夢から覚めた日(2)


         *


 もう三年以上前になる、二〇三七年の一月。

「それじゃあ……北海道ほっかいどう、かんぱーいっ!」

 ライブツアー一本目、北海道公演の後、自分の浮き立つ一声で始まった打ち上げ。いつもなら乾杯の一杯だけはアルコールを飲むが、その日は水を飲んでいた。

 ほんの少しだけでも喉に違和感があった日は飲酒しない。自分の決め事にもどかしさを感じるくらい陽気な雰囲気の場ではあったが、ライブの余韻に浸る時間と共に気にならなくなっていった。

 ライブでお馴染みのサポートメンバー、ギタリストのれんの頬もすっかり赤らんでいる。

「蓮さんは……一本終わるだけで、もう残り十五本かあ、って寂しくならないですか?」

「え? そりゃ、なるに決まってんじゃん。めっちゃ分かるよ」

 普段は鋭い目をしていて一見クールな印象を与える蓮が「でもさ、ライブってその日その時限りだから良いんだよなあ」と開放的な笑顔を見せた。

「俺らもそうだけど、ファンはもっと思ってる。Iruのために来てくれてるんだろ? 残りのこと考えるなら、次はどうやってファンと一緒に楽しもうかって考えるのも良いんじゃないか?」

「……そうですね!」

 待ち遠しくて仕方がなかったのは自分だけじゃないと思い出し、頷いて笑みを零す。

 ライブの熱も冷めやらぬまま、最高のスタートを切ってまた強く意気込んだ。


 音楽にはあらゆる人の心を動かす力が宿っているに違いない。

 自分の歌を聴くために足を運んでくれる、大切なファンで溢れた会場。広々としたそこをマスク越しに隈なく見渡せば、二本目のライブは前回よりも一層輝かしく映った。

 理想と現実の狭間はざまで揺らいでいた頃の葛藤かっとうを歌った曲。恋が成就じょうじゅした時の喜びの曲や、失恋した時の苦味を歌った曲も。自分という一人の人間にここまで興味を持ってくれるのは気持ちを歌に乗せられるからであって、歌が無ければ誰も聴く耳を持ってくれなかったと思う。

 もっと、もっと届いてほしい。

 全国八箇所のアリーナでそれぞれ二日間の公演。デビュー後わずか二年余りと新人ながらチケットは発売間も無くして完売となり、急遽きゅうきょ予定には無かった立見席が追加販売される程の殺到ぶり。

 そんな大々的なツアーを全力で駆け抜けるつもりでいたのに、三本目の宮城県みやぎけんでのリハーサルの最中、一本目の時以上に喉に違和感を覚えた。

 何故だか声が、出しにくい。

 一旦ブレイクすると、ギターを置いた蓮の許へ向かった。

「蓮さん……俺、今日あんまり声出てない感じしませんか?」

「え? いつも通りめっちゃイイ声出てんじゃん」

 メンバーにはいつも通りに聴こえている。至極当然のような言い振りに疑う余地など無いはずなのに、違和感はぬぐえない。不安を隠したまま臨んだ当日の公演は大歓声に包まれたが、心に残っていたのは余韻ではなく安堵感だった。

 それから目紛めまぐるしくツアーが過ぎていくと共に、焦りが積み重なるようになっていく。

 声という音色、喉を楽器としている以上、日頃からケアを怠ったことは一度もない。すぐに病院に行っても喉風邪の疑いと言われるのみで、腑に落ちなかったのは日々つちかわれた勘があったからだろう。ライブの最中も気掛かりで、MCは上手く繋げずサポートメンバーにフォローされた。

 そして六本目、意のままに高音を出せない瞬間が何度かあり、しまいには歌詞が飛んだ。

 終演後の楽屋、普段なら有り得ない失態のことで頭が一杯だった。

 これはもう自分の歌声じゃない――既に嫌な予感で胸騒ぎがして、メンバーの目を気にしている余裕も無い。

「Iru、さっきから顔色悪いけど、大丈夫か? やっぱり体調悪かったのか?」

 ライブでの歌声も音源そのものと言われてきた自分のことを、蓮は深刻そうに心配してくる。

「……すみません。実はこの前も病院行ったんですけど……もう一回行ってみます」

 ツアーはまだ折り返し地点にも到達していない。もし公演が中止になったら――竦む足を何とか動かして、翌日また病院へ向かった。


 嫌な予感というのは、どうしてこうも容易たやすく的中してしまうのだろう。

 診察の結果、声帯の粘膜が風船状に膨らんでいることが判明し、微かな望みは呆気なく失せた。

「疑っていたポリープではなくて、声帯せいたい嚢胞のうほうですね」

「声帯、嚢胞……」

 所謂いわゆる、声帯ポリープのような病気ではあるが自然しぜん治癒ちゆは難しく、完治のためには早期の手術が必要とされる。声をメインに使う者であれば、悪化してしまうと職業生命をも左右されかねない。

