憧病相憐

木古おうみ

 あの女は、要は白と水色だけの清潔なプールの排水溝にへばりついた絆創膏だ。


 林立する都会的なビルに唯一そぐわない猥雑な垂れ幕でオープン価格を喧伝するシティホテルだ。


 聞いたこともない外国の洒落た料理に紛れ込んでパスタと一緒にフォークに絡みつく一本の髪の毛だ。


 夕方、父親が子どもを連れてきて将来大切になる思い出を作る砂浜に残ったクラゲの死骸みたいな使用済みのゴムだ。


 そういうものを、せいぜい利き手の分だけの薄手のビニール手袋一枚渡されて除去を命じられるのが、俺だ。



 全部潰れてしまえと思った。


 両脇に並ぶマンションは坂を下るごとに低く、間隔が密になっていく。


 俺が生まれた頃、政府が自然との共生を謳った都市開発を始め、土地やビルの持ち主は助成金目当てにこぞって木質系構造部材を使った高層分譲マンションを建て出した。

 都市計画は中途半端なところで頓挫し、申し訳ばかりの助成金じゃ完成させられなかったマンションが大量に放置されたのがそれから数年後。作りかけというより滅んだ古代文明の遺跡のような建造物に見送られながら毎日学校に通った。


 それから更に経って、自治体が建築途中のマンションを買い上げ、生活困窮者用の県営団地にした。

 大学を卒業して公務員になった俺は今、始まる前から終わっていたひとと建材の集合体に足を踏み入れている。



 壊れた常夜灯が点滅する仄暗い廊下の一番奥に、影法師のような男がいた。

 痩せて顔色が悪く、光沢のある緑の扉に額を押しつけるように背を曲げて立つ姿は大学病院で見た病人のようだと思う。

 街で病人を見ることはほとんどない。全時代の病はほぼ根絶されたことになっている。


 扉が開き、男が会釈して長方形の闇の中に消える。


 俺は仕事用のタブレットを取り出し、最奥の住人の情報を呼び出す。

 表向きは自宅で開業した占い師。

 夫の仕事中に少しだけ家計を助ける副業を営むだけの専業主婦。

 よく当たると噂で遠くからも客が来るちょっとした有名人。


 俺は溜息をつく。占いは嫌いだ。

 身体の病理が根絶される時代に、精神の病理に与える偽薬だと思う。それだけならまだいい。

 緑の扉が開き、猫背の男が部屋から吐き出される。男が俺のためにドアを押さえているのを見て、俺はタブレットをしまう。

 ここに住む女の商品は偽薬だけじゃない、病理もだ。



 玄関に垂れ下がる、ところどころ塗装の剥げた玉すだれが入室を拒むように肩にぶつかった。それに反してリビングから招く女の声は鼓膜をねぶるように柔らかい。

 動物の体内のように暗く温かく湿った廊下を抜けて、声の方へ向かった。


 窓からの光が差し込む居間は嘘のように明るい。部屋の中央に置かれた木製のテーブルに肘をついて、女がいた。


 洗ったばかりのような癖のある髪が顔を縁取るように垂れていた。陶器に似た張りのある白い肌の目尻にだけわずかにシワがよる。


「座って」

 女は片手に持ったペンで目の前の席を指した。俺は椅子を引いて前に座る。

 カーディガンが肩からずり落ちて、黒いキャミソールの紐と鎖骨の輪郭がはっきりと見えた。神秘的なところはひとつもない。


「名前と住所を書いて。住所は嫌やったらええけど、どっから来はったかわかる方がやりやすいんよ」

 俺は一瞬偽名を書くか迷ってからペンを取る。

「里見さんって言うん? 私と一緒」

 女が笑った。甘えたような声の随所に訛りがある。

「私の名前もサトミ」

 俺は何も答えない。

「里見さん、今日はどうしたん?」

 俺は正面から女を見据えて言った。

「病気のことで来た」

 女の目の細め方が齧歯類のようだった。



「初めてのひとにはね、案内できんのよ。申し訳ないけど。ほら、お医者さんでもカウンセリングとかあるやろ。あ、病院行ったことはある?」

「子どもの頃、脚の骨を折って」

「ああ、そら救急やね。カウンセリングしとったらあかんわ」


 女は俺に背を向けて雑多な棚の前に立った。一時期前に流行ったドライフラワーを混ぜて作るキャンドルや伏せた写真立ての間から十センチ四方の箱を取り出し、俺の前に置く。箱を押さえつけるように細い指を蓋にかぶせて女が座り直した。


