夢から覚めた日(3)
* * *
春の日差しの強さも
あれから三週間。四月下旬ともなると、晴天の日中は半袖でも心地良く過ごせる程の気温だ。
江ノ電の中で日差しを浴びながら携帯電話を眺めていた。昔のようにふとSNSを見ようとしても怖くなって、躊躇った指先がまたメールの画面を開く。
気付けばここ数日、アシスターと何度かやり取りをしていた。どんなメールが送られてくるのかと構えていたが、殆どは世間話など返答に困ることのない内容。無視するのも悪いと思って何度か送り返してしまったけれど、この一通のメールに返事をするのは時間が掛かった。
《要さん、こんにちは。最近は少し暑いですね。珍しくお昼休みに辛いラーメンに挑戦したら少し汗をかきました。やっぱり私はケーキとか、甘いものが好きです。要さんは甘いものはお好きですか? いつも色々訊いてしまってすみません……本当は会って色々とお話ししたいんですけれど、要さんがもし良ければ、いかがですか?》
途中までは生活感に溢れた内容だった。最後の提案の一文が無ければ、他愛ないやり取りを通じていつもみたいに心に小さな温もりを感じるだけだっただろう。
喋らない自分に対して進んで面談を望むアシスター。メールを開いては閉じ、数時間悩んだ。
延々と考えた末、そういえば面談は必ず十回はしなければいけないんだった、と気付く。断ろうが先延ばしにしようが意味は無かった。
そうして二回目の面談。午後三時にラストリゾートを訪れると、前回より明るめの声をしたアシスターが桃色の箱をテーブルに置いた。
「先輩の知人のパティシエが経営しているお店のケーキなんですけど、どれも絶品なんです。今日は一番好きなケーキを買ってきたので、一緒に食べませんか」
メールで『ケーキは僕も好きでした』と答えたから、わざわざ気を遣って買ってきてくれたのだろうか。断るのも悪いだろうと思って頭を下げると、箱の中からガトーショコラが出てきた。
「本当に美味しくて、一週間に一回のペースで通っていたらちょっと顔が丸くなった気がして……最近は控えていたんですよ」
我慢していた分の反動なのか、アシスターは嬉しそうにケーキを皿に乗せて差し出してきた。
勧められるがままケーキを口に運ぶと濃厚なチョコレートの
思えば、ここ数年は空腹を感じても食べ物を選ぶことさえ
「美味しいですか?」
頷いて答えるだけを繰り返すのが申し訳ない。
「初めて食べた時、すごく美味しくてびっくりしちゃって。また先輩とお店に行った時にパティシエの方とお会い出来たんです。迷惑かと思いながらもケーキ作りのコツを訊いてしまったり、ケーキを食べた感想を伝えたりしたんですけど、そうしたらとっても嬉しそうにしてくださって……」
《きっとすごく嬉しかったと思います。感想を言ってもらうことで初めて自己満の域を超えて、誰かに届いているのが分かりますからね》
送りながら、自分も昔は、一つ一つの感想が心に沁みていたなと振り返る。
普段、何かを食べる時に作り手の気持ちまで考えることは無かった。完成するまでの苦難や
食べかけのガトーショコラも形は違えど、自分の曲と同じく想いが込められているのだ。
「そうだったら私も嬉しいです。その後も色々と拘りをお話ししてくださったので……。届けるのが簡単ではないからこそ、届いた時の喜びも強くなるんでしょうね」
《そうですね。僕にも、昔そんな時がありました》
「……要さんも、沢山の曲を作っていたんですもんね」
アシスターは電子端末の文字を見つめて言った後、Iruの話を始めた。
「前回、お会いした後に聴かせていただいたんです。
一瞬
全部? 全部聴いてきたのか?
