第五章 その➀

 一番街まで駆け戻ると、サジュマン家の屋敷にたどり着くより先に嫌な予感がした。

 言葉では言い表すことができない、不気味な空気が漂っている。夜だからとか暗いからとか、そんな理由では片付けられない、圧倒的な違和感をジャックは覚えたのだ。

 だがそれと同時に、杞憂であってくれ、この違和感が気のせいであってくれという気持ちもあった。神を信じていたらこんなときは祈るのだろうかと考えながら、ジャックは使用人用のドアを開けた。

「……バローさん? お嬢様!?」

 ドアを開けてすぐ、鉄錆のようなにおいがした。それが血のにおいだとわかった瞬間、ジャックは廊下を走った。

 ここを出たときも戻ってくるときもずっと走っていて、正直体はボロボロだ。本当なら一歩も動きたくない。だが、今動かなければいつ動くのかとも思う。

 血のにおいがしたということは、誰かが怪我をしたということだ。それならば、早く手当てをしてやらなければならない。だから走った。

 まず二階へ行って、ロランヌの部屋を確認した。そこはもぬけの殻で、気配すらも残っていない。明かりが消えた部屋で、ベッドも朝きれいに整えたままの状態だ。

 眠らずに自分たちの帰りを待ってくれていたのだろうかと考えたが、それは何の安心感ももたらさない。

 ここには血のにおいがないことを確認して、ジャックは部屋を出た。

「ジャック、こっちだ」

 階下からピーが呼ぶ声がした。玄関ホールのほうだとわかって、ジャックはまた走り出す。

 近づくにつれて、血のにおいが濃くなっていくのがわかる。ピーが見つけたのは、怪我をしているのは誰なのかと考えて、心臓が痛くなるほど脈動するのを感じていた。

 どうか二人とも無事でいてくれと信じてもいない神に祈りそうになったところで、ジャックは玄関ホールに降りる階段で足を止めた。

「……バローさん」

 階段の下でピーが助け起こそうとしているのは、ぐったりとしたバローだった。筋骨隆々の体はピーひとりでは持ち上げることができないのだとわかって、ジャックは転がるように階段を駆け下りた。

「バローさん! 嫌だ! 死ぬな!」

 負傷しているのが見て取れて、ジャックは焦った。

 勝てないと思っていた人だ。ずっと自分より強くて、頼りにしていた人だ。そんな人が倒れている姿を見て、弱気になってしまった。

「……生きとるわ。遅かったな、バカ息子」

「よかった! 生きてる!」

 最悪の事態も想定していたため、バローがかすかな声ではあるが応答し、薄目を開けたことにジャックはほっとした。

 傷は、腹部と脚にあった。どちらも大きな血管が通っているため油断はできないが、止血はしやすい部分で助かった。だが、手当てをするために傷を見ようとすると、弱々しい手付きでそれを制された。

「私なら、大丈夫だ。このくらいの傷では死なん。だが……お嬢様が拐われてしまった」 

「嘘だろ……」

 バローを見つけた瞬間、ロランヌは無事だろうと思っていた。今は洗濯室かどこかに隠れているだけで、手当てが終わってから探しにいってやればいいだろうと、そんなふうに思っていた。――いや、思おうとしていた。

「……お嬢様と明日の朝食について話し合っていたところ、突如襲撃を受けた。斧を持った男だ。……応戦したのだが、相手の狙いは最初からお嬢様のみ。私のことを動けなくすると、すぐさまお嬢様を抱えて逃げ出した」

「そんな……!」

 襲撃を受けたのにバローが負傷するだけで済んだのは、殺すことが目的ではなかったからだとわかる。バローが無事でいてくれてよかったという思いと、大事なロランヌが拐われてしまったということへの怒りで、ジャックの心はどうにかなってしまいそうだった。

