義務付けられたこの面談では、お互いが担当している安楽死希望者の情報を共有し合うこととなっている。
安楽死希望者のために何が出来るだろうか――周りを見ていると、そこに苦慮しているのは自分だけではなかった。答えの無い問いに向き合う中で、時にはアシスター変更制度によって担当を交代され、また時には安楽死を選択した人の最期を見届けなければならない。計り知れない深い悲しみとショックは、向き合えば向き合うほど尚のことだ。
「なぎ、何か前より元気無いみたいだけど……悩んだりしてない?」
「え、そうかな? 元気無いわけじゃないんだけどね、ずっと考えてるからかも。辛いとかじゃなくて……分かんないことばっかりで手探り状態だから」
「そっか。やっぱり、そうだよね。私も同じ」
部屋の空気が重たく感じるのは、少なからず外の光が差し込んでいないせいもある。最近は天候の優れない日が続いていて気分も晴れない。
ラストリゾートに来る時に雨が降りそうで降らない、灰色の空を映した海を見掛けた。浜辺にはサーファーの楽しげな姿。幸せそうな姿を見ると何だか心が痛くなった。
「なぎは最近どんな人と面談してるの? 向き合い方で戸惑ってることとか、ない?」
「えっと……特によく考えてるのは……昔、音楽活動してた要さんっていう方のことかな」
「音楽活動?」
「そう。歌を、歌ってたの」
一呼吸置いて、途切れ途切れながら要のことを話す。
「歌声が出なくなって、生きる意味が無くなったって……打ち明けてくれた」
言いながら、きゅっと胸が締め付けられる。
全ては自分が辿ってきた道に安楽死希望者だったという過去があるからだ。安楽死を望む理由を打ち明けるというのは、そういう苦しみを伴うものだと知っているから上手く喋れなくなる。
それ以外のことなら何でも話せる朱音が相手だとしても。
「それは……簡単に分かってあげられることじゃないよね。だってプロにとって何よりも一番大切なものでしょ」
「だよね。だからずっと考えちゃって。要さんのことを知れば知るほど、今どれだけ辛いんだろうって思う。きっと本人にしか分からないから、分かるよって言えないのも悔しいし」
「悔しがるのは仕方ないけど、自分のこと責めないでね。分かるっていうのは、相手が『分かってくれてる』って感じて初めて成り立つものだろうし、敢えて自分から言おうとしなくても大丈夫じゃないかな」
「そうかな……でもなあ、そう感じてもらえるようなこと出来てるのかな」
「なぎはどういう風に面談してるの?」
「どういう風に? 少しでも良い時間過ごしてもらえるようにしてるつもり、かな。小さいことだけど、要さんに関して言えば私と一緒で甘いもの好きだから、最近はケーキ用意して一緒に食べながら面談するとか」
「うんうん。好きなものが同じだと会話も弾むもんね」
「あとはこの前三回目の面談だったんだけど、いつもここで面談してるから今度は外で面談するのもどうかなって思ってて……。最初の頃、窓から江ノ島の方じっと見てたし、歩くと気分変わるかもしれないし……でもやっぱり、元々歌手だったこと考えたら周りの視線がある外は嫌かなとか」
突然静かになった朱音の顔を見ると、どこか思案に沈んでいるようだった。
「なぎは熱心だね。言うは易く行うは難し、って言うけど、分かるって言葉で伝える以上になぎがそこまで考えて行動してることの方がよっぽど大事だと思う……私も見習わないと」
「見習うだなんて、そんな。出来ることがあるなら全部したいだけだよ、そうじゃないとアシスターでいる意味無いと思うから」
「……アシスターでいる意味、か。そう思えるのがすごいことだし、きっとその人も嬉しいんじゃないかな」
要を見ていると、かつて自分も安楽死を希望していた者として身につまされる思いが込み上げてくる。そんな相手の為と思って取っている行動も、一歩間違えれば余計なお世話になりかねないと分かっているから、朱音の言葉が心強い。
「自分が一番続けたかったことを出来なくなったら、どうするかな……朱音は、浮かぶ?」
「何だろう……それに代わる何か新しいことに打ち込めたら、もしかしたら少しは救われるかも」
最初は自分もそう思っていた。歌ではない、要を支える何かがあればと。
ただ、それが今の要の心を満たせると思えないのは何故なのか。
「やっぱりそうなのかな。でも、出来なくなったことが自分の生きる意味とか支えになってたものなら代わりになるものってそう簡単に見付からないよね」
「うーん、支えになってた……か。私も、親を亡くした時にそういうのはあったかも」
自分の悩みばかり話していたせいで、辛い過去を思い出させてしまった。謝ろうとしたが、朱音は敢えて気を遣わせないようにしてくれたのか、そのまま話を続ける。
「前に話したと思うけど、私の場合、親の存在って大きかったんだよね。医者になれって強いられてたわけじゃないけど、自然とレールが敷かれてたっていうか……やっぱり医者の子どもは医者になるのが当たり前みたいな風潮って、私は感じちゃってたし。でも親の期待に応えたい気持ちも強くて、それがある意味頑張る支えにもなってたから、親がいなくなって分からなくなったな」
「そう……だよね。朱音がアシスターになろうって決めたのも、そのことがあったからって言ってたもんね」
「うん。なぎの話聴いてると、私とは違うけど要さんも少し似てる部分もあるのかなって思った。大切なものを失くしてしまった時に視野が狭くなって……それ以外に目を向けられなくなる状態」
引っ掛かっていた要の言葉を思い出した。
――何をやってみても歌声がもう出ないんです。歌が大好きで、歌うことが自分の全てだったのに。
初めての面談で、REN取得申請をした理由を訊いた時に返ってきたメール。内容こそまだ訊けていないが、あの一文には三年間の努力が
「確かに……要さんも歌が自分の全てで、だから元の歌声を出せるように努力し続けてたって、話してくれた」
「じゃあ、声は今も出せるの?」
「多分……直接聴いたことはないけど」
「そっか。それなら、要さんが元の歌声に拘る意味とか……私だったら考えてみるかな。折角話す機会与えられてる私達がそれを考えないままだったら、きっと本人の本心には気付けないと思うから。これこそ言うのは簡単で行動に移すのは難しいことだけど……」
「……そう、だよね。拘る意味……か」
「一人で努力するのって本当に大変なことなのに報われない時もあるよね。頑張ったら絶対に結果が出る、って未来が分かってるなら、そうなるまで続けられるかもしれないのに」
「朱音も、前に言ってたもんね」
「うん。ほら、私医者の子どもなのに勉強苦手だったから……受験も失敗してるし。最初に志望校落ちた時は、あんなに頑張ったのに何でって泣いたし、浪人してる時もずっと孤独感じてたもん」
過去の失敗を笑いながら話す朱音。気丈に振る舞っているようだけれど表情に暗い影があって、専門学生時代に「もうすぐ親の一周忌なんだ」と打ち明けてくれた時の顔と重なる。
「努力は報われるとか、裏切らないって言うけど、頑張ってもなかなか結果が出なかったら裏切られたって思いたくもなるよね」
「……信じるからこそ感じる辛さだよね」
考え込んでいる二人の間に少しの沈黙が流れる。
「でも要さんもきっと、それだけ好きだった、ってことなんだろうね」
朱音の痛切な声色。その言葉を聴いて、要に対する一つの疑問が生まれた。
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