第五章 その②
「そろそろ余裕がなくなって来たのではないか? 俺に斬り捨てられる前に、ナイフをあの小娘に向けたらどうだ?」
雑に斧を振り上げて男は言う。
「お前がクインガーデナーの最後の生き残りを殺したとなれば、あの女はどんな顔をするだろうなぁ。活かして交渉材料にするより、そっちのほうが面白い」
勝ちを確信したのか、男は耳障りな声で笑った。声がわんわんと響いて、ジャックは目眩までしてきた。
だが、倒れるわけにはいかなかった。
ジャックがここで倒されれば、あとはロランヌとピーがやられるだけだ。ロランヌは動けないし、ピーはこいつとやりあうには能力的に分が悪い。
だから、ジャックがこいつを倒すしかないのだ。
ほんの一瞬でも、相手の動きを止めることができれば――大きく距離を取り、懐を探った。
暗器の数は残りわずか。これをすべて投げきっても動きを止めることができなければ、あとはバローから託された一対のナイフしか武器はなくなる。
「ここは森じゃねぇんだよ、木こりのおっさん」
煽られてばかりはいられないと、ジャックも悪態をつく。
本当は、頭も痛くて目が回りそうだ。斧が掠った部分が、まるでそこに心臓があるかのように熱を持って脈打っている。
それでも、気持ちの上で負けるわけにはいかないと、男が嫌がりそうな言葉を口にした。
「……木こりだと? 俺は王になる男だ! あんな女が国を治めているのが間違いなんだ!」
予想通り、男は〝木こり〟という言葉に反応した。
世界を憎むランバージャックのことだ。木こりと呼ばれるのはやはり嫌なことらしい。
「あんたは王になれない!」
「ぐっ……」
隙が生まれた。そこを見逃さず、ジャックは男の脇腹に斬りつけた。
これは好機だ。少しでも相手に傷を負わせて勢いを削ぎたい。
その欲が、ジャックの目を曇らせた。
「……俺は木こりではない!」
斬りつけてすぐ離れていればよかったのに。ジャックは、男に手首を掴まれてしまった。そしてそのまま、地面に引き倒される。
「うわっ」
「この力こそ王たる証だ!」
斧が素早く振り下ろされる。この距離で喰らえば命はないと、咄嗟のことでも理解できた。
だが、身をよじって避けるのがせいぜいで、斧は背中を掠めた。男が追撃の構えを取るのがわかったが、痛みにうまく体が動かない。
そのとき、ずっと聞きたかった声が聞こえた。
「ジャック」
声のしたほうを見ると、ロランヌが弱々しく起き上がっている。すぐそばにはピーの姿がある。どうやら彼が何らかの処置をしてくれたようだ。
「目を閉じて、世界を見て!」
「――死ね、ガキ」
かすれたロランヌの声と、男の低い声は同時に耳に届いた。
振り下ろされた斧を避けるのはもう無理そうだ。
ジャックはロランヌの声に従って目を閉じた。その瞬間、すべてを理解した。
目を閉じて見えてきたのは、薄暗い荒れ果てた庭だ。
今にも雨が降り出しそうな曇天。吹き荒れる風。乾いた土を、枯れた草が覆っていた。
ここは冥界の庭だ。こんなに荒れ果てた庭を見たのは初めてだし、すぐに庭の主たる植物が見当たらないのも初めてだ。
だがここでジャックは、目の前の男の冥界の花樹を見つけなければならない。
ロランヌが目を閉じろと言ったのは、冥界の庭を見ろと言うことだったのだ。ここでなら、ジャックが勝てるからと。
あの男はランバージャックを名乗りながら、実物の斧なんてものを振るっている。冥界の庭を見ることができ花樹に触れられるなら、それを害しさえすれば相手を死に至らしめることができるのに。
しかし、サジュマン家の人々は刃物によって殺害されていた。そのことは、ずっとジャックにとって疑問だったのだ。
「こんなになるまで荒れ果てさせて……何がしたかったんだよ」
