第一章 その③
それから屋敷に帰り着いたのは、間もなく日が暮れるという頃だった。
ロランヌを部屋まで送り届けると、ジャックは再びこっそり屋敷を抜け出した。夕食までに戻れば問題ないのだが、向かう先の場所柄、どうしてもコソコソしてしまう。
屋敷を離れ、住宅地に入ったところで、ジャックは物陰でさっと着替えた。黒を基調とした品のあるお仕着せから、東方風の灰色のシャツとズボン姿になる。それにメガネをかけてしまえば、蒸気船で貿易に来た東方人に見える。この国の人々は近くの国のことは嫌いでも、大陸東のとある国とは友好関係にある。といっても、ころころ国の名が変わるため、それを覚えることなく〝東方の国〟とずっと呼び続けているが。
東方人風の姿になったジャックは、とてもサジュマン家の使用人には見えない。それをいいことにどんどん裏通りへ入っていき、ゴミゴミした、あきらかに治安のよくない場所へ出た。
どこの世界にも、光と闇は存在する。ガス灯がいたるところに設置され夜の闇を照らすようになっても、産業が発展し多くの人々の生活が豊かになっても、そこからあぶれた暗がりというものはあり、貧しい人も存在する。
その暗がりと貧しさが吹き溜まった場所にも町はでき、東方人はそこでこの貧しい人々と共に生きている。好んで住み着いたのか、そういう場所にしか居場所がなかったのかわからないが、居着いた東方人たちは伸び伸びとそこで暮らしている。都市部の華やかで洗練された文化とは異なるものの、ゴミゴミとした中で独自の文化が花開いているのだ。
というわけで、この東方人風の変装さえしてしまえば、ジャックは誰にも怪しまれずに出歩くことができる。
この一帯は夕方になるのちょっとした食べ物の露店が立ち並び、それらの店がそれぞれ吊るしているランタンの灯りが辺りをオレンジ色に照らし出す。その少し幻想的で怪しげな道をジャックは静かに進んでいき、ひとつの店の前で止まった。
「花を買いに来たんだが」
木箱を椅子代わりにして食事をしていた男に、ジャックは声をかけた。男はしばらく器のスープの中の野菜をスプーンで追い回してから、ジャックを振り返った。
「ここのスープ、うまいんだけど、具が少ないんだよな」
「まだ野菜が残ってるだろ」
「肉が食べたいんだよ、肉が。団子じゃなくて塊肉な」
「わがまま言うなよ、フレール」
フレールと呼ばれた男はジャックに言われ、渋々といった様子でスープを飲み干した。それからやっと席を立つ。
「花を求めに来たっつっても、今日はそんなに珍しいものはないぞ」
「それは残念だ。俺は今日、煙草を持ってきたのにな。フレールが前に欲しがってたやつ」
「わかったわかった。役に立てるかわからんが」
フレールがやる気を見せないからジャックが帰ろうとすると、途端に彼は背筋を伸ばした。このもったいつける感じが好きではないのだが、貴重な情報源だから繋がりを持っている。
「で、今日はどんなことが知りたいんだ?」
ジャックから受け取った煙草に火をつけ、煙をくゆらせながらフレールは尋ねてきた。薄汚れて胡散臭いこの男がどんな花を扱っているのかという感じだが、実際に彼が扱っているのは情報だ。ジャックは何か知りたいことがあるとき、こうしてフレールのもとを訪れる。
「何かさ、貧民街のほうで人がバタバタ倒れてるんだろ? あれ、流行り病なのか事件なのか気になってさ」
ジャックは煙を避けながら聞いた。ミセス・ヴィレットからこの話を聞いてからというもの、気になって仕方がなかったのだ。
ジャックは怪しいと感じることがあると、そのたび調べることにしている。それがたとえ小さな違和感であったとしても。気になることを放置して、それが大事になるのは避けたいからだ。……誰かや何かを失うのは、絶対に嫌だ。
シャックの勘はこれは何だかきな臭いと感じているのだが、フレールは特にそう思ってはいないようだ。
「貧乏人が倒れることなんて、日常茶飯事だろ。日頃からやっとのことで生きてるんだから、ちょっとの風邪や体調不良で死ぬんだよ。それがたまたま数人立て続いたのが、尾ひれがついて広まったんじゃねえのか?」
