第二章 その③

 ロランヌの朝の支度と朝食に付き添ったあと、ジャックは使用人用食堂であくびを噛み殺しながら新聞を読もうとしていた。

 昨夜、ロランヌを部屋に送り届けてから、ジャックも自室に戻って眠ろうとしたが、やはり眠ることはできなかった。意識が途切れた瞬間はあったものの、それで体が休まるわけはない。休まらなくても朝が来れば、こうしてまた一日の仕事は始まる。

「ジャック、また眠れなかったのか」

 何度めかのあくびを噛み殺していると、テーブルを挟んで向かいの席でコーヒーを飲んでいたバローに声をかけられた。

 ジャックと同じお仕着せに身を包んでいるが、布地を押し上げるように全身に筋肉をまとっているため、とても同じものには見えない。何より、この姿で街を出歩いても、知らない人には執事には見えないだろう。

「いえ、全く眠れなかったというわけでは……」

「その顔色でよく言う。眠れんのは、疲れが足りんからだろう。今日から日中しっかり体を動かしておくように。何なら、稽古をつけてやる」

 バローはそう言って、服の上からでもわかる力こぶを作ってみせた。そんなことをしたら布地が裂けてしまうのではと思ったが、裂けても縫うのはこの男だ。

 サジュマン家の使用人はバローとジャックの二人だけだから、繕い物でも何でも、どちらかがやらねばならない。そして断然、この筋骨隆々のバローのほうが器用にこなしてしまう。

「……遠慮しときます。今夜もし眠れなかったら、調べものでもしますんで」

「たるんどるぞ。そんなんでお嬢様をお守りできるのか?」

「できます。最近は新しいことができるようになって、その自主練習もしてるん、で……!」

 ジャックが言い終わる前に、何かが飛んできた。すぐ後ろの壁を見ると、小型のナイフが刺さっている。バローが放ったものだ。

「避けたな。だが、避けるだけではだめだ。避けた先にお嬢様がいたらどうする? 掴む、弾き返す、叩き落とす――やれることはもっとあると覚えておけ」

「……はい」

 暗器――東方の国から伝わったとされる隠し持てる小型の武器――使いの達人であるバローに言われると、ジャックは何も言い返すことはできなかった。

 従者は主人の護衛役も兼ねている。特にロランヌにとって護衛は飾りではないため、ジャックは拾われてすぐからバローに格闘術を仕込まれていた。いざとなれば体ひとつでロランヌを守れるよう訓練しているが、まだこの男には敵わないと思う。

 バローも、主人たちを亡くした日からずっと、強くなろうと鍛錬を欠かしていないのだから。

「それにお前、パズルばかりではなくきちんと新聞の記事にも目を通しなさい。本も読むんだ。世事に通じておくのも主人のためだ」

「いや、今ちゃんと読んでますし……」

 バローが小言を続けようとするのが嫌でジャックは反射的に言い返したくなったが、尻すぼみになった。日頃、ジャックが新聞で熱心に目を通すのは数字を並べていくパズルくらいのものだから、こう言われても仕方がないのだ。

「何だ、読んでるのか。……あの野犬のように荒くれていたジャックがな。そうか、新聞を読むのか」

 ジャックが本当に新聞を読んでいるとわかったからか、バローが感慨深げに呟いた。自分を拾ってくれ、育ててくれた人ではあるものの、こんなふうに親心のようなものを滲ませられると、落ち着かなくなる。

「いや、気になる事件があって、それについて何か書かれていないか目を通してるだけだ」

「事件? どんな事件だ?」

「倒れて目覚めない人がいるらしいんです。あと、通り魔だのかが出没するとか……」

 言いながら、バローの顔がどんどん険しくなっていくのにジャックは気がついた。思えば、この逞しい執事は都市伝説だとか噂話などということを軽蔑していて、ジャックが幼い頃オバケに怯えただけでも怒られたものだ。だから当然、この手の話題を快く聞いてくれるはずがなかった。