「病気では行ったことない?」

「ある人間のが少ないだろ」

 女は仕掛けを施す手品師のように箱を手に隠したまま苦笑した。


「里見さんの年やとそうやろね。私が子どもの頃は重病人が行くだけの場所やなかったんよ。風邪なんて今のひとにはピンと来ないかもしらへんけど、ちょっとだけ頭がぼうっとしたり喉が痛くなったり、年に一度はあるのが普通やったん」

「そんなに年は変わらないだろ」

「お上手」

 社交辞令ではなかった。この女も三十にはかかっていないだろう。せいぜい俺より四、五歳上。もっと近いかもしれない。だが、数年で医学は目覚しい進歩を遂げる。

 箱にかぶせた左手の薬指に細い銀のリングがはまっていた。俺はそれを指さして言う。


「で、その中身は?」

 女は子どもにプレゼントを見せるように両手で蓋を取った。結婚指輪のケースのように中に敷き詰められたクッションの上に透明な筒状の注射器と針が入っている。

「溶連菌。喉が焼けて、身体にも火の粉みたいな発疹が出るんよ。炎を呑んだみたいな病気やろ」

 女に神秘的なところはひとつもない。病理の女王は夕食の献立のように根絶された病の話をする。

「さっきのひとはこれがほしいんやって。里見さんはどないしたい?」

 医療技術の進歩は目覚しい。正しい使い道を考えているうちに悪魔が横取りしてろくでもないことを大量に考えつくくらいには。



 家に帰ると、あの女の部屋に戻ったような錯覚が起こる。


 雑多で仄暗く、底冷えするのに湿気と熱気が絶えずこもっている。窓を開けてから、上着を椅子にかけて本と昨日飲んだコーヒーのカップが置いたままの机にタブレットを載せた。


 報告書のフォーマットに文字を打ち込む。保健法違反、無許可での危険生物又は病原体の保持、危険思想、国民への社会的不安を煽る重大な––––、画面に不適切表現使用の警告が出た。


 俺は舌打ちして、煙草に火をつける。

 ニコチン中毒の治療を打ち出した国と嗜好品の自由選択を掲げて戦った中道者たちが遺した恩恵だ。

 わずかでも不穏な要素を許さないフォーマットに向き合っていると、子どもじみているとは思っていても有害物質を肺に入れずにはいられなくなる。


 俺は煙を吐き出して、窓に映る夕空の裾を突く針のような細く白いビル街を眺めた。


 俺が生まれるずっと前、世界で大規模な疫病が流行ったらしい。

 今じゃ想像もつかない光景だ。

 一世紀以上前のパンデミックもののように未知の病原菌で次々とひとが死んでいく。息をするだけで今吸った空気に致死のウィルスが含まれているかもしれない恐怖は、社会を徹底的な清浄化に駆り立てた。


 政府が特例措置のために連携をとった医療機関はそのまま政治の中枢に加わり、感染が収まった後もあらゆる病理の排除を目指した。長い闘争の果てに、今ではごくわずかな難病と新たに発見された数種類の疫病を残して感染症は根絶された。


 引き続き調査を行うと記してから、煙草をマグカップに放り込んだ。薄く残っていたコーヒーが焦げつく音を立てる。


 俺は私用の携帯タブレットに持ち替えて、検索エンジンにかからない暗号化されたサイトを開く。

 特定の承認のみがアクセス可能な通信プロトコルをすり抜けると、二十一世紀初頭のホームページに似たあまりに簡易なページが現れた。

 薄水色の背景に過去のものになった病名が並ぶ。

「結核」「ジフテリア」「ラッサ熱」「水疱」。

 そのひとつをタップすると、画面が暗転し、細かい文字の羅列に変わった。


 病気になって初めて生きていると思った。

 見せかけの平穏ではない健康のありがたさがわかった。

 他人の痛みがわかる人間になれた。


 あの女から病を買いつけた患者たちの日記だ。

「馬鹿ども……」


 やっと疫病に怯えなくて済むようになった世界で、人間は病理を求めるようになった。戦争がなくなったら戦死者と同じ数まで自殺者が増えたという話を思い出す。


「馬鹿ばっかりだ……」

 空の煙草の箱の大半を埋め尽くす健康への悪影響を記した警告文が俺を見上げていて、隠すように手のひらで押し潰した。その仕草に女の手つきを思い出した。

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