「この前すごく若い子が来はってね、まだ高校生やろか。結核になりたいんやて。よう知ってはるわ。私たちのお爺ちゃんお婆ちゃんもなったことあらへんと違う?」


 眉を下げて笑いながら、女は手にした湯気の立つカップのうちひとつを俺の前に置いた。縁に垂れるティーパックの紐の先に四角形の紙片があり、ノンカフェインのカモミールティーと英語で書かれていた。

 健康に興味がある人間の飲むものだ。笑う気にもならない。


「そういう知識はどこで仕入れてくるんだろうな」

「映画や小説やないの? サナトリウムなんて言っとったかな、その子」

「『風立ちぬ』みたいなやつか」

「そうそう」

 人里離れた静謐な白い隔離病棟で余命いくばくもない薄幸な線の細い男女が限りある逢瀬を重ねる。いかにも子どもが好みそうな悲劇だ。


「馬鹿だな……」

 俺はつい、自分の部屋で口にしたことを呟いていた。女は小さく目を丸くした。

「そうねえ、親御さんが哀しむやろうし」

 病理を売り捌く女とは思えない決まり文句に、腹の底に淀が溜まるような感覚に襲われた。


「馬鹿だろ。いかにも成長で手いっぱいではち切れそうなガキがドラマじみた病気に憧れるのはさ……」

「つまり、下卑た肉体を解体し、人格を霊化し、意識を拡げる結核による死を利用したのである」

 女の唇がプログラミングされた会話を読み上げる機械のように動いて、俺は息を呑んだ。

 俺の驚きに女は顔をくしゃくしゃにして笑う。


「そないびっくりせんでもええやない。どっかの作家だか哲学者だかが言ってたんよ。結核って何かこう、儚い感じがするやろ。元気なひとが恋愛するよりそっちのがドロドロしてなくて綺麗に見えるって、だから、昔のひとがよく題材にしたって書いてあったわ」

「専門家は詳しいな……」

 俺は誤魔化すように味の薄いハーブティーを煽った。


「標準語喋ってるの初めて聞いたよ」

 自分の言い方が馴れ馴れしく響いて嫌になったが、女は気にした様子もない。

「ああ、これね。小さい頃は関西の方にいたんやけど、親が転勤族でいろんなとこ住んでるうちにいろんな言葉が混じってしまったん。みっともないやろ」

「別に……」

 女は頬杖をついて机に身を乗り出した。


「そう言うてくれはったんは里見さんでふたり目。ひとりめは旦那や」

 千切れそうなほど細いリングが蛍光灯の光を反射した。俺はその輝きから目を逸らす。

「旦那はこういう商売してて何も言わないのか」

「別に、あのひとは何も言わへんよ」

「そんなもんか……」


 女はずり落ちたカーディガンの襟を正した。覗いた肩に煙草を押し当てたような薄い痣が見えた。


 この女の商品を卸すブローカーは俺よりもっと上の人間が調べている。俺の担当は売人である女の調査だけだ。


 その内にはわかったのは、こういう売人の多くは自分の身体で商品を作ることがあるということだ。


 まず自分に病を感染させ、体内で培養したウィルスを抽出した後、ブローカーからもらった特効薬で治す。

 金のない人間が非合法の治験で日銭を稼いでいた前時代のようだ。

 自分の心配もしない旦那のために金を稼ぐのかと聞きかけてやめた。


「何で病気になりたがる奴が出るんだろうな」

 自分はそうでないと言いたげな口ぶりだと気づいた。調査のために来ていることがバレたら終わりだ。次の日にでも女は逃げるだろう。自分の立場を見失いかけている。この女はそうさせる何かがある。