「バローさん、ごめん。俺が屋敷にいたら、きっとお嬢様を守れたのに……二人でだったら絶対、お嬢様を連れ去られたりしなかったのに……」

 荒い呼吸を繰り返しながらジャックは言う。今胸の中にあるのは、後悔だけだ。そして、相手の手の上で踊らされていることへの怒り。

「……お前が謝ることではない。屋敷にもっと使用人を置いておくべきだったと、後悔はしたがな」

「ピーを襲ったやつを突き止めにいったのも、敵の策だったんだ。俺がそれに乗せられさえしなければ……」

「相手は相当の手練だ。しかも、何年も前から執念深くつけ狙われていた。どれだけこちらが警戒しようにも、限度がある」

 取り乱しそうになるジャックをなだめながら、バローの声には怒気がこもっているのが伝わってきた。それは、襲撃者への怒りだ。

 静かにずっと燃え続けてきたその怒りを、ジャックは知っている。間近で見て育った。だから、バローの言葉を聞くより前に、彼が伝えようとしたことがわかってしまった。

「……襲撃してきたのは、十二年前この屋敷の人間たちを殺したやつと同じだろう。やはり、残党はいたのだ。そいつが、お嬢様を拐った」

「……そういうことか」

「手口が同じだ。私を殺さずお嬢様を拐って逃げたことを考えると、規模や力は当時より削がれているのだろうがな。だが、代わりに周到さも執念深さも増したということだ」 

「くそ……!」

 これまで自分がずっと追っていた事柄がすべて忌まわしい十二年前の惨劇に繋がっているとわかって、ジャックは怒りに震えた。全身の血が沸騰するかのような、そんな感覚だ。

「くそ! くそ! くそ! くそっ!」

 悔しくて苦しくて怒りでどうにかなりそうで、ジャックは握りしめた拳を己の腿に叩きつけた。そうしなければ自分の内側から溢れてくる何かに、押し潰されてしまいそうだったから。

 そんなジャックの拳を、誰かがガシッと掴んだ。ピーかと思ったがそれは、ジャックの見慣れた手だった。

「……バカ息子が。お前が自分を傷つけても、何も事態は解決せん。それよりも、やるべきことがあるだろう?」

「バローさん」

「お嬢様を助け出してやってくれ。もう何も失わせたくないし、失いたくないんだ」

 バローはそう言いながら、震える手でお仕着せの胸ポケットを探った。そして、そこからナイフを取り出して手渡してきた。

 これで、二本で対となるナイフが揃ってしまった。

「……今はまだ、貸すだけだ。磨いて返すんだぞ」

 ジャックが泣きそうになったのに気がついたのか、バローが安心させるかのように笑った。その笑顔を見れば、この人の思いに、愛に、報いなければと思う。

 だからジャックは、力強く頷いた。

「わかりました」

「気をつけて帰ってこい。薬売りの方も、帰ってきたら痛み止めや諸々の薬の処方をお願いしたい」

 決意を固めたジャックを心配させないためにだろう。バローは空元気を出して笑った。

 その顔を見て、ジャックは大丈夫だろうと思った。本当は心配だが、このまま死んでしまうことはないと確信できた。

「時計塔へ行ってきます。敵は間違いなく、そこにいるので」

 ジャックはそう言って、再び走り出した。


「これ、飲んどきな。気休めにしかならないけど」

 走りながら、ピーが何かを差し出してきた。変な色をした丸薬だ。マスクをずらして彼も同じものを口にしているらしいことがわかって、ジャックも素直に受け取って口に放り込んだ。

「……にがっ! くさっ……これ、何だ? 舌の先がピリピリするし」

「元気になる薬。でも、疲れや痛みを誤魔化してるだけで、本当に元気にしてくれるわけじゃない」

「……そっか」

 聞いてから飲めばよかったと思ったが、少しすると本当に体が軽くなってきた気がしてきた。手足が怠くて、肺が痛くて、もう走りたくないという気持ちが薄れている。つらくはあるが、まだやれるという気持ちになった。やらなければ、どうにもならないわけだし。

「大丈夫だよ。お嬢さんは、まだ生きてる」

 何も言えずに走っているジャンルに、ピーが言った。それは気休めというより、確信があるように聞こえる。

「そうであってくれと思うけど……なんで?」

「お嬢さんはあくまで女王に対する交渉材料だから。殺してしまっては交渉できないことくらい、敵はわかってるはずだ。女王を飛空城から引きずり下ろすために、必死なんだよ」

