下
「俺も吸っていいか」
シャツのポケットから煙草を出すと女が頷いた。
「銘柄、一緒やねえ」
女のライターを使って火をつけるとふたり分の煙が室内で滞留した。
「名前も一緒やし、何か、自分がもうひとりいるみたいやわ」
「俺は病気になりたいとも病気を売ってやろうとも思わない。他人に疲れて甘えていいための理由をくれてやりたくないし、自分も理由なんかほしくないからな……」
女が煙に目を瞬かせた。
「俺の母親もあんたと同じ看護師だったよ。あんたと同じで職にあぶれた。病人を救うために昼も夜も働いてたのに、病気がなくなったらお払い箱だ。お袋も病気だったんだろうな。他人を救いたい病だよ。それがあの女の生きる理由だったんだ」
身体の病気がなくなっても精神の病気は残り続ける。今じゃ小児科より心療内科の方が遥かに多い。俺の母親は病院から病院に行った。看護師から患者に変わって。
「母親はまあ、おかしくなったな。医者は病気のせいだって言ってたよ。本人のせいじゃなく病気のせいだって。お袋自身もそう信じて、それから何もしなくなった。病名は気休めになっただろうけど、それだけだ。身体は健康なまま死んだ」
自分の家に帰るとこの女の家に来たような錯覚を覚える。当然だ。
母親が心を病んでから移り住んだのはここと同じ、建築途中で捨てられた木造マンションを使った団地だからだ。
始まる前から終わっていた場所に俺たちは住んでいる。
冷たい指先が俺の手に触れた。
女が煙草を持つ手と反対の俺の手を開かせて、手のひらのシワをなぞる。
細い銀のリングが指よりさらに冷たかった。
「感情線が乱れとります。あるいっときからずっと後悔を抱えて生きているひとの手相……なんてね」
女は眉を下げた。
「看護師やけど占い師でもあるから。そっちは偽モンやけどね。それでも効果があるひとにはあるんやけど、プラシーボって言うやろ。ただの砂糖菓子でも薬やって飲ませれば効いた気になるけど、砂糖やって教えたら何も効かへん」
女は俺の手から手を離して煙草の灰を携帯灰皿に落とした。
「病気になりたいと思えないって病気もあるか?」
俺の煙草から灰が落ちて、光沢のあるビニールのテーブルクロスに黒い点が散る。女は医療従事者らしい優しい笑みを浮かべた。
「里見さんに病気は売れへんよ。薬が効かんひとを私は治せんのや」
ここにはもう来られない。調査としてはもう充分証拠を得た。来る理由がない。偽薬の効果が尽きる頃だ。
俺は緑色の扉を閉めて女の部屋を出た。
残ったのは肩を打つ玉すだれの感触だけだ。
時刻は夕暮れだが、廊下に射す光は他のマンションの影の色を吸った藍色で、建物全体が暗い湖の底に沈んだようだった。
期限の過ぎた掲示物や錆びた画鋲が並ぶ緑のコルクボードの前を通り過ぎて、非常階段の方へ進んでいると、思い詰めたような表情の若い男とすれ違った。
病気を求めに来た人間の顔つきとは違う。
自分を突き動かす理由を既に持っている顔だ。
一瞬足を止めかけてやめた。もう関係がない話だ。
鋼鉄の扉を叩くけたたましい音が頭蓋を揺らす。
思わず振り返ると、先ほどの若い男が団地の一室のドアを叩いていた。最奥の部屋だ。俺が出てから鍵をかけていない扉は何の抵抗もなく開く。
男が跳ねあげた玉すだれが廊下の外まで振り子のように大きく揺れて、女の息で上がった前髪とその下の青痣が浮かんだ。
俺は踵を返して出たばかりの部屋へ向かっていた。
慣れた緑の扉を開け、玉すだれが頰を打つ。玄関に背を向けた若い男の肩越しに片方に痣のある女の双眸があった。
「妹に何を売ったのかって聞いてるんだよ! 今、あいつはまだ病院にいるんだよ。聞いてんのか?」
女は俺に気づいたが、男はまだ気づいていない。女が俺にだけ見えるように小さく首を横に振る。
「薬、あるんだろ? どこに隠してる」
若い男が女を跳ね除けて奥に進もうとしたとき、女が悲鳴のような声をあげた。
「うちにはあらへん言うておりますやろ!」
細い身体のどこにそんな力があるのかわからない。
女は全力で男の肩を押し返した。揉み合ううちに女のカーディガンがはだけて、死斑のような痣が大量に浮いた肌が露わになる。
俺は一歩進み出て、男の肩を掴んだ。俺は無意識に腕を振り上げている。
「何だよ、お前」
ようやく俺の存在に気がついた男が振り返って目を見開く。
俺は男を殴る代わりに、持ち上げた手を自分のシャツの襟に入れ、首から提げていたカードを取り出した。
「保健所のものです」
若い男と女が同時に息を呑んだ。
