口が裂けても

大雅 酔月

口が裂けても

「――私、綺麗?」

 女はニヤリと笑みを浮かべた。その、。美しい三日月が顔の下半分に現れる。そして、女はそう言うと、自身が両手で握っていた巨大な鋏で、自身の目の前にいるモノを切り裂いた。

「ギャアァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァッ!?」

 女の鋏に切り裂かれたそのモノ――実体のない黒いもやのようなモノ――は断末魔の悲鳴を上げた。そして、切り裂かれた黒い靄はやがて空気に溶けるように霧散していった。

「ちっ、感想聞く前に殺しちゃったわ。雑魚が」

 黒い靄のようなモノ、もっと正確に言えば、それは悪霊と呼ばれるモノだが、それをこの世から消した女は、軽く舌打ちをした。そして、自身が持っていた巨大な鋏を虚空に溶けるように消した。

「ったく、今日でもう3体目よ。本当、勘弁してほしいわ⋯⋯」

 長い黒髪を街灯の光に浴びせながら、女はどこか呆れたように言葉を漏らした。歳の頃は若い。20代くらいだろうか。女は纏っている真っ赤なコートのポケットからマスクを取り出すと、それを顔に装着した。女の裂けた口を隠すため、マスクのサイズは大きめであった。

 女は、いわゆる「口裂け女」と呼ばれる女であった。それは都市伝説の怪人。人でも幽霊でもない、人外。人ならざるモノ。かつては、日本に住む人々を恐怖の底に落とした恐れの対象だった。事実、女も自身の欲望のままに好き勝手に振る舞っていた。人間も多く傷つけてきた。

「全く、昔が懐かしいわ。あの時は、人間どもの恐怖が心地よかったし⋯⋯それが今やボランティアでの悪霊退治。⋯⋯はあー、本当どうしてこうなったのかしら」

 女はため息を吐いた。なぜ、「口裂け女」である自分が悪霊なんかを退治しているのか。当然の事ながら、そこには理由があった。

 今から数十年前。女が都市伝説の怪人として日本全国に恐怖を振り撒いていた時。とある、僧侶が女の前に現れた。4、50代くらいの剃髪の僧侶だった。その僧侶は、人々に恐怖を振り撒く女を退治するために、女の前に現れたのだった。

 男の霊的な力の前に、女はあと少しで退治、つまり存在が消されるところだった。だが、女はその男にこう言われた。今までの行いを悔い、ある事をし続ければ存在を消さないと。

 そのある事というのが、悪霊退治だった。人々を恐怖させた女が、今度は人々を守る。条件を呑まなければ消される運命にあった女は、渋々その条件を呑んだ。

 以来、数十年間、女は陰から人間を悪霊たちから守り続けているのだった。

 ちなみに、女を退治しようとしたその僧侶は既に亡くなっている。しかし、僧侶の息子が女の監視役を受け継いでいるため、女はこの役目から逃れる事は未だに出来ない。僧侶の息子も霊的な力を有しており、いつでも女を消す事が可能だからだ。

「それにしても⋯⋯の周り、悪霊出過ぎよね。初めてあの子の近くに現れた悪霊を消してから、もう2ヶ月は経つし」

 女はチラリとその目を、100メートルほど先に向けた。

「〜♪」

 すると、そこには1人の少年の後ろ姿があった。少年は学校の制服を着ており、イヤホンを両耳に装着していた。髪の色は、今の世界、つまり夜に溶けるような黒。髪の長さは普通くらい。現代の、どこにでもいる男子高校生といった感じだ。男子高校生は鼻歌を口ずさんでおり、女や悪霊の事などは全く気がついていない様子だった。

 そう。女が言った「あの子」とはあの少年の事だった。2ヶ月ほど前から、なぜかあの少年の周りに悪霊が集まり始めたのだ。その理由は分からないが、女は短絡的にあの少年は呪われているのではないか、と考えていた。

「⋯⋯本当、人の気も知らないで呑気なものだわ。私が陰ながら悪霊を消してなかったら、とっくに悪霊どもに憑き殺されてるっていうのに」

 女は呆れたようにそう言葉を漏らした。当たり前だが、あの少年は女が陰から少年を守っているという事を知らない。それは、基本的に自分たちのような存在がいるという事を知られてはならないからだ。女はその事を自分を退治しようとした僧侶に厳命されていた。

「泣いて感謝してほしいもんだわ、本当⋯⋯」

 女は少年を見失わないようにするため、歩き始めた。少年を追尾するために。少年の周りに悪霊が尋常ではなく群がるため、ここ2ヶ月ほどはずっと少年の周りに女はいた。

「ただいまー」

 十数分後。少年は自分の家である和風の2階建ての一軒家のドアを開けて中に入っていった。女は少年の家の近くにある電柱の陰から、少年の家を見つめていた。

(2ヶ月間ずっとこれ⋯⋯全く、これじゃあストーカーだわ)