「……くそだな」

 同じように冥界の庭を見ることができる能力を持ちながら、片や手厚く保護されたクインガーデナーと、粛清されたランバージャック。

 納得がいかないのも悔しいのも理解できるが、十二年の惨殺事件は到底許せるものではない。

 その上、女王に何かを訴えるために、女王を引きずり下ろして国の仕組みを変えるために、たくさんの人々を犠牲にして、唯一の生き残りであるロランヌを拐ったことは許せるはずがない。

 自分が何者であるか怯える気持ちはなくならないが、ジャックは初めて今、明確に怒りと殺意を抱く存在を見つけてしまった。

「俺がちゃんと全部周りに頼ってたら、こんなことにはならなかったかもしれないのに……」

 ずっとひとりで事件を追っていたことを、ひどく後悔した。

 だが、言えなかったのは、自分が何者であるかわからなかったから。

「俺、記憶がない状態で十二年前に拾われて、サジュマン家で起きたことを教えられて、ずっと怖かったんだ。だから、事件の犯人のことを知ろうとした。身近でおかしなことが起きてるときは、その情報を集めた。今回のこともそんな感じで、結局自分のためだったんだ。……だから、怖くて誰にも話せなかった。そのせいで、こんなことになっちまった」

 走りながら口からこぼれてくるのは、虚しい後悔だった。

 こんなことを口にしながらも、時を戻したところで自分が誰にも相談できないのを知っている。

「まあ、自分のことわかんないって、怖いよ。僕も怖い。でも、怖いなら知っていくしかないんだよ」

 息苦しくなったのか、それとも話の流れか。ピーがペストマスクを外した。月明かりの下に、彼の黒髪黒目があらわになる。ジャックが親近感を覚える、東方の血を感じさせる色だ。

「ジャックは、ずっと自分が切り裂き魔じゃないかって怯えてたんだろ。その恐怖からは逃れられた。じゃあ、今度は『自分はどこから来たんだ?』って不安になると思うな。僕にもあるから、それはわかるよ」

「ピーにも、そんな気持ちになることがあるんだ……」

「あるよ。だから、自分たち薬売りのことや持って生まれた能力、そのルーツを知りたいってずっと思ってる」

 ペストマスクの下で、飄々とした態度の内側で、ピーがそんなことを考えていたのだとジャックは今知った。神出鬼没で、路地裏の怪人のように思っていたのに。ほんの欠片でも中身を知れば、自分と同じ人間なのだということがわかる。