 続行の可否が、ツアーどころかまさか歌手生命にまで至るとは思いも及ばなかった。

 医師の説明にゾッとして思わず首元を覆った手は、震えていた。

 ツアーか手術か。無理をして悪化させてしまえばもう歌えなくなる可能性だってある。でも治す術があるなら、今はまだ歌えるとも思える。いや、誰が何と言おうと信じたかった。

 胸の内では既に答えが出ていたが、スタッフやメンバーには案の定反対された。

「Iru、流石に喉が優先だ。このツアーを止めたって、また出来る機会は作れるから」

「ファンだってきっと理解してくれるから……中止にしよう」

 皆、口を揃えて中止の方向で話を進めていく。

 痛いほど分かる。おもんぱかってくれていることも、プロならば休むべきということも理解している。

 それでも。

「まだ、歌えます。お願いします……続けさせてください」

「いや、でも――」

「どうしても、続けたいんです」

 子どもの我儘に手を焼く親のように、スタッフもメンバーも途方に暮れる。

「こっち側の都合で止めたくないんです! 治ればいつかまた、なんて……。手術して必ず完治するとも限らないじゃないですか。それに俺の喉が治ったとしても、もうその頃にはライブに来られなくなっているファンだって……いるかもしれないんです」

 周囲が静まる中、学生の時の苦い記憶と感情がどんどん込み上げてくる。

 熱中していたバンドが解散した、あの頃の絶望をもう誰にも感じてほしくなかった。

 行けるはずだったのに、結局行けなくなってしまった解散ライブ。未練は、こんなに時間が経ってもまだ消えてくれないのだから。

 本当に、どうして俺の幸せは目の前に現れたと思ったら消えていくのだろう。

 今も同じ感情に侵されてしまいそうだが、あの時、絶望一色の中に見付けた『ライブは生き物』という唯一の教えを無駄にしたくはなかった。

 いつ会えなくなるか分からない。たとえ天災によるものではなくても、自分や相手の都合だろうが関係無く、会いたいと願っても会えなくなる日が突然やってくる。

 今同じ想いを持つファンがいるかもしれないと思うと、御座おざなりにするわけにはいかなかった。

 無論、自分の喉は何よりも掛け替えのないものだと胸を張って言える。だから声が出なくなった時のことを想像すると不安が騒いで心臓の鼓動が速くなる。

 それでも、やっぱり。

「今しか、出来ないんです」

 待っているファンに歌を届けなければ。

 決意は、揺るがなかった。


 七本目。ツアー続行が決まって再び闘志を燃やしたお陰か、喉の調子が良く思えた。

 一音たりとも外さずに歌い切れた喜びに、久し振りに自然と笑顔が、そして涙までもが零れた。

 だが、ホッとしたのも束の間、次のライブではまた不調が襲い掛かる。ツアーの合間に病院で診てもらうと、分かるのは嚢胞が大きくなっていることだけ。直前のライブで声が出ていたため良くなったかと期待したが、その見立てはあまりにも甘かった。

「……大丈夫だ、Iru。今日もファンの皆、楽しそうにしてただろ、な?」

 肩に手を置いて言ってくれる蓮の優しさが辛い。

 こんな姿はもう見せないと決めたのに隠し切れていない不甲斐なさや、心配の一言を素直に受け止められないくらい余裕が無いことも、全て思い知らされてしまう。

 駄目だ。哀れでみにくくなったのは誰のせいだと、顔を上げて鏡に映る自分に改めて問い掛ける。

『お前だろ』

 そうだ。

 皆があれだけ止めたのに薄氷を踏むような続行を選んだのは他でもない、俺だ。

 辛いと言うなら止めれば良かっただろう。悲劇の主人公でも気取ったみたいに周りに迷惑ばかり掛けて。

 弱音を吐いて楽になろうとも考えたが、耳の奥で響く言葉に止められた。

「そうですよね……って言ってもまだ五本残ってますけど、乗り切ります!」

 強がってみせて間も無く、ツアー初日に言っていた言葉を思い返す。

 ――もう残り十五本、って言ってたのに?