ジャックは、枯れた草をかき分けた。草だけでなく、古い建物の外壁に這うような蔦まで生えている。それらをブチブチと引きちぎりながら、庭の深部へ手を伸ばす。
「……あった」
様々なものに覆われた、その奥。そこに一本の木があった。
鋭い棘に覆われた硬い木。真っ黒な花を咲かせた、薔薇の木。それを切り倒せば、ジャックの勝ちだ。
『ジャック!』
悲鳴のようなロランヌの声が聞こえた。
片目を開け、半分だけ現実に意識を戻すと、斧が眼前まで迫っていた。
冥界の庭と現実世界は時間の流れが異なるとはいえ、もうそんなに時間は残されていないらしい。
というよりも、もう間に合わないかもしれない。
それでもジャックは、両手に鋏を出現させた。
『ぐわっ……!』
胸に痛みが走り、自分の口から情けない声が漏れるのが聞こえた。だが、鋏は幹に届いた。
刺し違えてでも、こいつは仕留める――決意のもと、ジャックは鋏に力を込める。
両手をがむしゃらに動かして、葉を、蕾を、細い枝を落としていく。
切り倒すことが難しいなら、少しずつ弱らせていくのだ。それに、二度三度と繰り返し切れ目を入れていくうちに、幹そのものが弱っていくのを感じていた。
「……お前だけは、絶対に」
鋏を捨て、ジャックはボロボロになった幹を掴む。
「この世界から」
鋭い棘が手のひらを刺す。痛みに呼吸が荒くなるが、それが現実の痛みなのかどうかもわからない。
「消し去る――!」
渾身の力を込めると、幹はミシミシと音を立てて折れ始めた。
『……な、なにを……?』
片目を開けると、男が苦悶の表情を浮かべて仰け反っているのが見えた。
「ぐぇっ……!」
手のひらの痛みに耐えてさらに力を込めると、男が力なく斧を取り落とした。
その直後、ジャックの体は何かに引っ張られて後方へ勢いよく引きずられた。
「ジャック!」
引きずられていった先にはロランヌがいて、涙で濡れた目でジャックを見つめていた。その隣にいるピーの手に握られた種から蔓が伸びていて、それでジャックの体を引っ張ってくれたらしい。
「……ロール、様」
「しゃべってはだめ!」
声を出そうとすると、か細い息ばかりが口から漏れた。完全に意識を現実に引き戻すと、胸にものすごい熱さを感じる。
そこに手をやってみると、ぬるりとした嫌な感触がして、自分が怪我をしていることを自覚した。
「……そっか、俺……」
切りつけられたことを理解した途端、熱を痛みだと理解した。すると、急に血の気が引いた。
「だめ! 死なないわ! わたくしが助けるもの!」
ロランヌが必死に言ってから、虚空を見ている。ジャックの冥界の庭を見てくれているらしい。
途切れそうな意識の中、たおやかな手に体の奥を触れられた気がした。
「花さえ咲けば、冥界の花が持ち主の命を生かすことを決めたなら、絶対に助かるの! 咲いて! ――咲きなさい!」
ロランヌの声に応じるように、胸の奥、体の深部から暖かな気配がした。それと同時に、冷たくなって感覚が消えていた指や足先にまで熱が戻るのを感じた。
痛みはなくならない。だが、耐えられないほどではなくなった。
「……ロールお嬢様」
「ああ……ジャック。よかった。目に光が戻ったわ」
かすんでいた目も、先ほどよりよく見えるようになった。ロランヌが涙でぐしゃぐしゃの顔で覗き込んでいるのがわかる。
「あの男……黒い薔薇が咲いていました」
すぐに伝えなければと、ジャックはあの男の冥界の庭で見たことを口にする。それは重要な意味を持つから、ロランヌの顔はサッと曇った。
だが、彼女はその曇りを振り切るように笑顔を作ってジャックを見つめた。
「そんなことより、あなたの花が咲いたのよ。青い薔薇」
「……なんですか、それ」
