GOD’s in his HEAVEN -Cowboys in Normandie-

吉村杏

God’s in his heaven

 メッサーシュミットの灰色の翼がきついカーブを描く。うしろについたおれから逃れようとして。

 だが離さない。フルスロットルで操縦桿を握り、やつと同じ方向に、体ごと機体を傾ける。頭が風防キャノピーに押しつけられる。すさまじいG。

 二百……百……距離がつまる。翼の端は照準器に捕えられている。八十……五十……やつはまだ逃げようとしている……だがもう無理だ。

 ブローニング機関銃が火を噴くと、明るいグレーの迷彩に塗られたエンジンカウルから黒煙が噴き出して、目の前のBf109はすぐに煙に包まれた。

「やった!」と叫んだのに重ねるように、タタタタ、と乾いた機銃音。おれはコックピットの中で反射的に首をひっこめた。ジュラルミンの翼にのみで削られたような無数の穴が開いた。

 ――撃たれた! 目の前の獲物に気をとられていて、後方確認を怠ったのだ。

 とっさに方向舵ラダーペダルをけっとばし、横滑りして、ケツに喰らいつく死神から逃れようとした。が、床につくまで踏み込んだペダルはスカした手応え。

 ――まずい。油圧装置をやられたか? 

 シートにおしつけられた尻と、ブーツの底がじりじりと熱くなってきた。

『サム、ケツに火がついてるぞ!』誰かが交信規則を破っておれの名前を叫んだ。

脱出ベイルアウト! 脱出ベイルアウト!』

 おれと、その誰かがマイクロフォンに向かって同時に叫ぶ。

 コックピットに煙が侵入してきた。ハーネスは死神の腕のようにがっちりおれをつかまえて、シートから放すまいとしている。

 いやな汗が全身からどっと吹き出た。必死でハーネスの金具をまさぐって体から引きはがす。

 風防キャノピーガラスを叩きつけるようにうしろへ引くと、ヘッドフォンカバーで覆われた耳にも、轟々とうなる風の音が入ってきた。頭、胴体、そして両脚をじりじりと、鉄の棺桶から抜け出しにかかる。

 ――尾翼に衝突しませんように!

 おれはそれだけを祈って飛び出した。

 

 パラシュートのコードリップコードをひっぱると、体が巨大な手につかまれたようにぐいっと持ち上げられて、落下速度が落ちた。足元には緑や茶色の畑が、パッチワークのように広がっている。

 おれの愛機、〈リバティ・ベル〉は炎に包まれ、黒い煙を吐きながら落ちていった。ほっとはしたけど、彼女のひどい姿に涙が出そうだ。

 パラシュートは畑の真ん中にふわりと着地した。さいわいなことに、地上にはドイツ軍が手ぐすねひいて待ちかまえているわけでも、畑をめちゃくちゃにされて怒り狂ったフランス人農家がすきをふり回しているわけでもなかった。 

 パラシュートをはずそうとしばらく格闘したあと、穴を掘って埋めた。

 撃墜はされたが、まだ捕虜になったわけじゃない。ツイているといえなくもない。

 昼間に動くのは危険だ。どこに人の目があるかわからない。フランス人はドイツに反感を持っているとは聞いているが、そのへんを対独協力者がうろうろしていないとも限らない。おれはどのみち英語以外はひとこともしゃべれないし。

 日が落ちるまで隠れていて、夜の間にできる限り移動しよう――ここがどこだかわからないが、とにかく、ドイツ軍のいないどこかへ。

 しかし一歩踏み出したとたん左足首に激痛が走り、おれはその場にひっくりかえった。脱出するのに夢中で気づかなかったが、足をどこかにぶつけたのだ。

 おそるおそる指先を曲げ伸ばししてみる。どうやら骨折はしていないようだ。

 よく耕された畑はフライト・ブーツを呑みこみ、舗装されていないあぜ道はでこぼこしていて歩きにくい。

 おかげで一マイルもいかないうちに、おれは汗だくになっていた。六月だというのに、照りつける太陽が頭を焦がす。乾いた草と、家畜の糞の臭いをどこかから風が運んでくる。

 身を隠せる小屋や倉庫は数マイル四方には見当たらず、あるのはすすけた家が一軒きり。近所に飛行機が落ちたというのに誰も様子を見に出てこないところからすると、無人なのだろう。