 いつからか数え方が変わってしまっている。惜しむように数えていたはずの残りの本数が、いつの間にか耐え抜く試練の数になったことに気付いて言葉が出なくなった。

 最高の思い出が増えるはずだったのに、それ以降のライブは苦しかったことしか記憶に無い。

 思い描いた音符に声が届かない悔しさ。

 惨めだと感じてしまうくらいの周りからの優しさ。

 余裕が無いことがメンバーにバレていると分かっていても、自分で決めたくせに込み上げそうになる涙が鬱陶うっとうしくて、何度も堪えては仮面の下で苦し紛れの笑顔を作った。

 遂にツアーも残り二本となったが、その日は何度も音が外れてしまうほどすこぶる調子が悪い立ち上がりだった。

 終盤、咳き込んで歌えなくなった瞬間、マイクを持っただけの銅像と化したように固まった。こんな酷い声を聴かせて良いのかと、仮面の下の作り笑いさえも消えていく。

 ステージ間際まぎわにいる観客は隣同士で顔を合わせ始める。曲に合わせて振っていたファン達の手は次第にまばらになり、下ろしたその手で口元を覆う者まで視界に入った。止めるわけにもいかないと言い聞かせながらだまし騙し歌えるところを歌って、誤魔化すしか出来なかった。