 少年が家に戻れば、悪霊が家に入らないように見守り、少年が外に出れば後をつけて見守る。それがここ最近の女の行動だった。

 ちなみに、普通の人間から見れば不審者にしか見えない女、または女の行動については、まだ1度も通報されていない。その理由は、まあ一言で言えば都市伝説の怪人としての、怪異パワーのようなものが関係しているからだった。

(2ヶ月間もあの子の事を見て来たから、あの子の事について色々と知った。望むと望まざるとにかかわらず。好きな食べ物に、家族構成、どの友達と仲がいいか、どんな事が好きなのか、まあ色々と⋯⋯)

 例えば好きな食べ物は焼きそばで、家族は母親と父親との3人家族。仲がいい友達はサッカー部のタカヒロという少年。好きな事は音楽を聴いたり、動画を見たり、ゲームをしたりする事。本当なら全く知りたくもなかった事を、女は知った。

「でも、不思議な事に恋愛については分からなかったのよね⋯⋯まあ、今時の子は昔の子より恋愛に興味はない子が多いとは聞くけど⋯⋯」

 別にあの少年の恋愛について知りたいわけではない。いやまあ、女も永遠に女性だからその手の話に興味がないわけではないが。だがしかし、とにかくとしてそれだけは未だに分かっていなかった。

「勿体無いわよね。顔は普通と言えば普通だけど、オシャレすればイケてる感じにはなるだろうし。家庭的で誰に対しても優しいし、趣味も至って普通だし、かなりいい物件なんだけど⋯⋯」

 気がつけば、少年を擁護するような言葉を無意識に発していた女。女は自分が発した言葉に、自分で軽く驚いた。

「ハッ!? わ、私は何を言ってるのかしら。これじゃあ、私があの子の事をいい感じに思ってるみたいじゃない!

 女はカァと恥ずかしそうに顔を赤らめた。そして、軽く悶えた。女の言葉とその様子は、見る人が見れば、完全に恋する女性に見えただろう。

(いや、本当は分かってる⋯⋯私は認めたくないだけで、本当はあの子の事を⋯⋯)

 一瞬、女は自分の本心を認めようとした。自分が、あの少年に惹かれているという事実を。認めてしまえば、言葉に出してしまえば、いくらかは楽になるだろう。

 だがしかし、

「でも⋯⋯そんな事は言えないわよね。それこそ、口が裂けても」

 女は少しだけ悲しそうに笑いそう言うと、ジッと少年がいる家を見つめ続けた。

 その本心に――蓋をしながら。












「はあ⋯⋯やっぱり⋯⋯綺麗だな」

 一方、こちらは女が見守っている家の中。2階にある自分の部屋で、カメラから取り込んだ動画をパソコンで見ていた少年は、ウットリとしたようにそう言葉を漏らしていた。

 少年が見つめている動画には、真っ赤なコートを身に纏った女と、黒い靄のようなモノが写っていた。

 女が頬まで裂けた口で、ニィと三日月のような笑みを浮かべる。そして、女は虚空から巨大な鋏を取り出すと、その鋏で以て黒い靄のようなモノを切り裂いた。切り裂かれた靄はやがて虚空に溶けるように消え、その事を確認した女は、鋏を虚空に消し、息を整えるとコートのポケットからマスクを取り出し、それを顔に装置した。

「ああ、勿体ない。あんなに綺麗な口、隠さなくてもいいのに⋯⋯」

 動画を見ながら、少年はそんな感想を漏らした。そして、動画を止める。これ以上はつまらない光景がずっと続くだけだからだ。

「それにしても⋯⋯未だに信じられないな。あの『口裂け女』が⋯⋯俺の初恋の人が、俺の近くにいてくれるなんて。ああ、嬉しいな⋯⋯」

 少年は心の底から嬉しそうな笑みを浮かべながら、そう呟いた。

 少年の部屋を見てみると、壁には「口裂け女」の映画のポスターが貼られていたり、本棚を見てみると、そこには都市伝説、取り分け「口裂け女」についての特集雑誌や、記事のスクラップ、「口裂け女」を題材にした漫画や小説といった本がビッシリと並べられていた。それは、少年が「口裂け女」に向ける興味と情熱がどれだけのものなのかの一端を示していた。

「やっぱり、のおかげなのかな」

 少年は机の上に置いていた、古びた指輪を見つめた。元々は美しい銀色だったのだろうが、今や色はすっかり燻んでいる。いったいどれくらい古い指輪なのか、少年は知らない。その背景も。

 というのも、この指輪は今から約2ヶ月ほど前に、少年が近くの骨董屋で買った物だからだ。値段は異様なほどに安く、店主であった老齢の女性は最初この指輪を売るのを渋った。なぜならば、この指輪は曰く付きのある、いわゆる呪われたアイテムだったからだ。何でも、どういうわけかこの指輪は良くないモノ、特に悪霊を呼び寄せるらしかった。