「妹さんが無許可での薬品取り扱いや危険生物又は病原体の売買に携わったようですが、詳しくお聞かせ願えますか。もし、本当でしたら病院から警察病院に移送する必要があります」
手のひらに収まる小さなカードは鎮静剤よりも効果があった。
男が去った部屋は嘘のような静寂が戻り、冷気と熱気と混じった空気だけが漂っていた。
「ほんまにあのひとの妹さん、警察病院に?」
「そんなわけないだろ。ハッタリだ。あいつが逃げてくれりゃそれでいい……」
「そのカードは本物?」
「こっちはな」
「そう……」
沈黙が戻る。先ほどの騒ぎで落ちた一条の玉すだれが蛇の死骸のようだった。
女はカーディガンを羽織り直して顔を上げた。
「旦那に会わせたるわ」
俺は女に導かれるままに廊下を進み、西日が溢れるリビングに出る。
女は固く閉ざされた寝室の扉をノックし、静かに開けた。
薔薇の芳香剤と汗と息が止まるようなエタノールとひといきれの匂いが押し寄せた。
狭い寝室の中央に白いパイプベッドがある。分厚い布団に埋もれるそれは枯れ木でできた人形を寝かせているようだった。
骨に黄斑の浮いた皮だけを張ったような細い二本の腕に無数のチューブが繋がれている。枕に広がった髪は生えているものと抜け落ちたものが半々だった。
骸骨じみた顔に涙の膜が張ったふたつの眼球があり、俺の方をわずかに見る。
「このひとはお客さん。大丈夫よ。私らのこと庇ってくれはったひとやから」
女は枕元のティッシュを取って、零れ落ちそうな涙を拭い、くずかごに捨てた。
「病気のほとんどはなくなっても全部ではないんよ。私の旦那もそうや」
俺は言葉を失った。頭の中で新たに発見され、まだ治療法が見つかっていない病名を探し、途中で思考が乱れる。
「特効薬がまだないんやって。だから、作るしかあらへんの」
病院に運ばれたという患者は何の病だったのだろう。既に根絶された病に保健所が重症になるまで治せないほど手こずるだろうか。
「お客さんがたくさん来はったらね、誰かひとりくらい抗体を持ってるひとがおらんやろかって思ったんや」
「サトミさん、あんたは……」
女は唇の端を小さく吊り上げた。
「病気は治さんとあかんやろ。私は看護師なんよ。このひとだけの」
俺は本物の病の匂いが満ちる部屋で無意識に息を止めていた。
偽薬を売り捌く女が本物の薬を求めている。
病とは人生の夜の側面だと書いてあった。夜が来ない世界があるわけがない。
俺は報告書のフォーマットに文字を打ち込む。
これからも女は病を売り続けるのだろう。
いろいろな土地の言葉や、占いから本の一節の知識とともに、自分と本物の身体の中でいくつものウィルスを混ぜ合わせる。限りない偽薬の中から本物の薬を探すように。
俺は報告書に並ぶ文字列を見直す。
––––調査の結果、対象の病原菌売買の関与は確認できなかった。
神経過敏のフォーマットが許容できる言葉だけを詰め込んだ報告書を送り、タブレットの電源を落とした。
住宅が密集する団地はいつ見ても光より影の方が多く、非常階段やベランダの手すりを縁取る黒い線が切り絵のように見える。
冷え切った廊下を進み、最奥の緑の扉を開ける。
千切れた玉すだれ一本分の隙間から女が驚いた顔を見せた。
「まだ引っ越してなかったのか」
「そんなお金あったらこないなとこ住んでへんわ」
女が目を細める。玄関に立ったまま話すのは初めてだった。
「報告せえへんかったんやね。私らのこと」
俺は曖昧に頷く。
「じゃあ、どうしたん? 調査やないんやったらもう来はったりせんと思ってたけど……」
「客で来た」
痣が薄くなった女の目が俺を捉える。労わるような憐れむような目だった。
「何がほしいん?」
「普通の薬は俺に効かないんだろ。もっと強い奴が欲しい。特効薬がまだ見つかってないくらいの」
病がほぼ根絶された時代でも全部じゃない。朝が来るように当然に夜も来る。
健康な人間はみんな目を背けたい部分がこの団地にはある。
この女は、要は白と水色だけの清潔なプールの排水溝にへばりついた絆創膏だ。
林立する都会的なビルに唯一そぐわない猥雑な垂れ幕でオープン価格を喧伝するシティホテルだ。
聞いたこともない外国の洒落た料理に紛れ込んでパスタと一緒にフォークに絡みつく一本の髪の毛だ。
夕方、父親が子どもを連れてきて将来大切になる思い出を作る砂浜に残ったクラゲの死骸みたいな使用済みのゴムだ。
たぶん、俺もそうだ。
憧病相憐 木古おうみ @kipplemaker
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