 ようやくたどりついてみると、母屋の隣の納屋は半壊し、黒く焦げた梁がむきだしになっている。

 火事か爆撃にでも遭ったのか? 住人はドイツ軍が侵攻してきたときに逃げ出したか、ひょっとしたら、殺されたのかもしれない……。

 おれは頭をふって、不気味な想像を追い払った。

 裏口の扉が少し開いていた。扉のむこうは台所だ。薄汚れた白いタイル張りのシンクがある。

 石壁の家の中はひんやりしていた。汗がひいていくのがわかる。

 流しの上にある、ひび割れた鏡をのぞきこむ。髪は逆立ち、色も形も玉蜀黍とうもろこしの穂そっくりになっている。もとは茶色の目は、曇った鏡でもわかるくらい充血していた。

 湿布を探して戸棚の埃まで払ってみたが、アスピリンのかけらすら見つからない。蛇口をひねっても水も出ない。――まったく、しけた家だ。

 突然、奥のほうで何かを引きずるような音がした。台所のむこう――おそらくリビングルーム――とは緑色のドアで仕切られている。ドアの蝶番ちょうつがいがひとつはずれているので、きちんと閉まっていない。

 おれはポケットをさぐり、お守りがわりのコルト・ガバメントを取り出した。弾丸が装填されているのを確認する。これを使うことになるような事態は想像したくなかった。

 扉の向こうにいるのが善良なフランス人、夜のあいだに撃墜されたイギリス人パイロット、迷いこんできた犬――であることを念じながら、片手でそうっとドアを開けた。

 中にいたのは、こっちに向けられたピストルの銃口だった。

 居間の小さな窓から入ってくる光が、黒い銃口に反射してきらりと光った。

 一瞬、おれに銃口を向けている相手をイギリス空軍RAFのパイロットだと思った。ブルーの制服を着ていたからだ。

 だが次の瞬間には、乗馬ズボンのシルエットが目に入った。

 ――ドイツ人だ!

 男はドイツ語でなにやらわめいた。何を叫んでいるのかさっぱりわからん。大きく開かれた口は、地獄の入り口のように暗い。負けじと英語でどなりかえす。自分でも何を口走っているのかわからない。

 乾いたはずの汗が首筋を伝って流れ落ちる。目に入ってひりひり痛むが拭えない。膝が震える。銃を握った手も小刻みに震えている。銃が暴発しないのが不思議なくらいだ。心臓が喉元までせり上がってきて、こめかみでドラムのように鼓動を打っている。

「銃をおろせ!」

 男は英語に切りかえた。

「そっちこそおろせ!」おれは手の血管が破裂するくらい銃を握りしめた。「おれに命令するな、上官でもないくせに!」

 おれたちは互いの白目まで見える距離でにらみあった。

 永遠とも思える時間がすぎた――実際には数分だったのかもしれないが。

 男の目から恐怖と、憎悪と、怒りの色が次第に消えていくのがわかった。そこに映っているおれの目からも。

「きみは下士官か」男は大きく息を吸って、落ちついた声で言った。

「大尉だ!」

「では同じ階級だ。この家にはわたしが先に入っていたのだから、こちらに従うのが筋というものだろう」

 男はおれを上から下までじろじろ眺め、鼻を鳴らした(ような気がした)。それで男がおれを下士官と思った理由がわかった。

 目の前のドイツ空軍大尉殿は一九四四年のこの時期になってもまだ、黒革の飛行ジャケットと、同じ素材の細身のブーツ、ブルーグレーの乗馬ズボンを身につけていた。うちの大隊長が口をすっぱくして言う、“ぱりっとした”とか“びしっとした”という形容詞が似合いそうな格好だ。黒髪に角張った顎のなかなかのハンサムだが、顔面は蒼白で唇まで血の気がうせている。そして、おそろしいほど蒼い

