第42話

 愛とは何だろう。

 時に人を狂わせるそれは、俺から最愛の人を奪っていった。


 何十年と俺を縛り付けていた愛。


 それを失えば、きっと自分が自分ではいられなくなると信じていた。

 なのに、失ってみると、存外、それまでと変わらない自分がいた。それはきっと俺が独りではなかったからだろう。


 苦しい時、寂しい時、俺を支えてくれたパートナーは、16歳で無事、学園を卒業し、その2年後に俺と婚姻を結んだ。

 そして、婚姻3年目を迎えた今年、春うららかな午後、やがては俺たちの農園を継ぐことになる子供を引き取ることになった。


「こんにちは!」


 ノックの音と共に、元気のいい挨拶が聞こえた。

 朝からそわそわと、その時が来るのを待っていたパブロが勢い込んで玄関のドアを開いた。その姿が微笑ましくて、俺はついつい笑ってしまう。

 きっと、パブロはいい保護者になるだろう。


 昨夜、眠る前、彼は未来の展望を楽しそうに話して聞かせてくれた。

 勉強が出来なくても怒るようなことはしない。だけど、色んなことを知ってもらいたいから、図書室が好きな子になってもらいたい。足腰がしっかりしてきたら、自転車の乗り方を教えたい。畑の仕事を手伝うのを最初は嫌がるかもしれないけれど、収穫の喜びを知ってもらいたい。大きくなって門限を破った時の罰は何がいいか。

 気の早すぎる話ばかりだったが、俺はとても満ち足りた気持ちで、いつの間にか眠りについていた。

 きっと昨夜は、パブロも幸せな夢を見ただろう。


「久しぶりだな! うおっ、これが赤ん坊ってやつか……小さいなぁ」


 玄関先で話し込むパブロの声が聞こえる。俺は紅茶の用意をしながら、キッチンから声をかけた。


「そんなところで立ち話してないで、早く入れてやれ!」


「あ、そうだった、早く入れよ」


 パブロに押されるようにしながら、入ってきたのは腕に赤子を抱いたリオだった。

 学園卒業以来、たまに町で見かけることはあっても、リオがここに遊びに来ることはなくなっていた。仕事がとても忙しいらしいと、リオになかなか会えなくなってしまったパブロが、いつもぼやいている。

 パブロはソファにリオを座らせて、その腕の中の赤子を覗きこんだ。


「今日から君の子だよ」


 リオが慈愛に満ちた顔で赤子を見ながら、パブロに告げる。

 パブロは嬉しげに身悶えた。


「ああー、オレ、ちゃんと出来るかなー」


「僕も心配だな、パブロは結構、いい加減なところがあるから」


「何だと?」


 自分が言い出したことなのに、人に言われると癪に障るらしい。パブロはじとっとした目でリオを睨んだ。

 リオは平気な顔で続ける。2人のこんなやり取りを見るのも久しぶりだ。


「学生の頃、課題を溜め込んでいたし、お風呂から上がっても髪を自分で拭かないし、結局、卒業まで、僕がパブロの髪を拭いてやってたんじゃないか」


「懐かしいなぁ……けど、ほら、苺の世話はちゃんとやり遂げたし、今も続けてるだろ?」


「あぁ、あの苺……ちょっと酸っぱかったよね」


「次の年のは、甘く出来てた」


「虫食いが酷くて、少ししか収穫できなかったけどね」


 言い合うパブロとリオは互いの顔を睨み合う。

 この2人は相変わらずだなぁ、と紅茶を淹れたカップを運んでいると、赤子がきゃっきゃと声を立てて笑い、パブロとリオにも笑みが生まれた。

 紅茶から立ち上る林檎の甘い香りが室内を満たしていく。


「リオ、アップルティー好きだったよな」


 カップを差し出しながら訊くと、リオは笑顔を見せて頷いた。


「うん、ありがとう、ガブリエレ。いい香りだね」


 最後は赤子に語りかけるように言った。

 オレとパブロがリオの向かいに揃って座ると、リオは真面目ぶった顔をして「さてと」と話を切り出した。


「子供の引き取りの詳細や、保護者の心得なんかは、もう確認してるよね。育てているうちに、嫌になったから返す、なんてことは出来ないから、考え直すのなら今のうちに」


 リオは真剣な目をして俺とパブロを見比べる。ちらりとパブロに目をやると、デカイ図体をして、膝の上に手なんか置いて畏まっている。

 体はでかくなったけど、中身はまだまだ子供だなぁと思っていると、リオも同じことを思ったのか、ぷっと吹き出した。


「まぁ、2人なら大丈夫だと思うけどね」


 笑いながら言って、次にはまた真面目な表情に戻ると、リオは話を続けた。


「町長代理として、2人をこの子の保護者と認めます。では、アルゴーの未来のために」


 そう言って、立ち上がり、リオは抱いていた赤子をパブロに差し出す。パブロは赤子をどう抱いたものか、困惑しながらも、リオに教えてもらいながらなんとか、腕に収めた。


「おぉ! 意外と重い……」


 感動したような声で呟くと、パブロはよく見えるようにと赤子をこちらに向けてくれた。その瞬間、くらりと眩暈を覚えた。背中を悪寒が走り、汗が噴き出す。

 リオに目を向けると、忘れかけた顔がそこにはあった。


 大きな空色の瞳を細めて、口は三日月のように鋭くつり上げる笑い方。


 俺は、赤子に目を戻した。柔らかそうな肌は白く、まだ生え揃っていないふわふわの髪は銀灰色。何も知らない無垢な瞳は綺麗な蒼色をしていた。

 その赤子は、確かに俺の愛した男の面影を持っていた。


「名前は、君たちが決めるんだよ。何がいいかな?」


 リオが話すと三日月が裂け、真っ赤な舌が血のように、ちらちらと見えた。

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Argo とらとら @toratora___

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