ようやく得体の知れない自分の得体の知れない冥界の花の謎が解けたのかと思ったのに、咲いてもやはり意味がわからないものだった。
紫がかった花弁は見たことがあるが、青い薔薇なんてものは存在しない。
それに、王族でもない人間の冥界の庭に薔薇が咲くことなどありえないのだ。あってはならないと言うべきなのか。
「お嬢様は、もう大丈夫なんですか?」
花が咲いたおかげか、死を覚悟するような状況からは脱することができた。だから、ロランヌを気遣う余裕も出てきた。
「万全ではないけれど、大丈夫よ。ピーが解毒薬を作ってくれたから」
そう言って微笑むロランヌを見て、ジャックは自分の胸が幸福で締め付けられるのがわかった。この人が生きているというだけで、こんなにも嬉しくなるのだ。
これは間違いなく、愛しいという気持ちだ。あの男が言うような、殺したいという欲求を恋慕と勘違いしたものなんかではない。
「僕の心配もしてくれてもいいのに。まあ、無事なんだけど」
ロランヌの横で、ピーが拗ねたみたいな声を出した。ペストマスクの下で一体どんな顔をしているのだろうと思ったが、腕が上がらずマスクを奪うことができなかった。
「あの男、ランバージャックって言いながら、ほとんど能力はなかったんだな」
倒れて動かなくなっている男を一瞥して、ジャックは言った。
文字通り死闘を繰り広げたわけだが、実感がない。あの男が、ずっと追っていた人物だったなんて。十二年前ロランヌからすべてを奪った、憎むべき人物だったなんて。
「長く生きる間に、力が失われたんじゃないのかな。この男の話を信じるんなら、百年前から生きてるんだろ? それって普通じゃないよ。だからきっと、その過程で能力をなくしていってのかも」
ピーも男を観察するように見つめてから、静かに分析した。
百年以上の恨みつらみが、この男を突き動かしていたということなのだろうか。それならこの男は、亡霊と変わりないということだ。
「この人の庭はおそらく、延命のために他の人から奪った植物を植えていたのだと思うわ」
「だからあんなに荒れ果てて、いろんなものが生えてたのか。でも……そんなことができるんですね」
「わたくしもそんな方法は知らないけれど、実際にあるのでしょう」
考え込むように言ってから、ロランヌは空を見上げた。
空の端が白んできて、間もなく夜が終わるのがわかる。ずいぶん長いこと戦っていたらしい。あっという間だったような長い時間だったような、不思議な感覚だ。
「黒い薔薇か。この男、実際のところキングを名乗るだけの根拠はあったのかもしれないな」
ふと気がついたようにピーが言った言葉に、ロランヌの顔色が変わった。
「……滅多なことは言うものではないわ」
「そうですね。建国にまつわる裏の黒い歴史や王家に連なるかもしれない血筋の話なんて知ってしまったとあれば、僕らは今後生きていかれるのかわからないですからね」
たしなめるロランヌに、ピーは飄々と言ってのける。
この国の裏側や自分たちについてのことはジャックも考えないわけではないため、ピーの気持ちもわかる。
「……大変な秘密に触れてしまいましたね。俺たち、今後女王に狙われるのでしょうか。ひとまず、逃げたいですね」
そう言いつつも、立ち上がる力もどこかへ逃げる気力も残っていなかった。ピーも一晩で散々能力を使って疲れ果てているし、ロランヌも本調子ではない。
早く屋敷に帰ってバローに無事を知らせたいし、逃げるにしてもそれならなのだが、どうにもそれは無理そうだった。
「きっと逃げなくて平気だし、逃げられないわ。ほら」
そう言ってロランヌが指差す空には、きらめく何かがあった。夜と朝が混じり合う不思議な色の空に、白く輝くものが浮かんでいる。それは少しずつ近づいてきて、徐々に形が見えてきた。
「……飛空城のおでましだ」