 それにひきかえおれのほうは、パラシュートで降りるときどこかにひっかけたのか、飛行ジャケットはすすで汚れ、ブーツはぼろぼろ。こんな格好で出歩いたらさいご、いくらフランスの田舎町でも即座に通報されてしまうだろう。

 男はおれに、うしろの椅子に座るように言った。

「ゆっくり座るんだ。突然動いたりしなければ、撃ちはしない」

「こっちも銃を持っているってことを忘れるなよ」とおれは言った。

 そこで、やつが片手で、しかも左手で銃を構えているのに気づいた。右腕は体のわきにだらりと下がっている。

「怪我、してるのか?」

「骨折している」医者が診断を下すような断固とした口調。

「だが、腕一本でも銃は撃てる」

 あながちはったりとも思えなかった。左手でも構えかたは堂に入っているし、それでなくともおれは、ピストルなど基礎教練からこっち一度も撃っていないのだ。逃げ出そうにもこの足では走れない。

 おれは銃を持ったまま、あとずさりして椅子に腰をおろした。男もすぐそばの肱掛椅子に座った。あいかわらず銃口はおれに向けたままだ。

「手当てが必要なんじゃないのか?」

 おれは腰を浮かしかけたが、

「いいから座っていろ」

 冷たくあしらわれた。

「……困ったなァ、だけどあんたを医者に連れてくわけにはいかないんだよ。あんたは病院のベッドだが、おれのほうは収容所行きになるだろ……」

「心配してもらう必要はない。上空から見たが、この一帯の集落間の距離は五キロはあるし、鉄道の駅もないからな。アメリカ人が単独で行動できる場所ではない」

 五キロというのは一マイルより長いのか短いのか聞こうと思ったがやめた。

「あんたはどうするつもりなんだ」

「簡単なことだ。きみを連行し、最初に出会ったフランス人に、しかるべき処置を求める」

「最初に出会うフランス人がマキ〔*〕の可能性もあるぜ」

 やつは黙りこんだ。ドイツ軍に対するマキの徹底ぶりは知れ渡っているらしい。

「こっちとしても、おれが出て行くまで、あんたに出て行かれちゃ困るんだ」

「きみは爆撃機のパイロットか、それとも戦闘機のパイロットか?」

「あんたと同じだ」

「ムスタングか、撃墜された?」

「そうだ。あんたの機が黄色い鼻の109ワン・オー・ナインなら、撃ったのはおれだ」

「きみを撃墜したのはわたしの僚機だ」

 やつは得意げに鼻をひくつかせた。

「落ちていくとき見えたからな。撃たれたのは事実だが、わたしの機はもとからエンジンの調子がおかしかったのだ……」

「だから撃墜されたうちに入らないっていうのか? そいつは卑怯だ」

「もうすぐ彼が憲兵隊を連れて戻ってくるはずだ」

 やつはおれのせりふを無視した。

「憲兵なんかの世話にはならない」

「強情だな。きみの戦いは終わったのだから、おとなしく投降したらどうだ」

「捕虜収容所でのんびり座って戦争が終わるのを待つなんてのはごめんだ。あんたはしばらく操縦桿を握れないだろうが、こっちは五体満足で戦えるんだ」

「ここできみと遭遇した以上、わたしにはきみを捕え、当局に報告する義務がある。戦争捕虜はジュネーヴ条約にのっとって扱われる」

 この石頭のドイツ人め。おれは首をふった。

「収容所暮らしがホテル・リッツカールトン並みなら、喜んで投降するさ」

 議論は平行線をたどった。やつは片腕になりながらも、銃をつきつけて、おれの首に縄をつけてひっぱっていくつもりのようだった。そしておれは、足さえまともなら、こいつをぶん殴ってとんずらすることもできた。ふたりとも銃を持っているのが、この問題をややこしくしている原因だった――ここに至っては、使うつもりなんかさらさらないのに。

