第二章 その①
あたたかな陽射しが降り注ぐ春の庭で、ジャックは少し離れたところからロランヌを見つめていた。
間もなく花盛りを迎える薔薇の手入れをするその様子は、さながら銀の妖精のようだ。ロランヌがそこにいるだけで、世界の現実味が薄れる。
だが、ジャックは自分の主人の美しさに見惚れているわけではなかった。
「ロール様、そろそろ休憩なさってはいかがでしょうか?」
「いいわ。そのうちに昼食でしょう。それまでに終わらせてしまいたいの」
ジャックの何度めかの呼びかけに、ロランヌは振り返りもせずに答える。集中しているというよりも必死になっているように見える姿に、ジャックは不安になった。朝食も碌に食べることなく庭に立ち続けているのは、やはり尋常ではない。
「気になる部分はどこですか? 教えてください。俺がやっておきますから」
倒れてしまう前にやめさせたくて、ジャックはロランヌの手ごと花鋏を握った。抵抗はしないものの、ロランヌは花鋏を離そうとしない。困った顔をしてジャックを見上げるだけだ。
「これはただの薔薇ではないのよ。陛下の生誕祭に献上するものなのだから、わたくしにしか世話できないの。サジュマン家唯一の生き残りである、わたくしにしか」
風が吹けば飛んでいってしまいそうなほど儚く見えるのに、ロランヌは頑固だ。特にこの件に関しては自分の諫言が聞き入れられることがないと、ジャックもよくわかっている。
他に誰か――ロランヌの父や母、もしくは親戚の誰かがいれば、こんなことにはなっていなかったのだろうが。それこそ、ロランヌがこの家の唯一の生き残りでなかったら。
サジュマン家は、古くからクインガーデナーを輩出してきた家だった。ガーデナーが生まれる血筋であったし、婚姻を結ぶのもそういった家とだった。そうして血を濃くし、繋がりを強め、貴族でありクインガーデナーの名門家としての地位を築いてきたのだ。
サジュマン家はクインガーデナーを輩出する家としての他にも、もうひとつ重要な役目を持っている。それが、女王に献上する薔薇の世話だ。
薔薇をこよなく愛する女王に特別な薔薇を献上するのがいつの頃からの習わしで、冥界の花樹の手入れだけでなく通常の植物の手入れの能力も見込まれて、サジュマン家はこの任を負ってきたのだそうだ。そうして栄華を極めてきた。
だがそれも、十二年前までのことだ。
十二年前、サジュマン家の人間は全員殺された。ロランヌの父も母も、女王の生誕を祝うために集まっていた親戚たちも、いずれロランヌと結婚するはずだった従兄弟たちも、日頃尽くしてくれた乳母やメイドなどの使用人たちも、みんなみんな。
十二年前のその日、女王の生誕祭を翌日に控えていたため、サジュマン家の屋敷にクインガーデナーとその家族たちが集まっていた。名目は、女王に献上する薔薇を選定するために。実際には、親戚一同が集まって親睦を深めるのが目的だった。
自分たちが稀有な能力を持ち、それを女王に認められて国の発展に一役買っているのだという自負がサジュマン家の者たちにはあった。その誇りを再確認し、栄誉を与えられ続けてきたことを喜び合うために集まっていたその会で、惨劇は起きたのだ。
晩餐を終え、談話室やサロンで各々寛いでいる最中、突然何者かが侵入してきたのだという。侵入してきた賊はまず屋敷中の照明を落として回り、そのことに驚き混乱している者たちを次々と殺害していった。
屋敷の中はすぐさま悲鳴と断末魔の飛び交う地獄のような様相を呈し、あっという間に血の海と化したそうだ。賊は数人いて、それぞれ手に大きな得物を持っていたという。
執事長のバローは、襲撃当時近くにいたロランヌを庇い、すぐに逃げたらしい。階下に逃げ、侵入者と屋敷の使用人である自分とでは地の利が違うことに賭けて洗濯室にロランヌを隠した。その後、玄関まで行き、壁にかけられていた剣をひと口抜いて戻ったが、そのときにはすべて終わってしまったあとで、賊は逃走していたそうだ。