「……その手の内容は、新聞の仕事ではないぞ。そういうものに用があるなら、雑誌でも読めばいい。そんなことより、本を読むべきと思うがな」

 バローは、呆れて物が言えないところをやっとのことで口を開いたといった様子で言った。

別に彼に認められるために新聞を読んでいるわけではないのだが、あからさまに落胆されてジャックはムッとした。

「マダム・ブランシュが、新聞に載っていたって言ってました」

「マダムが? ……ご婦人が読む新聞と、我々が読む新聞はものが違うかもしれんぞ。それに、雑誌で読んだものを新聞で読んだと混同しているのかもしれんし」

 顔見知りの名前が出た途端、バローは歯切れが悪くなった。ロランヌが贔屓している仕立屋の店主であるマダムの悪口は言いにくいのだろう。

「……あった」

 バローがどう言ったものかと悩んでいる間に、ジャックはお目当ての記事を見つけだした。小さな、よく見なければ見落としてしまいそうな隅にだが、『通り魔か』の文字が踊っていた。

 ジャックが指差すそれを見て、バローは再び顔をしかめた。その顔には呆れと動揺も同時に浮かんでいたが、それはやがて憤りに変わった。

「……新聞も、落ちたものだな」

 バローはジャックの失敗した料理を食べたときのような、苦々しい顔で言う。

 新聞がなんぼのものかわからないが、伝聞と推定口調ばかりのこの記事からは確かなことは何もわからないということには、ジャックも同意だった。


 屋敷で新聞と睨み合っていても何もわからないと、ジャックは街に繰り出していた。

 東方人風の変装をして向かうのは、いつもの場所だ。この前は屋台で夕食をつついていたフレールは、今夜は花屋らしくちゃんと花が乗った荷車を引いていた。

 こんな胡散臭くて気怠げな花屋がいてたまるかと見るたび思うのだが、東方人街の宵闇のオレンジ色の中にいると、しっくり来るものがあるのが不思議だ。

「よぉ、青年。今日はあんたが欲しがってたのが入ってるぜ」

「そうか。そうだといいなと思って、俺もフレールにこれを持ってきた」

 ジャックに気がついたフレールは、花を一輪差し出した。特に珍しい花ではないが、それを受け取ってジャックも懐から取り出した煙草を渡した。

 傍目から見ると、花屋と馴染みの客が世間話をしているようにしか見えないだろう。

「どうやらな、ヤバイ薬が出回ってるらしいぞ」

 荷車からやや離れた場所で、フレールは煙草を一本取り出して火をつけた。それから煙をいっぱいに吸い込んで、フレールは目を見開いた。どうやら気に入る味だったようだ。ジャック自身は煙草を吸わないからいつも店主に勧められたものを買うのだが、フレールが香りと癖の強いものを好むのはわかってきた。

「ヤバイ薬? それが例の、『楽園に行く方法』ってやつなのか?」

「まあ、安直に考えると、そうなるだろうな。ただ、俺の知り合いがその薬をやってたかどうかはわからんし、相変わらずそいつの行方はわかってない」

 特に声色に変化はなく、何でもないことのようにフレールは言い放った。フレールはいつもニヤけていて胡散臭くて、何を考えているのかわからない。だから、今も悲しんでいるのか心配しているのか、いまいちよくわからなかった。

 それでもジャックは、たとえば自分にとってのフレール程度の人間でも、行方知れずになれば心配するだろうから、この場合は慰めの言葉が適切だと考えた。

「そうか……知り合い、早く見つかるといいな」

「お? おお……そうだな」

 そんなことを言われるのは意外だったとばかりに、フレールは驚きに目を見開いた。だが、やはりふざけた男だから、すぐに面白がるようにニヤニヤしはじめた。

「知り合いって言っても、この辺をうろついてる奴だから碌でもないんだけどな。碌でもない奴がいなくなっても、みんな普通は気にも留めないもんだ。だから、そんな言葉を口にできるあんたは、実は育ちがいいんだろうな。こんなところをそんななりでうろついているが」