フレールは煙草を美味しそうに呑みつつ言う。情報料としての煙草なのに何も有益な情報を吐く気がないのかと、ジャックは至福の表情を浮かべるフレールをじっと見た。
「いやいやいや。そういう怖い顔しないでよ。別に何もしゃべる気ないって言ったわけじゃないんだから」
ジャックの視線に気づいて、フレールはヘラヘラ笑う。怖い顔などというが、この三十過ぎの軽薄な男が若造のジャックを怖いだなんて思っていないのは明白だ。馬鹿にされた気分になって、ジャックは今度こそフレールを睨んだ。
「また今度、珍しい煙草を買っておこうと思ってたんだけどな。残念だが、その機会はないらしい」
「意地悪言うなよ。おたくが欲しがってる情報と通じてるかもしれん話を持ってるぞ」
「……どんなのだ?」
「俺の知り合いがさ、『楽園へ行く方法が見つかった』って言ってたんだよ。貧民街とかこことかをうろついているような、まあ碌でもないない奴が。で、そのあとそいつを見た人間はいないんだよ。ぱったり姿を見なくなったんだよなぁ」
フレールの話を聞いて、ジャックはすぐに言葉が出てこなかった。その話に怪しさや不穏さは感じるものの、その正体を掴みかねるという感じだ。
「……情報はそれだけか? 変な話だとは思うが、それが俺の話にどう繋がるかわからないな。それに、今の話は情報料に見合っているのか?」
フレールに渡した煙草を惜しいとは思っていないが、釣り合いが取れるのかという話にはどうしても納得がいかなかった。フレール本人もそのことに自覚はあるらしく、ニヤけた顔にやや気まずそうな表情を浮かべていた。
「だからさあ、今日会ってすぐに言ったじゃん。『そんなに珍しいもんはないぞ』って。まあまあ、次回はおたくが欲しがってる情報を必ず提供するからさ、前金ってことにしとこうぜ」
一度渡した対価を返せというつもりはなさぬたが、このニヤけ顔をつねってやるくらいのことはしたくなった。それを察してフレールはジャックから少し距離を取ると、二本目の煙草に火をつけた。
「そういえば、三番街に美味しいお菓子屋さんができたらしいぞ。高級志向だがちょっと背伸びすりゃ買えるってことで、若い娘さんたちに人気なんだと。気になる女の子にでも買っていったらどうだ? な、耳寄りな情報だろ?」
ジャックの機嫌を少しでも取っておこうと考えたらしく、フレールは懐から取り出した小さな切り抜きを押し付けてきた。
若い娘に人気のお菓子なら、ロール様も喜ぶだろうか――切り抜きを見てそんなことを考えてしまい、ジャックは自分がまんまとフレールの策にかかったことに気がついた。だが、おかげで気分よく屋敷に帰ることができたのだった。
数日後、ジャックはロランヌと連れ立って三番街を歩いていた。ちょうど近くで仕事があって、その帰り道だ。
本当なら、何日も心待ちにした楽しい時間のはずなのだが、今ふたりの間には若干気まずい雰囲気が流れている。
件のお菓子屋へ行こうと誘ったときの、ジャックの誘い方が悪かったのだ。「美味しいと評判のお菓子屋があるそうです」と言えばよかったのを、「若い女性に人気のお菓子屋があるそうです」と言ってしまったため、それでロランヌの機嫌を損ねてしまった。
思えば数日前から少し不機嫌なように感じていて、それで機嫌を直してもらえればと考えて誘ったのだが、うまくいかなった。「どうせ〝秘密のお散歩〟のときにでも見つけたのでしょう? そのときに女の子に教えてもらったのかしら」と、ロランヌはぷりぷり怒りだしてしまった。
もともと、時々ジャックが屋敷からいなくなるのをロランヌはよく思っていない。散歩だと言っているのだが、それもよくないらしく、その曖昧な表現ゆえいろいろと疑いをかけられてしまっているようだ。
さらにいけなかったのが、そうやってロランヌが怒りだしたとき、ジャックはつい笑ってしまったのだ。ロランヌの怒りはあきらかにヤキモチ、もしくは独占欲によるものだ。大好きな主人がそんなふうに自分に対して激しい感情を抱いているというだけでも愛しくなるのに、美貌の少女は怒る姿まで愛らしい。そのせいでジャックは笑みを浮かべるのを堪えることができなかった。