せめて賊の背中に一発食らわせられればと追ったらしいが、それは叶わなかった。外に出れば月明かりで後ろ姿だけでも見られないだろうか――そう考え庭に出たものの、バローは何も見つけられなかった。怪我をして倒れていた、ボロボロの少年のほかには。
バローはその少年は賊が置いていった一味かと考えたが、それにしてはあまりにボロボロだった。痩せ細り、薄汚れ、そして治りかけのものも生々しいものも合わせて信じられないほどの傷を負っていたらしい。
それに、まともに言語を話すことすらできない上に、記憶がなかったのだ。
この子供を手もとに置いておけば、いずれ連中が取り返しに来るかもしれない――最初のうちはそう考えて、バローは少年を保護して生き残ったロランヌと共に養育することにしたのだという。
それはあくまで建前で、主人夫婦や同僚を失い、たったひとりでロランヌを支えて生きねばならなくなった彼にとって、張り合いのようなものになったそうだ。
その薄汚れた張り合いに、バローはジャックと名づけた。
十二年前、ロランヌは惨劇によって家族を失い、ジャックは何者かに捨てられバローに拾われたのだ。
「この薔薇が特別なものであることは、わかっています。ロール様がサジュマン家の人間として世話しなければならないことも。でも、俺はロール様の従者なので、手伝いくらいできるようにならなくてはと思うんです。……鋏も、だいぶうまく扱えるようになってきましたし」
ロランヌに少しでも関心を向けて欲しくて、ジャックは両手に鋏を〝出現〟させた。それは、常人には見ることができないもの。つまり、ジャックの能力だ。
「本物のお花を相手にその鋏を出してどうするの。……でも、上手に扱えるようになったわね。ガーデナーの仕事で、鋏を使う場面はあまりないように思うけど」
「それは、そうですね……」
自分より年下のはずのロランヌに大人のような表情でたしなめられ、ジャックはしゅんとなった。ロランヌの手を止めさせることには成功したが、こんな微妙な空気にしたかったわけではない。
この能力については、練習はしているものの、何に使えばいいのかわかっていなかった。これが、〝何〟の能力なのかも。ロランヌは、少なくともガーデナーに鋏の保有者は見かけたことがないと言っていた。
「……もう大体終わったから、屋敷に戻りましょうか。昼からはマダム・ブランシュのお店に行くから、ドレスの支度をお願いね」
「かしこまりました」
しょげてしまったジャックを気遣ったのか、ロランヌはようやく屋敷に戻ることを了承してくれた。本当は主人に気を使わせるなんて言語道断なのだが、この時期になるとジャックも調子が悪くなるのだ。
だから、こんなふうにどことなくぎこちない会話しかできなくなってしまうこともある。
「今日が雨でなくてよかったわ」
昼食後、支度を整えて二番街に向かったふたりは、目的の店の近くで馬車を降りた。お気に入りのデイドレスに身を包んだロランヌは、踵の高い靴で機嫌よく歩いている。
薄紫色の裾の広がり少なめのドレスは上品で、その淑女然とした意匠はジャックも気に入るものだ。だがやはり、踵の高い靴はいただけないと思う。
「晴れていて道が乾いているといっても、凸凹してますから気をつけてください」
「もう! 子供ではないのよ? レディの隣を歩いて転ぶ心配ばかりしているなんて、ちょっと失礼だわ」
「では、お気に入りのドレスで転んでも、泣かないでくださいね」
「……そこは、『転ばないようにエスコートしますね』って言えるようになってよ」
今では主人と従者という関係になっているが、十二年前から付き合いのあるふたりは幼馴染のようなものだ。
仲のいいふたりは軽口を叩き合って、マダム・ブランシュの店へ入っていった。
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