 面白がって、まるで値踏みするような目でフレールはジャックを見る。図星を突いたつもりだろうが、かすりともしていないためジャックは焦らない。

「育ちがいいだなんてとんでもないな。俺はただの捨て子だ。でも、知り合いがいなくなれば心配する程度には人の心があるだけだ」

「その人の心を持ち続けられてんのが、育ちがいいって言うのさ。社会の底辺で生きてると、他人のことなんざどうでもよくなるからな」

「底辺同士でも繋がりがあるから生きてられるってこともあるだろ。俺は、あんたが突然いなくなったら心配するし、もしかしたら探すくらいのことはするかもな」

 ジャックが何の衒いもなく言ってのけると、フレールは鼻で笑った。じっと見てくるニヤけた目の奥には、仄暗い闇がある。だが、気を悪くしたわけではないらしい。

「優しいなあ、あんたは。いや、お人好しなのか。お人好しが過ぎて足下すくわれやしないか、心配になるくらいだ」

「本当に大事なものとそうでないものとの区別くらいはついてるつもりだ。いざとなれば大事なものを優先して他を切り捨てる俺は、お人好しじゃない」

「そっか。なら、あんたに心配してもらえたってのは貴重なんだな。じゃあ俺もあんたにオマケしなきゃいけねぇか」

 気をよくしたのか、ニヤニヤしながらフレールはもう一輪花を差し出した。

「情報っつっても、オマケ程度にやれるもんだから断片みたいなもんだけどな。何か、高値で取り引きされる花があるらしいって話を聞いたんだ」

「花? 花って、こういう花のことなのか?」

「いや、それが俺にもさっぱりなんだわ。でも、少しずつ噂は広まってて、花売り娘たちが騒いでるぜ。俺のところにまで『珍しい花ない? 手に入ったら教えてね』なんて言ってくるくらいだ。ただな、花屋の俺が知らねぇ花って何なんだよって感じだよな」

「……わけわからんな」

 前置きされたからこの前のように腹は立たなかったが、あまりにとりとめない話でジャックは戸惑った。だが、胸の奥がざわつくようは、嫌な感覚を覚えていた。フレールからもたらされる情報がぼんやりしているのはいつものこととはいえ、その奥から不安をかきたてる言いしれぬものを感じるのは初めてだ。

 これまでの情報とは質が異なる――それが、ジャックが受けた印象だ。

「フレールの話は、やっぱよくわかんねぇな。また続報があったら教えてくれ」

 今夜はこれ以上の収穫はないだろうと思い、もらった花を振ってジャックは歩きだした。内心の動揺を悟られないように、いつもと同じようにしたつもりだ。

 だが実際は、ひとつのことに思い当たって、それによってさらに動揺してしまっていた。

(もしかして、薬の話とさっきの花の話は繋がるのか? 花が薬の材料だとしたら、このタイミングで高値で取り引きされるのも自然な話だ。そして〝花屋〟のフレールが知らない花となれば、常人には見ることも触れることもできないものだと考えられる……)