「理由がほしいのかもしらんね」

 女は両手で包んだマグカップの底を見つめた。

「病気の人間が具合が悪くて疲れてるのは普通やろ。でも、病気がなくなった今でも疲れてて具合が悪いひとはいてるから、その理由がほしいんやない?」

「結果と理由が逆か」

 何もかもが逆だ。具合が悪いから病気になりたい。病気を治すためではなくかかるために金を払う。

「里美さんはどうなん?」

 俺は答えられなかった。


 霊安室のような非常階段を抜けて団地の外に出ると、死人の肌の温度の風が首にまとわりついた。そろそろ何の病気になりたいか聞かれる頃だ。

 俺の脇をすり抜けた艶のない髪の若い女が階段を上がっていく。団地の最奥を目指していた。



 俺は報告書も書かずに女が言った結核の話を調べていた。


 スーザン・ソンタグ。

 作家兼社会運動家。癌になった経験から病理に関するエッセイを書いたらしい。


 保健所に勤める公務員になって唯一良かったことは、どこにいても調査の名目で図書館のデータベースを閲覧できることだ。

 電子書籍をめくりながら目に留まった頁で手を離す。


 ソンタグによれば病気は人生の夜の側面らしい。健康で明るい朝だけを望んでも必ず夜が来る。何十年も前に書かれた本だ。

 疫病が根絶される時代など筆者は想像していなかっただろう。

 健康が当たり前になった今は永遠に夜が来ない世界だ。その住民はみんな不眠症で、潜り込める闇を求め出す。馬鹿な話だと思う。


 俺はブラウザを閉じる。

『隠喩としての病い』、この本のタイトルだ。

 結核に儚いイメージを持ったり、社会の暗部を癌と言ったり、そういう病が持つ比喩性に捉われないことが病気と闘う手段だとあった。

 あの女の患者たちはみんな比喩の方を求めている。


 報告書に書ける訳がない。俺は仕事用のタブレットを叩く。


 新着のメッセージを開くと、簡潔な文字列が並んだ。俺の管轄の地域で感染症の患者が出たらしい。

 病状はかなり重篤だ。出どころはあの女だろう。


 調査の進捗を急かす締めの言葉なら目を逸らし、開けたままの窓の外を見下ろした。

 道端のプランターに町内会の老人と子どもが植えたパンジーの花が咲いていた。


 いつかの雨の日、水滴の重みに耐えきれなかった花弁が頭を殴られた幼児のように揺れていたのを思い出し、その光景が見たいと思った。



 邪魔な玉すだれを肩で押し返して退ける術を覚えた。

 女はリビングの奥の固く閉ざされた扉からノートを抱えて出てきたところだった。


「いらっしゃい」

 扉の方に身体を傾けて右半身を俺から隠すような立ち方をしていた。

 女は前髪を手ぐしで直して右目に被せるように寄せると、いつものようにテーブルに座った。その反動で下ろした髪が揺れる。

マスカラで尖った重たげな睫毛が縁取る瞼に青黒い拳大の痣が広がっていた。


 俺は椅子の背に手を乗せたまま立ち尽くす。女は決まり悪そうに微笑んで首を振った。

「これね、ちょっとしくじってしもうただけよ」

 何を、と問いが喉から出かけた。


 たとえば商品の扱いを間違えて重い症状が出た。

 ブローカーから偽の特効薬をつかまされた。あるいは、客にしくじったことがバレた。

 感染が発覚して保健所に運ばれた例の患者の親族かもしれない。

 その噂をどこかから聞きつけて逆上した客か。それとも、患者たちから吸い上げた金を吸い上げる旦那か。


「どれがええ?」

 いくつもの疑念を言い当てたられたようで俺は答えに詰まる。

 女が箱から取り出した注射器で、かかりたい病を問われているのだと気がついた。


「風邪くらいがええかもしらんね。最初はお試しやから一番軽いので。最近来たお客さんはね、ずっと昔に亡くなった女優さんと同じ病気になりたいんやって。わがままやわ。仕入れるのも大変なんよ」

「サトミさんは、何でこんな仕事始めたんだ」

 思わず口をついて出た言葉に女は肩を竦めた。


「自分の身体で病気を作って治してさ……手前で買いに来た客が勝手に死ぬ分にはいいけど、自分だって発症するかもしれないんだろ」

「心配してくれるいうこと? 優しいんやね」


 俺はひと呼吸置いて椅子に腰を下ろした。

 机の上のノートが半分開いたままになっていて、英数字や専門用語が走り書きされているのが見えた。


「医者か、看護師だったのか?」

 注射器を弄ぶ女の手つきはひどく慣れている。


 女が鼻から息を吐き出すと持ち上がった前髪が広がって青痣が露わになった。

「そうや、看護師。ナースさんだったんよ。病院で働けば一生食いっぱぐれないっていうから頑張って勉強したのに大嘘やったわ」


 医療が発達し、病理が排斥された結果、それに貢献した医療従事者が用無しになった。

 俺の子どもの頃の話だ。


 外科はまだしも内科医に関しては、ごくわずかな難病を治療できる者や医療技術の研究を担う者以外必要がなくなる。

 日々、国民の健康に注意が払われ、検診センターも大量に設けられたとはいえ、街の小児科や小さな診療所は日を追うごとに消えていった。


「サトミさんは病気をもう一度流行らせたくてやってるのか?」

 言いながら短絡的だとわかっていた。見透かしたように女が首を横に降る。

「そないなことしても敵わへんよ。私ひとりが何をしても何も変わらん」


 女はカーディガンの胸ポケットからビニール製の小銭入れのような携帯灰皿を取り出した。その後、見慣れた警告文が印刷された煙草の箱が現れる。

 女は部屋に自分ひとりしかいないようにライターで火をつけ、長く深く煙を吐き出した。


「ただね、病気がどんなものか知りたいって言うなら教えてあげた方がええと思っただけ。病気に憧れるのも結構。でも、本当にそうなったときにまだそう言えるかはご本人次第やわ」

 上を目指して流れる煙が天井にぶつかり、真下の俺と女に降り注ぐ。


「病気になりたいって気持ちも病気やろ。なら、治してあげへんとね。病気には薬が要る、病気になりたいひとにはウィルスが要る。それだけのことや。私は看護師やから治療に必要なものをあげるだけよ」

 偽薬だと思った。

 気休めのためのサプリメントも、占いも、病気を知らない子どもたちに与える病気も。そして、この女の看護師としての意地も。

 生きていくために必要な偽薬だ。


 病が根絶された世界は病を連想させる病院すらも消えた世界だ。

 不穏な単語の使用を許さない俺の報告書のフォーマットのような徹底した清潔だと思う。


 だが、清潔な街の外れに猥雑な団地がある。健康な身体で病を求める人間がいる。


 偽薬の需要は尽きない。

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