 おれはいささかうんざりして、賭けに出た。

「じゃあ、こういうのはどうだ? いち、に、さん、でふたり同時にうしろを向いて、おれは裏口から、あんたは表から出て行く。ふりかえらずにな」

 この提案に、やつは考えているようだった。

「まるで『惨劇の砂漠』だな」とやつは言った。「きみらアメリカ人というのは、人生まで、映画のように考えているのか」

 ドイツ人が西部劇ハリウッド映画を知っているとは驚きだ。

 やつはちょっと首をかしげ、手に持った銃はおもちゃだよとでも言わんばかりに、二、三度振った。

「……わたしがうしろからきみを撃つとは考えないのか」

「それはこっちのせりふだ。いいカウボーイは、たとえ敵でも、うしろから撃ったりはしない」

「現代の騎士道か」

 やつは一瞬目を伏せた。その口調からは、馬鹿にしているのか賛同しているのか判断しかねた。

 無理もない。騎士道はすでに死語になっていたから。

 そりゃあ、そうだろう? ドイツの女子供の上に何万ポンドもの爆弾を落として街を火の海にしていれば、恨まれて当然というものだ。もちろん、ドイツが爆弾を落とされるにも、イギリスに同じことをやったから、というのはあるが。

「あ、そうだ。名前を教えてもらえないか」

「なんのために」

「撃墜した証拠に、コックピットの下に書くんだよ」

 やつはこれ以上ないというくらい、鼻のつけ根にしわをよせた。

「ひとに名前を尋ねるのなら、そちらも名乗るのが礼儀というものだ」

「サミュエル・グリーンだ」

 おれは本名を名乗った。もし無事に基地にたどりつけたら、やっこさんにだって尾翼にちっちゃな星条旗スターズ・アンド・ストライプスを描き込む権利はあるだろう。

「あんたは?」

「ヨハン。ヨハン・フォン・ベーレンドルフ」

 おれたちは目でうなずき、ふたり同時に銃をおろした。いち、に、さん、でうしろを向く。おれは台所を、ヨハンは玄関を向いていることになる。

頑張れよブレイク・ア・レッグ、ヨハン」

えっヴァス?」ヨハンは訊きかえした。

「足を折れ? なんののろいだ」

幸運を祈るグッド・ラック、だよ。舞台ではそう言うんだ」

「まったく――おかしな言いかただな」

 押し殺した笑い声が聞こえた。おれは約束を破り、首をねじってうしろを見た。

 ヨハンも顔だけこちらに向けて、声を出して笑った。笑うと、おれと同じ――二十五歳くらいに見えた。

 おれは入ってきたのと同じ、裏口のドアを開けて外に出た。

 薄暗がりに慣れた目に太陽がまぶしい。

 反対側で、玄関の扉の開く音がかすかに聞こえた。

 五百ヤードくらい離れた丘まで歩いていってふりかえったが、ヨハンの姿は見えなかった。

 あらためて、五キロと一マイルはどっちが短いのか聞いておけばよかったと思った。まあ、鼻で笑われて終わりだっただろうが。

 耳をすませてみても、聞こえるのはヒバリのさえずりだけだ。車の音も飛行機のエンジン音も聞こえてこない。戦争をやっているのが嘘のようだ。

 まるでロバート・ブラウニングの詩みたいだ、とおれは思った。

 時期はもう夏といってよかったし、腹の減り具合からいって昼はまわってる。

 露なんかとっくに蒸発しているが、ヒバリは空に舞い、イバラの枝を這うカタツムリ――は見えないがたぶんいるんだろう。

 空には神いまして、世はすべてこともなし!

 どこかで牛が鳴いている。

 おれは運を天にまかせ、埃っぽいあぜ道を、足をひきずりながらゆっくりと歩いていった。


 END.


*maquis:過激な対独レジスタンス

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