流石に冗談だろうと、手に持っていたフォークを花模様のデザートプレートの上に置く。
「素人の質問で申し訳ないのですが、要さんはどうやって曲を作ってこられたんですか? 歌詞から考えるのか曲から作るのか、どんな想いがあったのか……良かったら聴かせてくれませんか」
歌えなくなってから
《僕の場合は、
アシスターは電子端末をまじまじと見て、目を丸くした。
「初めて聞く言葉ばかりですけど……一曲作るのもすごく複雑な工程なんですね。時間もとっても掛かって大変そうですし……」
ポカンとして、小さな子どものような反応が可愛らしく映った。
彼女の言う通りゼロベースから曲を作るのは大変だが、その作業は難しくもあり面白みが詰まってもいる。一つ一つの音が組み合わさり、少しずつ曲が完成へと近付いていく過程がたまらなく好きだった。
「歌詞は実体験を基にして、特に力を入れていたんですよね」
過去にどこかでそんなことも喋ったなと、手で顎を撫でながら振り返る。全てが実体験というわけではないが、それを基に書いていることが多かったのは事実だ。
前回は何も知らなかったはずなのに、食い気味に質問してくる彼女をファンのように錯覚してしまう。おそらくIruのことを色々と調べてきたのだろうが、そんな姿を見ているとつい魔が差して意地悪く試すような内容を打ち込んでいた。
《全部が全部、そうではないですけど。『
敢えて一つだけピックアップしたのは、デビュー前に作った曲。武器であるハイトーンボイスを使っているわけでもないあまり目立たない曲を、アシスターが知っているとは思えなかった。
「あっ、確かデビュー前の曲ですよね……! あれも実体験を基に書かれていたんですか?」
「……」
口は開いたのに、言葉が出てこなかった。試したつもりが当然のように答えられて逆に恥を
「あの曲の歌詞、すごく刺さるものがあって好きなんです! 普通って言葉に対する悩みというか葛藤というか……あの『周りが言う普通は何だって、不安になってた』ってフレーズも、特に共感しました。誰かに訴えているような歌い方が伝わってきて」
アシスターの
『混迷の春』は高校時代に誰とも共有出来なかった孤独の苦しみを訴えたくて、大学生になってから歌詞に落とし込んで作った曲だ。あれはあの時にしか書けなかった歌詞だった。
初対面の時こそ気が強いのかもしれないと思っていたアシスターだが、この子も何か似たような苦しみを味わってきたのかもしれない。
「色々訊いておいて我儘ばかりですみません……ずっとお訊きしたかったんですけど、要さんが歌手になろうと思ったきっかけを教えてくれませんか」
随分と気遣いをしてくるアシスターとしか思っていなかったのに、意外にも遠慮をしない一面があることを少しずつ知っていく。それなのに嫌な気分になるどころか、
きっと、本当に全曲聴いてくれたんだろうな。
揺れる感情の中、追想しながらメールを打ち始めた。
*
過保護な家庭で育った。身の安全を口実に、自分の行動を過度に制限してくる母はそれだけが愛だと
だから主張してコミュニケーションを取るよりも、我慢する方を覚えていった。不自由を感じることもあったが、言われたことを守った時やテストの点数が良かった時は褒めてくれる。そんな親が嫌いなわけではなかったから我慢を選んだのだろう。
しかし、次第に気付いてしまった。
褒めてくれているのは言うことを聞く人形のような自分の時だけだ、と。
空っぽになった心を満たすためには、自分が本当はどうしたいのかを伝えて環境を変える必要があった。だが、本心を打ち明けようとするといつも萎縮してしまい、心臓がバクバクする。
胸の鼓動が騒ぐだけで何も変えられない日々の中、次第に後ろ向きの思考に染まっていった。
どうせ言っても聞いてくれない。
そんな
歌を好きになったのは小学校高学年の頃、家族で出掛ける車中で流れてくる曲がきっかけだったのを微かに記憶している。親の趣味で流していた曲はいくつかの決まったアーティストの歌。
最初は部屋で小さく口ずさむだけだったが、のめり込むようになった発端は両親の結婚記念日、家族で外食をした後の「まだ時間も早いし、カラオケでも行くか」という父の気まぐれだった。
カラオケは初めてで、歌を聴かせることに気恥ずかしさを感じて親の歌を聴きながらリモコンを眺めること数十分、母は「要も歌ってみたらいいのに」と言ってきた。