 なんて、無様ぶざまな姿なんだ。


 そして急遽決定した最終公演の中止は、ドクターストップによるものだった。

「Iru、頑張ったよ。今はゆっくり休んで、治してこい」

 ツアーを通して一度も責めずに支えてくれた蓮。最後まで申し訳なくなる程優しかったが、誰にどんなねぎらいの言葉を掛けられても合わせる顔など無かった。

 これで手術しても治らなかったら、俺は。俺は、どうなる。

 もし、このまま終わったら――。

 焦燥感しょうそうかんに囚われながら『Iru』は活動休止を余儀なくされた。


         *


 三年以上前のライブの最中に、喉に病を患って歌えなくなり活動休止した。

 それだけで事足りたはずなのに、当時吐き出せなかった辛苦しんくを所々つづってしまい、アシスターは目の前でそのメールをじっくり読んでいた。

「……打ち明けにくいことを、お話ししてくださってありがとうございます」

 自分で話した手前、これくらい別に、と首を横に振ってみせるしかない。

「本当に、歌が好きだったんですね……でも、手術が。その……上手くいかなったんでしょうか」

 今度は小さく、首をまた横に振った。

「えっ……?」

 一旦息を吐き、また文字を打ち始めようとして躊躇ちゅうちょする。打とうとするだけで、トラウマが蘇ってきた。

「要さん、メールを打っている間はたまにこうして席を外している方が楽ですか? 私がずっと目の前にいたら落ち着かないですよね」

 気を遣っているのか、アシスターは音も立てずにゆっくり立ち上がり、窓際へ向かうとベージュ色のカーテンをそっと閉めた。

 優しくされるのも辛くてメールを送るしかなかった。


《手術は成功しました。だけど、一度活動再開しても元の歌声には戻らなかったんです》

 アシスターは静かに動揺している。小さな唇は、きゅっと閉じて力が入っているように見えた。

 更に補足する。術後数ヶ月して病院で喉を確認しても嚢胞が再発しているわけでもなかった、原因が分からないまま歌声が戻らなくなった、と。


《歌声が出なくなって、生きる意味が無くなりました》

 たった一文で終わってしまう程、ここに来た理由は簡潔だった。

「そんな……」と小声を漏らした後、アシスターは何も言えなくなっている。既に数え切れない程受け止めてきた同情やあわれみと似たような、予想通りの反応だった。


《もう、理由はお伝えしたので失礼します》

 これ以上話しても、もっと気まずい空気になって迷惑を掛けるだけだ。たまれなくなって帰ろうとしたところ「待ってください」と声が聞こえ、椅子を引いた音がした。

「あの……私からメールを送っても、大丈夫ですか」

 彼女の切実な表情が、声が出なくなった時に見たファンの顔と重なって、答えにきゅうする。

 いっそ憐れんでくれたままなら、後ろ髪を引かれる思いなどせずに消え去れるのに。

「独りで抱え込んでほしくなくて……送って、良いですか?」

 眉尻まゆじりを下げたまま、ただ必死に訴えるような眼差しを注がれていた。断ることも出来たはずなのにそんな表情を向けられると何故か頷いてしまう。

 自分でも何がしたいのか分からず、逃げるように部屋を出た。


        * * *


 これで、良かったのかな。

 面談を終えた渚は脱力したように椅子に座り込んだ。

 要の表情が脳裏に焼き付いている。不機嫌でも無愛想でもない、無のままの表情。

 だけど、突然涙が溢れ出してもおかしくないくらい瞳が潤んでいる時があった。

 安楽死を望んでいた時の自分も、あんなに哀しい顔をしていたのだろうか。

 提案したメールも、本当はしんどかったのかもしれない。

 もしも出来ていたことが出来なくなったとしたら――この身に置き換えようとしてみても、それは到底無理なことだと気付く。何より自分の全てだと思っていたことが出来なくなる痛みを、そんな簡単に理解されてたまるものかと、あの時の自分ならねてしまう可能性だってある。

 今まで音楽に深く興味を持ったことは無かったが、要がと言うくらいだ。

 自分の知らない力が歌にはあるのだろう。

 まだ音楽についても要についても知らないことが多過ぎて、Iruとして活動していた頃の彼を想像しきれなかった。

 勤務時間を終えてラストリゾートを出て歩く。立ち並ぶ飲食店の光に、行き交う人々の笑顔。観光地のためか江ノ島駅までのこの道は、夕月夜を越えても昼の明るい雰囲気がぽつりぽつりと残っていて、それが何だか悲しく映る。

 江ノ島駅に着くと、気付けば電車を待ちながらネットでIruを調べていた。その中に見付けたのは、桜で彩られた華やかなジャケット写真のアルバム。

 早速曲を再生すると普段はピアノの音楽しか流れてこないイヤフォンから聴き慣れない楽器の音が耳に伝い、次第に周囲の雑音はされてIruの世界へ誘われた。

 目を閉じて。

 さわやかに透き通る声はまるで炭酸水みたいで、耳に流れ込んでは音の強弱に鳥肌が立つ。歌声の裏には楽器の音色が幾つも重なり合っているのに、どれも心地良い響きだ。一つ一つの音を組み合わせた表現力の豊かさとIruの歌声、そして何よりその歌詞に聴き惚れて、瞼を開くといつも見ている現実世界が変わって見えた。電車を待つ人々の顔が幸せそうに見えたり、夕空がより一層綺麗に見えたり。世界が彩られていく。

 あっという間に一曲を聴き終えてしまった。

 余韻も冷めやらぬまま次の曲を聴いてIruのことを調べる。大学在学中にネットに投稿していた自作曲が話題を呼んだこと。DAWというソフトを用いた手法で自らによって製作された楽曲は、歌詞も歌も全て独学によるものだったこと。ネットにはIruの過去が溢れていた。

 男性には歌い難いハイトーンボイスと優れた楽曲センス、共感を呼ぶ等身大の歌詞。それらに魅了されたファンが「どんな人が歌っているのか」と調べてみても、顔は公開されていない。投稿するとほとんどの曲がすぐに百万単位の回数で再生されていたらしい。

 Iruの世界に浸っていると、目的の電車に乗り損ねてしまった。

 幾ら調べても、やはり顔は一切出てこない。ライブ中の写真はあるが、黒いファントムマスクに覆われたIruが映っているだけだった。

 そこまで隠していたのに、顔をさらしたまま名乗ってくれた。

 ――だからといって信用してもらえたと思うにはまだ早過ぎる。

 自分だけIruの顔を知ってしまったことに若干後ろめたさも感じていた。

 聴き慣れない音楽を、それもたった数曲聴いただけなのに。Iruの世界をもっと旅してみたくなった。

 そしてこの歌たちがただの音楽ではなく要の生きる意味だからだろうと思うと、眉に力が入る。

 今の私に出来ることは何だろう。

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