仕事中こそ平静を装っていたものの、ロランヌはずっとジャックに対してぷりぷり怒っている。その姿を見てジャックは大いに楽しんでいるが、そろそろ機嫌を直して欲しいとも思っていた。
不機嫌でもお菓子屋には同行してくれるのだから、そこのお菓子が評判通り美味しければ状況は改善するだろう。
「ロール様、もうすぐ着くと思いますよ。住所はこのあたりのはずですから」
新聞の切り抜きで番地を確認して、ジャックはロランヌに声をかけた。もうすぐ着くと聞いたロランヌは、あからさまにそわそわし始めた。怒っているのは、どうやらポーズだったらしい。
「……若い女性に人気のお店って、どんなものかしらね。チョコレートのお菓子はあるかしら。でも、その店の実力を知るには焼き菓子を食せというし……」
「それなら、チョコレートも焼き菓子も買いましょう。それ以外にも、気になるものなら何でも。ロール様が食べきれなかったものは、俺でもバローさんでも引き受けますから」
「そうね。みんなで食べればいいものね」
どんなお菓子があるのか想像すると楽しくなったのだろう。ロランヌは不機嫌を装うのをやめ、うきうきとしだした。その無邪気な様子に、ジャックはほっとすると同時に愛しくてたまらなくなった。
「看板が見えてきましたよ。おそらくあちらでしょう」
嬉しくなったジャックは、少し前を歩いてロランヌを先導した。その後ろをロランヌも足取り軽くついてきていたのだが、不意に跳ねるような足音が止まった。
「ねえ、ジャック」
「なんでしょう、ロール様」
「あれを見て……」
〝あれ〟と言ってロランヌが指差すのは、店と店の間の狭い路地だ。そこに何かある、それが人間だとわかった瞬間、ジャックとロランヌはどちらともなく駆け出していた。
「おい、大丈夫か!?」
「ジャック、揺らしてはだめ。――わたくしが見るから」
倒れているのは、まだ若い男性だ。
その人のそばまで行って、助け起こそうとするジャックをロランヌが制した。そしてその人の体に両手をかざすようにして、冥界を覗き込む。
薄いベールを一枚隔てた向こうに見えるのは、ごく普通の緑の庭だ。特に荒んでいる様子も、枯れている様子もない。空気が淀んでいるわけでも、悪い虫がついているようにも見えない。
ただ、そこに植わっているのは、見たことがない植物だった。
「ロール様、この植物は……?」
「わからないわ。でも傷んだところは見られないし、それ以上に、このいたって普通の土壌にしてはよく育っているの。蕾までつけているし」
ロランヌは青々とした葉に触れ、裏返して確認し、それからぷっくりとした蕾に触れた。
ロランヌの指先に突かれ蕾はふるふると揺れたが、それ以上の変化はなかった。クインガーデナーが意思を、意味を持って触れたのに、蕾は蕾のままだ。
まるで、自分の正体を明かすのを拒むかのように。
冥界の花樹は普通の植物と違って、花は花としてある。その持ち主が生まれたときから、そこにあるものだから。蕾の時期がないわけではないが、クインガーデナーに〝咲け〟と命じられて咲かないものは本来ないはずなのだ。
体のほうが弱っていても、花樹に働きかけて力を強めることができれば、きっと意識が戻るとロランヌは考えていたのだろう。いつもはそうだ。だが、目の前の人はぴくりとも動かない。
「花樹になんの問題もないはずなのに、この人の意識は戻らないわ。どういうことなのかしら……」
「脈も弱いです。このままでは危ないでしょうから、病院へ運びましょう」
「……そうね」
自分たちにできることはない――ジャックはそう見切りをつけようとした。
それでも、内心では目の前の出来事に言い知れぬ不安を覚えていたし、ロランヌも自分と同じくらい不安になっているだろうことを感じ取っていた。
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