 そこまで考えて、ジャックはゾッとした。もし冥界の花樹の話だとしたら、それが噂になる意味や理由を考えると、その怖さは更に増す。

 おそらく、情報をもたらしたフレールも、この関連性については気づいていないだろう。気づいて、知っているのなんて、ごく限られた人間だけのはずだ。

 その限られた人間の中に自分が含まれたということが、ジャックはどうしようもなく不気味に感じられた。


 メイグース王国の春は晴れの日が多いのだが、今日はその中でも特別よく晴れている。

 鮮やかな青空に白い雲が浮かびらそれを彩るように花びらが舞っている。

 赤、黄、白、ピンク、オレンジ――それらはすべて薔薇の花びらだ。薔薇をこよなく愛する女王の生誕を祝う日だから、空を飾るのも薔薇なのだ。

 国民は空を仰ぎ、降り注ぐ光と花びらを見つめる。だが、彼らが待ち望んでいるのは、青空よりも花びらよりも、さらに美しいものだ。

 それは、唐突に現れた。少しくらい音はしているのかもしれないが、それが現れた途端、人々の間から歓声が上がるから、あっという間にかき消されてしまう。

 大きな、白金の船体を持つ飛行船が群衆の見上げる青空を横切っていく。女王が住む、飛空城だ。

 今日はいつもより高度を低くとっているため、地面に落とす影も大きい。そのことに国民たちはいつもより女王陛下を近くに感じられると喜んでいる。

 女王を乗せた飛空城はゆっくりと速度を落とし、この国で最も高い建物である時計塔の近くで停まった。そして船体から伸びた金の美しい梯子を伝って、女王が降りてきた。

 日頃ジャックがどれだけ誘おうとも「不敬だわ」のひと言で時計塔に登ることはないロランヌも、今日は登っていた。そして、謁見を許可された限られた人間たちと共に、女王が降り立つのを見守っていた。

 女王は、薄紅色のドレスの裾を風になびかせながら、ゆっくりゆっくりと梯子を下ってくる。幾重にも布地が重なったドレスは、間違いなく重たいはずだ。だが、そんな重さを一切感じさせない軽やかな足取りである。

 地上へと近づいてくると、そのドレスが薄紅一色ではなく、裾に近づいていくにつれ紅さを増していくグラデーションになっているのがわかる。腰を細く絞って見せるサッシュも肘のあたりから大きく広がる袖も、すべて絶妙に色味の異なるグラデーションだ。

「まるで、薔薇の花の精だわ……」

 ロランヌが思わずといった様子で呟いたが、女王の姿はまさに精霊のようだった。しかも、そんじょそこらの精ではない。精霊界の女王だ。

 薔薇の花弁を思わせるドレスに身を包み、圧倒的美しさを振りまきながら、女王は時計塔の上へと降り立った。

 そこからは、謁見を許された貴族や有力者、教会の人間たちが祝辞を述べた。女王は彼らの言葉に笑顔で応じ、短く挨拶をした。

 その様子を許可された新聞記者が必死にメモをし、隣にいる画家もスケッチを取っていた。彼らの記事は、多くの国民が期待するものだ。特に女王のこの日のドレスを詳細に書き記した画家の絵は、多くの女性たちが待ち望んでいる。

 定期的に女王のポートレートは新聞や雑誌に載って女性たちのファッションの指針になるのだが、この日は撮影が許されていないため、画家の絵だけが頼りなのだ。

 そして女性たちはこの生誕祭のときの女王のドレスの色や形を、今年の最も素敵なものとして服飾に取り入れるのだ。

 来賓たちの祝辞が終わると、ついにロランヌの番が来た。ロランヌはこの日のために丹精込めて育てた薔薇を手ずから摘んで花束にしたものを、女王に献上するためだけに今日ここにいるのだ。

 本来ならば、これはサジュマン家当主の役割だ。だが、十二年前からずっとロランヌの役目になっている。

 自分の番が来たロランヌは、花束を手に女王が鎮座する壇上へと進み出た。女王もロランヌの姿を確認すると、椅子から立ち上がってそれを迎えた。

「陛下、おめでとうございます。今年も今日という喜ばしい日を無事に迎えられましたことを、心から嬉しく思います」

 ロランヌは恭しく膝を折り、花束を捧げ持った。今年の花束は、少し変わった花弁の色の薔薇を集めたものだ。どの花も、全体的に煙がかったような色味なのだが、くすんだ色なわけでも枯れているように見えるわけでもなく、鮮やかなだけが美しさではないことを感じさせる。