「これまでのことを悔いる気持ちはわかるけど、後悔はあとで」

 あとでというのは、ロランヌを取り戻したあとでということなのだろう。まるでこれから軽く用事を済ませるかのような口調に、ジャックは笑ってしまった。

「ロール様を取り戻して敵をぶっ倒したら、後悔なんかなくなってるかもしれないもんな」

 やるしかないのだと覚悟が決まったら、ジャックの気持ちも明るくなった。ピーがくれた薬はきっと、苦しみを吹き飛ばす力もあるのだろう。

「全部終わってからも自分の出自が気になるなら、ルーツを探りに行けばいい。僕もいつか行くつもりだよ、東方の国」

「そっか。じゃあ、俺も行く」

「お嬢さんも行きたがるだろうな。だったら、みんなで行こう」

 この先、どれだけの戦いが待ち受けているのかわからない。無事に戻れるのかもわからない。だが、帰ってからの目標ができた。

 そのことが救いで、それだけが救いで、ジャックはおかしな高揚感の中、時計塔へ向かって走り続けた。

「……いた」

 時計塔内部の長い長い階段を登り終え、屋上までたどり着いた。

 そこには地上で見るより大きな月と、それに照らされる人影があった。

 ぐったりと横たわる小さな人影。それがロランヌのものだとわかって、ジャックは我慢できずに駆け寄ろうとした。

「お嬢様!」

「だぁめだっ」

 金属が硬いものと擦れる耳障りな音と低い男の声がして、目の前に突然何者かが現れた。攻撃される前にと、ジャックは慌てて距離を取る。

「だめだだめだ。これはあのクソ女をおびき寄せるための餌だ。野良犬なんかが来ても触らせるわけがないっ!」

 それは、背の高い男だった。痩身に長いコートをまとった、不気味な姿の男だ。だが、逆光でもわかるほどその男の顔は整っていた。彫りの深い目元も、筋の通った高い花も、薄く形の良い唇も、どこか作りものめいて石像みたいだ。

 細くて不気味で美しいのに、その男の姿を目にした途端、ジャックは恐ろしいと感じた。バローのように屈強なわけではないのに、圧倒的力の差を感じさせられた。

「……俺は、野良犬なんかじゃない。その方の従者だ!」

 せめて気持ちで負けてはいけないと、ジャックは叫んだ。両手にはバローから預かった一対のナイフを構える。刺し違えてでもこの男を倒すと、そんな覚悟を持って向き合う。

「従者! あの家にまだそんなものがいたのか? だが、小僧には関係のない話だ」

 決して大声ではないのに、気味が悪いほどよく響く声で男は言う。その声にジャックもピーもすくみあがりそうになったのに、ロランヌはぴくりとも動かない。

「大丈夫。この小娘はただ寝ているだけだ。まあ、遅効性の毒で意識を失っているから、クソ女の到着が遅くなれば死ぬだろうがな」

 ジャックの不安を感じ取ったのだろう。男は嘲笑うかのように言った。

 今はまだ死んでいないだけで、いずれ死んでしまうと言われたのと同じだと感じて、ジャックは憤る。

「なんでこんなことするんだ!? お嬢様には関係ないだろ! お嬢様は、ただ懸命に生きてきただけだ!」

 青白くなり今にも消えてしまいそうなほどロランヌが儚く見えて、ジャックは叫んだ。幼いときに親や一族を奪われ、傷と恐怖を抱えてそれでも気高く育った人だ。そんな彼女が酷い目に遭うのは許せないと、ジャックの中で怒りが燃える。

 だがジャックの言葉を受けて、目の前の男も雰囲気が変わった。

「……関係ないだと? ランバージャックたちの苦しみにクインガーデナーが関係ないだと!? そんなわけがあるわけがない! こいつらさえいなければ、俺たちランバージャックが冷遇されることはなかったんだよっ!」

 怒り狂った男は、手に持った斧を叩きつけながら声を荒らげた。金属が擦れる耳障りな音が響く。

「女王に重用されたことで人々に一目置かれ、崇められ、大切にされるクインガーデナー……目障りだ。なぜあのクソ女がやつらを大事にするかわからん! この国を作ったのは、ランバージャックなのに!」

「わけがわからないことを言うな!」

 冥界の花樹を刈るしかできない一族が国を作ったなどありえない。妄言を聞く気はないと、ジャックは切り捨てた。

 だが、男はなおも言葉を続ける。

「この国が国として成立する以前、俺たちランバージャックは重宝されたんだよ。立地がよかったとはいえ、ただの辺境伯が国王になりあがったんだぞ? 裏でどんなことが行われていたと思う? 表向きの歴史で語られるような、血の流れないきれいな交渉があったとでも? ……小僧はわからないだろうな。血はな、表で流れなければ裏で流れるもんだ」

 男は小さな子供にでも語って聞かせるように、ゆっくりと言った。

「ランバージャックはな、王族――その頃はまだただの貴族だな。とにかく、この海洋都市を収めるやつらに言われて、邪魔者を消し去っていったんだよ。俺たちには静かに人を消し去る術がある。だから、裏の汚れ仕事に重宝されたってわけだ。目には見えない恐るべき力を有しているということで、ハイリヴァルトも手を引かざるを得なかった。つまり、俺たちランバージャックがあの国を退け、この海洋都市を王国にまでのし上がらせてやったんだよ!」