近づいてくるそれが何なのかわかったときには、もう逃げられない距離になっていた。
「よかった。陛下はきっと助けに来てくださると信じていたわ」
これから起こることに不安しかないジャックとは違い、ロランヌは救いが来たと信じて疑わない様子だ。
「俺たちに用があるのはきっと間違いありませんが、それが救いかどうかはわかりませんよ」
どうにか逃げられるようにしなければと、ジャックは体を起こそうとした。だが、血が大量に流れ出たため末端にまで力が行き届かず手足の制御が利かないし、ロランヌに優しく阻まれてしまった。
「手当てが必要な人が、何を言っているの。陛下に仇なす賊と戦って負傷しましたと言えば、手厚く保護してくださるに決まっているわ。ピーもついてきてちょうだい。陛下にお目通りできる機会よ」
コソコソと距離を取ろうとしていたピーを目ざとく見つけて、ロランヌは釘を刺した。ピーもロランヌには逆らえないのか逆らう気がないのか、渋々戻ってきてジャックの手を握った。
こうしてジャックとピーはロランヌによって逃げられなくされてしまい、女王の到着を待つしかなくなった。
朝の太陽に照らされた美しい船体はゆっくりと時計塔の屋上に降りてきた。そして、梯子がかけられ、そこを伝って何人もの人が降り立った。
飛空城の警備兵と思われる人々に囲まれて、女王は式典の際に見かけたときと変わらぬ優美な姿でジャックたちに近づいてきていた。ジャックもピーも身構えているが、ロランヌはひどく嬉しそうにしている。これでもう安心だと言わんばかりの様子だ。
「陛下!」
声が届く距離まで女王が近づいてくると、ロランヌは我慢できなくってそばへ寄ろうとした。だが、毒の影響が抜けきれていないのか、よろめいてうまく前に進むことができない。助け起こしてやりたかったがジャックはもう指一本動かせず、代わりにピーがロランヌを支えた。
「ロザリーヌ、この度は大変な災難に見舞われましたね」
「そうなのです。そこに倒れている男がわたくしを攫い、助けに来たわたくしの従者と友人が怪我を負いました。男は、陛下に対して良からぬ企みを持っていて……」
「すべてわかっていてよ。ここへ我々が来たのも、この男を捕まえるためです。この男からの声明が届いておりましたから」
「ご多忙の御身であられるのに、わたくしなどのためにこうして来ていただけるなんて……」
「あなたを害すると脅されれば、無視はできませんもの」
「ああ、陛下……」
ロランヌは本当に感激しているのだろう。女王を前にして、静かに涙をこぼし始めた。
その姿は、年相応の少女のものだ。日頃はどんなに愛らしく見えても、サジュマン家の当主として気を張っていたのだろう。この顔を引き出すことができなかった自分はまだまだだと、ジャックは従者としての自分の不甲斐なさを思い知る。
「陛下、その男はサジュマン家のことだけでなく、救貧院を運営して貧しい人を集め、彼らに植物を寄生させて、危険な薬物の材料にしていて、それから……」
事件がひとまず収束したと安心できたからか、ジャックは自分の意識が遠のいていくのを感じていた。だから気絶する前に報告をと思ったのだが、だんだんとうまく言葉が出てこなくなってきた。
「ジャックと言いましたね。今はゆっくりなさい。報告は、また後ほど」
女王は目を細めて柔らかな表情でジャックを見つめると、まるで子供をあやすみたいにそう言った。子供扱いされて心外だという気持ちと、ロランヌの従者としてしっかりしなければという思いが入り混じり悔しくなった。だが、歯を食いしばろうにも力が入らず、ジャックの意識は虚しく落ちていった。
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