「ありがとう、ロザリーヌ。今年の薔薇も、特別きれいだわ。こんな色の花、見たことがない」

「何年か前から着手してきた品種改良が成功したんです。落ち着いた美しさが、きっと陛下にお似合いだろうと思いまして」

「嬉しいわ。そういえば、今年のドレスは去年あなたがくれた薔薇をイメージして作らせたの。内側から外側にかけて花弁の色が濃くなる、可愛い花だったから」

 花束を受け取った女王は、ロランヌと親しげに言葉を交わす。美しい女王と可憐なロランヌが並ぶ様は、現実離れした光景だ。

 実際に、あり得ない光景なのは間違いないのだ。女王は本当なら、ロランヌの祖母であってもおかしくないくらいの年齢だ。かつては母娘であってもおかしくない見た目だったのが、ロランヌの成長とともに姉妹に見えるようになった。つまり、女王はこの十二年で全く衰えていないのだ。

 この十二年というのはあくまでロランヌたちの観測範囲内というだけで、国民の目には即位してからずっと、時を重ねていないように見えている。

 そのことを改めて目の当たりにして、ジャックは恐ろしく思っていた。

 だが、恐ろしく感じようとも、美しいと思わないわけではなく、女王とロランヌの並びはやはり美しいと思う。

 濃い栗色の髪に青い目が人目を惹く女王と、銀髪に紫の目という珍しい容姿のロランヌは、どちらも甲乙つけがたい美貌の持ち主だ。

 日頃、ロランヌだけを美しく特別な女性であると信奉するジャックも、〝この美しさこそ我が国の力〟と言わしめる女王の美貌を前にすると、美しさには様々な形があると思わざるを得なかった。

 そしてその強力な美しさと並んでも決して見劣りしない主の美しさを、誇りに思った。

「……俺たちには、絶対に手に入らないものだよなぁ」

 記者のひとりの呟きが、ジャックの耳に届いた。何気ない、大した意味を持たない呟きだったのだろう。だがそれは、ジャックの胸に突き刺さった。

(そんなこと、言われなくてもわかっている。……手に入るなんて思ったこと、一度もない)

 そんなことを心の中で言い返したが、小さく刺さった棘のようなものが、ロランヌの美しさを誇らしく思う気持ちを萎ませてしまった。

 どれだけ美しいと思っても、どれだけ愛しく思っても、それがロランヌとの関係を変えることは絶対にないのだ。

 勘違いしたことなどなかったはずなのに。夢見たことなど、なかったはずなのに。

 耳に届いた記者の呟きに、ジャックは不用意に傷つけられてしまった。 


 そんなふうにもやもやしていたからだろうか。

 その日の夜、ジャックは夢を見た。

 こちらに背を向けて立つロランヌに、必死に手を伸ばす夢だ。疲れたときなどに時々見る夢だった。

 どれだけ近づこうとしても、どれだけ走っても、なぜだか距離が縮まらないのだ。そのせいか、焦がれる気持ちが強くなる。

 ロランヌがほしくて、ロランヌを自分の手中に収めたくて、狂いそうになる。

 それは恋慕というよりも、もっと暴力的な感情だった。嵐のように目の前の景色ごとなぎはらってしまいたくなるような、そんな荒々しい感情だ。

 そんな想いに突き動かされそうになりながら、心の別の場所ではそれをよしとしていない自分がいるのも感じていた。

 ロランヌには、ずっと笑っていてほしい。できれば自分のそばでがいいが、無理なら遠くの安全な場所ででもいい。

 とにかく、彼女の幸せを守るためならどんなものとでも戦うという、そんな想いだ。

 美しい景色の中、絵の中の少女のように完璧で完全で神々しいロランヌが佇んでいるのを見て、ジャックはこちらの感情こそが自分の本心だと気がついた。

 傷つけたいわけがない。美しい花を自分のものにするために摘み取るようなことはしたくない。そう自分に言い聞かせた。

 その花を愛でたいのなら、ずっと咲き続けられるよう守るべきだ。自分のものにはできずとも、その花をそばで眺め続ける幸福というものもある。

 そう気がつくと胸の中の嵐が収まり、夢から遠ざかっていくのがわかった。同時に光の中のロランヌからも離れていく。

 だが、それでいいのだ。

 もうすぐ夜が明ける。朝になれば、また新しい一日が始まる。

 ロランヌのそばで、彼女の快適で幸福な生活を支える一日が。


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