 男が語るのは、おそらくランバージャックが一番輝いていた頃の話なのだろう。薄暗い、日の当たらない栄光ではあるが。そのせいか、男はどことなく誇らしげだ。

「それなのに! 俺たちのおかげで無事に独立を成し遂げたのに! あの女の代になって、俺たちは世界の隅へと追いやられた。まるで臭いものに蓋でもするかのように! ――代わりに大事にされるようになったのが、ガーデナーたちだ」

 高揚していた男の声は、低く落ちる。

「あの女は女王になってから、腕の立つガーデナーを取り立て、〝女王の庭師〟なんて称号を与えやがった。あの女に選ばれた者はその栄誉を手放すまいと徒党を組み、群れをなし、その地位を確固たるものにしていった。この国ができるまで尽力した俺たちが影の中に追いやられ、それまで何をやってたかわかんねぇウスノロたちが貴族になった。面白くねぇに決まってんだろぉが!」

 男は怒り、吠える。この言葉を信じる限り、怒りはもっともだと思う。だが、冷静に考えるとやはりわけがわからない話だ。

「……こいつ、いつの話をしてるんだろう」

 ジャックの隣でピーが、ポツリと呟いた。どうやらジャックと同じことに引っかかったらしい。

 メイグース王国は、建国して百年近く経っている。

 この男のいうように、ハイリヴァルトのいち都市から国として独立するときにランバージャックが汚れ仕事を担っていたとしても、それは百年以上前のことになる。

 この国の歩みがランバージャック迫害の歴史と重なると言うのなら、この男は一体いつの話をしているのだろうか。

 ジャックはまるで亡霊を前にしたかのような気持ちで、男を見つめた。

「いつの話をしてるんだ、か。お前は伝え聞いただけで、その昔話を体験していないだろとでも言いたいんだろう。……残念だが、体験してるんだよ、俺は。冥界の庭をいじれば見た目も命も好きにいじれるんだ。小僧たちが崇める女王様を見れば理解できるだろう?」

 男の言葉に、ジャックもピーも息を呑んだ。だが、その言葉を理解できなかったわけではない。

 いつまでも年を取らない女王のことは、国民みんなが不思議に思っている。何らかの秘術が使われていて、それこそが他国にはないこの国の力だと信じて、片付けている。

 だが、この男の言葉ですべてが腑に落ちた。腕利きのガーデナーの技術を持ってすれば、不老は可能なのだ。もしかすると、不死すらも。

 だから、この男が建国以来生き続け、ランバージャックの不遇の歴史を見てきたということも信じられる話だ。

「あんたが女王を憎んでいるのはわかった。引きずり下ろしたいのもわかる。でも、その子は関係ない! あんたに家族を奪われて、家名とガーデナーの能力の他に何も持たない少女だ」

 戦う覚悟はできているつもりだが、できれば穏便に済ませたい。まずはロランヌの身の安全を確保しなければ、早く解毒薬を与えてやらなければと、ジャックは焦りつつも男と交渉しようとした。

 だが、男は落ち着くどころか狂ったように笑い出した。

「関係ない? 関係ないわけあるか! 殺し損ねたんだぞ。本当は皆殺しにしてやりたかったのによぉ! 皆殺しにできてたら、粛清されても本望だったさ! だが……結果的にいっぺんに殺してしまうより苦しめることができただろうな。あの女も、世の中の連中も」

 男がまとう闇が、一層深まった気がする。これは憎悪なのだと、ジャックは理解した。

「一応は俺も、様子を見ることはしたのだ。何か事件を起こして、女王がどう行動を起こすか見定めようと。だが、民が苦しもうとも、死のうとも、あの女が空から降りてくることはなかった。貴族が貧民のために何かをしたなんて話も聞かない。あいつらは下々の者を見下して、この世には生きるべき者とそうでない者がいると勝手に線を引いて、真剣に取り合うこともしなかったのだ。――そんな世界、壊そうと思って何が悪い?」