 その事を聞いた少年は、何がなんでもこの指輪が欲しくなった。なぜならば、少年はこの指輪があれば、自分が大好きな「口裂け女」に会えると思ったからだ。

 少年が「口裂け女」の事を初めて知り、恋をしたのは今から2年ほど前。中学生の最終学年の夏の時だった。少年は夏に多いテレビの心霊番組で、「口裂け女」の事を知った。

 「口裂け女」の話を聞いた少年は、尋常ならざる興味を引かれた。その姿、話のインパクトに。そして、実際に過去に日本の人々を恐怖に陥れたというその事実に。それから少年は、「口裂け女」についての情報を集め始めた。テレビ、雑誌、動画、小説、ネットなどジャンルを問わずに。

 いつしか、少年は「口裂け女」について調べている内に、「口裂け女」に恋をしていた。それは少年にとって初恋だった。彼女の事を考えるだけで胸が高鳴る。彼女のイメージされた姿を見るだけで目が逸らせなくなる。まごう事なき、強烈な初恋だった。

 だが、冷静に考えればそれは不毛な恋だった。なぜなら、「口裂け女」が本当に実在しているはずなどないのだから。現代を生きる者ならば、誰しも多くはそう考える。少年も正直にいえばそう考えていた。

 しかし、それでも少年は諦めきれなかった。もしかしたら、もしかしたら「口裂け女」はいるかもしれない。その一心で、少年は「口裂け女」についての情報を集め続けた。

 すると、今から約3ヶ月ほど前に、少年はネットでこんな都市伝説を目にした。曰く、「口裂け女」は現在悪霊狩りをしている。ゆえに、「口裂け女」は悪霊がいる、又は集まる場所に現れる。というような都市伝説を。

 これも、普通に考えれば眉唾物だ。少年もその時はそう思っていた。

 だが、2ヶ月前、実際に悪霊を呼び寄せるという呪われた指輪を目の当たりにした少年は、その都市伝説の事を思い出し、急にその指輪が欲しくなってしまった。どうしても、どうしても。その瞬間、少年はあの都市伝説の事を信じたくなってしまったのだ。

 交渉の末、少年は老婆からこの指輪を買う事に成功した。老婆は本当にどうなっても知らないぞと少年に言った。少年はそれは重々承知だと言葉を返した。

 正直に言えば、少年の行動は迂闊で愚かとしか言いようがないだろう。もしも、指輪が本物であった場合、そして、もしもあの都市伝説が嘘であった場合、少年や少年の家族に呪いが降り掛かるからだ。悪霊が集まってくるという呪いが。もしかしたら、死に至るかもしれない呪いが。

 しかし、それでも少年は自分の恋心を止める事が出来なかった。「口裂け女」に会えるかもしれないなら、自分に死のリスクがあろうとも、そして、大切な家族をもそのリスクに巻き込んでしまっても構わない。一種の狂気に呑まれていた少年は、そう思ってしまっていたのだ。

「本当、お前を買ってよかったよ。おかげで、あの人が本当に実在しているんだって知る事が出来た。しかも、あの人の映像まで撮る事が出来たし⋯⋯俺は今、本当に幸せだ」

 ウットリとした顔で愛しそうに指輪を撫でた少年は、再びパソコンの動画を再生した。むろん、女が映っている場面にまで戻して。

 指輪を買った少年が、何か気配を感じ始めたのは1ヶ月前だった。いや、正確には気づき始めたという方が正しいか。何か普通ではないものに、人ならざるモノの視線や気配を、少年は感じた。その気配に少年は歓喜した。もしかしたら、「口裂け女」が本当に来てくれたのかもしれないと。

 それから、少年は自分が普段使う道などに、こっそりとカメラを仕掛けたりした。自分の前には決して現れない「口裂け女」を撮るために。そのため、気づかれないように隠し場所にはこだわったが。

 少年が今再生している動画は、奇跡的に3日前に撮れた動画だ。この動画を見た時、少年は人生で1番歓喜した。それは絶頂だった。本当に「口裂け女」がいた事に対する絶頂。初恋の人の姿を見る事が出来た絶頂。それからは、家にいる間はほとんどずっとこの動画を再生している。

「綺麗だ。やっぱり綺麗だなぁ⋯⋯いつか、『私、綺麗?』て聞かれたいな。俺ならマスクを外しても即答でそう言うのに⋯⋯」

 「口裂け女」の顔半分が見える場面で、動画を一時停止し、少年は熱のこもった言葉を漏らす。そして、少年はその顔を窓の外に向けた。窓の外には、ただ夜空が広がっているのみだ。

(きっと、あの人は今も俺の近くにいる。なんとなく、感じるんだ。あの人の気配を。ああ、いつか、いつか、あの人に正面から会って、俺の気持ちを伝えたいな。正直、今はまだこの溢れる思いを全て彼女に伝えられるとは思わない。それに⋯⋯やっぱり告白するのもまだ恥ずかしい。だから⋯⋯)

 少年は小さな笑みを浮かべると、

「今はまだ⋯⋯口が裂けても言えないな。こんな事⋯⋯」

 そう呟いた。

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