迷った末に、折角ならこの歌にしようと決めた時、両親が綻ぶ。
それは以前、父が車の中で「これ、結婚式の時に流した曲なんだよ」と教えてくれた歌だった。
間奏の最中、拍手をしながらやたらと褒めちぎられるのは何だか照れくさかったが、マイクを通して響く自分の歌声は迫力があってとても気持ちの良いものだった。
「まさか結婚式の時に流した歌、自分の子どもが歌うなんてなあ」
「本当ねえ……要、こんなに歌上手だったんだね。すっごい良かったよ、ありがとう」
こんなに、喜んでもらえるんだ。
初めて自分の表現を受け入れてもらえて、親とコミュニケーションを取れた気がする。
以来、登下校中も入浴中も、トイレに入っている時でさえ。一人の時なら所構わず歌った。
歌詞にはメッセージが込められていて、明るい曲も暗めの曲もその時の気分によって歌い分けをしながら自分の感情に合わせて想いを表現出来る。
満たせずにいた自己表現の欲求を、歌が初めて満たしてくれた。
二〇二九年。高校三年生になった頃にはすっかり音楽に
何が何でも行きたいと願っていたライブのチケットを手にして、毎日待ち遠しくライブのことばかりを考える。
ライブに行ったのは片手で数えられるくらいだが、初めて行った時なんて夢見心地だった。楽器の音圧や息遣いの音、歌のアレンジにパフォーマンス。一度限りの魅力があるライブは何度聴いても同じ音が流れてくる音源とは比にならないほど、特別で。
JARSが収束している時代で、本当に良かった。そう思いながら、部屋で喜びを
だが、思い掛けぬ障壁があった。
「要。何これ?」
ある晩、母が目の前に突きつけてきたのは友人とのやり取りが映った自分の携帯電話だった。
「え、お母さん、何で……」
「何でじゃなくて。何、これ」
「…………ライブだよ……友達が買って、その、誘ってくれて」
勝手にやり取りをチェックされていたことの衝撃が強過ぎて、動揺を隠せない。
今回は訳が違った。
「……解散前の、最後のライブなんだ」
そんなのは通用しないと、既に分かっていた。分かってくれるなら、ファンクラブに入ることもとっくに許してくれていたはずだから。
本人確認が厳格化された電子チケットは、公式サイトのリセールに出されるのを待つしかなかった。友達と交代しながら寝る間も惜しんでサイトに張り付いていたことも。諦めかけていたところ、奇跡的に売り出された二枚のチケットを友達が手にしてくれたことだって。何も分かってくれない親には話したくなかった。喉から手が出るほどの
「だから、何? そんなことしてて大学受かるの?」
「……」
「断りなさい」
もう、これが最後の賭けだったのに。
結局、大事にしていたそのチケットは自分の分だけリセールに出される形となった。
今思えば大人になるまでのモラトリアムを過ごす中で比較対象となったのは、学校の友達が殆どだった。あいつはいつもライブに行けるのに自分は行けない――無意識に周りの『普通』と違う所に敏感になり、それを見付けてしまう度にじわりじわりと疎外感を覚えていく。
深夜のベッドで過去のライブ映像を観ている時だって、いつもなら気分が高揚するのに、悔しさが込み上げた。抑圧されたこの現実を忘れさせてくれるどころか直視させられているだけだと思うと、尚更惨めで涙が出てしまう。
『その悲しみや苦しみが手を繋ぐのは、憎しみか、それとも幸せか』
辛い境遇は自分次第で変えていける。
何度も聴いている内に、そんなメッセージ性の込められた歌詞が、独りだった自分の心に強く響いた。
いつかこんな風に、自分も好きな歌で誰かの心を支えたい。
心の中で潜ませていた夢が大きく育ち、明確になった瞬間だった。
進路を決める際に、意を決して親に打ち明けてみると案の定反対された。偏差値の高い大学に進み、将来性があって磐石な会社に就職することの何が不満なのか、と。
反論しようとしても、いつもみたいに胸の鼓動が激しくなって言えなくなる。
「意見が言えないならね、それくらいの気持ちなんだから。ちゃんと勉強しておきなさい」
母に言われても言い返せず、
誰かが作った歌ではもう、満足出来なくなる程に。
歌手になりたい欲で
するといつの間にか
こうして音楽活動を始めてから意気揚々と自信に溢れるもう一人の自分が確立され、その先にメジャーデビューが待っていた。
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