アメスピ

ハヤシダノリカズ

アメスピ

 リュージが出て行った。消え切っていないタバコの煙がまっすぐに天井に向かって線を引いていた。「部屋の中では吸わないで」と何度も言ったのに、リュージが私のそんな願いを聞いてくれる事はついになかった。そして、リュージは最後にタバコの煙だけを残して出て行った。すぐに追いかけたならリュージの背中に手は届いただろう。でも、きっと私の言葉はリュージに届かない。リュージの背中に追いすがっても、私はもう、リュージの心に届かない。


 リュージがこの部屋に唯一残していった真っすぐな煙。私はそれをじっと見上げてた。その真っすぐな白い線は私が動く事で生まれる気流によって霧散してしまうかもしれない。それがいいのか、それが嫌なのか。私はとりとめもない事を、目に映る煙を見ては考えて、同時に、リュージとの思い出を、リュージの笑顔を、私の至らなかったところを、ぐちゃぐちゃと思い浮かべた。真っすぐに立ち上る煙をただ見上げて、じっと動かなかった。「動くってなんだろう」なんて事も思ったりした。


 ……それが一週間前のこと。


 三日前は、路地裏の一角にリュージの姿を見かけた。人ごみをかき分けてそこまで辿り着いてみると、もうそこにはリュージの姿はなくて、アスファルトの上のタバコからただ煙が立っていた。


 昨日は、場外馬券売り場の発券機で馬券を買っているリュージの後姿を見た。人波に攫われてリュージにまっすぐに近づく事は出来なかったけど、リュージがいそうな喫煙所に行ってみたら、やっぱりリュージが吸っているアメスピの吸い殻が煙を上げていた。


「未練がましいよね。私、今もリュージに追いすがろうとしているみたい。でも、いつもリュージには一歩及ばずで会えないの。彼が残したタバコの煙にしか辿り着けないの」私は目の前でパフェを食べる事に夢中な陽子に向かってそう言った。陽子は私がずっと話しているのを「うんうん」と頷きながら聞いてくれていたけれど、目線を向けている時間は圧倒的にパフェの方が長かった。話している私に目を向けた事が無かった訳じゃないけど、パフェに向ける目の真剣さの半分もなかったように思う、陽子の私への真剣度や共感みたいなものは。


「分かる。分かるよ、ヒナ。心にぽっかり穴が空いちゃったようになるからね。オトコにフラれ……、サヨナラ言われちゃうと。オンナはその穴を埋めようと思っちゃうからね。その、リュージくん?がいそうな所に出向いては、彼に会えやしないかと探してしまうってのは分かる」陽子は言葉を選びながら、そう言ってくれた。パフェを食べながら。

「でもさ、もう、一週間経つんでしょ? 大抵の女子は一週間とかしっかり凹んで、その後は晴れやかに『次行こ、次!』ってなるって言うし、逆に男の方はそろそろ未練がましく『やり直したいな』って思う頃合いが一週間とか一か月とか言うよ。だから、ヒナがそうやって傷心に浸っている期間はそろそろ終わって、そろそろ吹っ切れて、リュージくんからの『やっぱりやり直さないか』って連絡がそろそろ来るんじゃないかって事の方がアタシは心配。電話なりLINEなり来るんじゃない、そろそろ」

「リュージ、スマホ持ってないし……」陽子の励ましに、私はポツリと返した。

「え!マジで? 今時そんなヤツいる? って、ガラケー派って事?」

「ううん。ケータイを持ってない」

「彼はパソコンでメールか何かをヒナとやり取りしてたって事?」

「ううん。リュージはパソコンも持ってない」

「じゃ、家電いえでん……、彼は家の固定電話で連絡を取っていたの?」

「ううん。リュージは電話を持ってない」

「……、彼はどこに住んでいるの?」

「……。……知らない……。私、彼がどこに住んでいるのかも知らない」

 そう。私はリュージの事を何も知らない。気まぐれに私を弄んでは去っていくリュージの後ろ姿を思い浮かべる。涙が私の頬を伝っている。頭がなんだか朦朧とする。くだらなくて情けないオンナだ、私は。

「ちょ、ちょっと!ヒナ!ヒナったら!」

 リュージの事で頭が一杯になっていた私に、焦った様子で陽子が声をかけている。

「だめだよ、ヒナ。ここ、禁煙だよ!」

 陽子にそう言われて、私はハッと我に返る。唇にはタバコを咥えている。右手にはライター。テーブルにはアメリカンスピリッツの箱が置いてある。

「ヒナってタバコ吸ってたっけ? そのタバコ、アメスピって言うんだっけ。それは、リュージってオトコの影響なの?」

 陽子は訝しげに私にそう問いかける。

 私はタバコなんて吸わない。吸った事なんてない。でも、なに?このいつの間にか咥えていたタバコの当たり前感は。アメスピはリュージが吸っていたタバコ。リュージ、リュージ、……。おかしいな。あれほど愛していたはずのリュージの顔が思い出せない。タバコから立ち上る煙のイメージは鮮明に思い浮かぶのに、リュージの顔も、声も立ち居振る舞いも、何も思い出せない。


 もしかしたら、私は……。


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