 この男が憎んでいるのはクインガーデナーや女王だけでなく、世界そのものなのだということが伝わってきた。

 男と同じようなことを、ジャックも感じたことがある。そのくせ油断すると、そこらの貴族のように自分が恵まれている側の、運がいいだけの人間だということを忘れそうになってしまう。だから、この男にとっては自分も含めて死すべき存在なのだと、鋭く突きつけられた気分だ。

「飛空城から、子供を盗み出したこともある。クインガーデナーが死んだら慌てるかと思って絶滅させようともした。だが、民が困ろうと何が起ころうと、あの女狐は空から降りてこない。それどころか城の警備を強化して、簡単には侵入できなくなってしまった。昔はもっとあの女も、地上に降りてきていたのに。……今回ばかりは、地上で最後のクインガーデナーだから降りてきてくれないと困るがな」

 男がそれからも、この世への恨みつらみを吐露し続けた。ロランヌを助けに女王が飛空城から降りてくるまで、この男にとっては暇つぶしでしかないのだろう。

 不意に、月光が陰った。雲が月を隠したのだ。暗くなったその隙に、ピーがそっと動いたのを感じる。

 何かが近くを這っていくのを感じた。夜目が利くジャックの目には、植物の蔦が横たわるロランヌへ伸びていくのがわかった。陰っている間にロランヌを救出しようとしているらしい。

 だが、男がそれに気づかないわけがない。

「させるか!」

 あと少しでロランヌを絡め取ることができたはずの蔓を、投げた斧で一刀両断した。そしてひと飛びで斧を取りに行くと、すぐさま振りかぶってピーに襲いかかろうとした。

「やめろ!」

 ジャックは男とピーの間に割って入り、両手のナイフで斧を受け止めた。刃物と刃物がぶつかり合う、嫌な音が響いた。

 斧を押し返すとき、ナイフ越しに男と目が合った。男は、ジャックの顔を見てはっとした。

「お前……捨て子だろう? 思い出したぞ。あの夜、俺が捨てていったガキだ」

「……なにを」

「お前、あのクインガーデナーの小娘にやたらと惹かれるんじゃないか? そういうふうにできてるからな」

 男の言葉に、ジャックは怖気が走った。

 ジャックが捨て子なのも、ロランヌに強く惹かれるのも本当のことだ。それを言い当てられて怖いというより、もっと別の不気味さを感じた。

「お前はな、もとはサジュマン家惨殺のときに駒として使おうと思って連れて行っていたんだ。クインガーデナーを殺すよう、躾ていたからな。だが、実地でお前は役に立たなかった。そのせいで時間がかかった上、小娘を生き残らせることになってしまった」

 男の声を聞きながら、ジャックは自分の心臓がうるさいくらいにドクドク鳴っているのを聞いていた。

 目の前の男は敵なのに、この世でもっとも信用ならない存在なのに、こいつの言葉はジャックがずっと知りたいと思っていたことだった。だから、張り付くみたいに耳に届いてしまう。

「実地で役には立たなかったが、いつか使える日が来るんじゃないかと思っていたんだ。それが今だ! お前が小娘に惹かれるのは、恋慕じゃない。殺したいって欲求だ。やれよ! 自分の心の声に従え!」

「……うるさい!」

 これ以上聞いていられなくて、ジャックは男に斬りかかった。

 男の言っていることは、きっと本当のことなんだろう。この男の言葉を信じると、ジャックがこれまで疑問に思っていたことがすべて腑に落ちる。

 自分が何者なのかという疑問にも、ロランヌにどうしようもなく惹かれてしまうことにも、答えが出た。

「殺せ! お前だってクインガーデナーが憎いはずだ! あの小娘を花を摘むように手折ってしまいたいと思ったことがあるだろう? その思いこそ真実でお前のすべてだ!」

 ジャックのナイフを斧で受け止め、男は言った。そして距離を取り、再び振りかぶってくる。

 男の声を聞きながら、ジャックは頭が痛くなってくるのを感じていた。

 狂おしい想いでロランヌの背中に手を伸ばすあの夢を見て目覚めた朝のような、そんな気分の悪さだ。

 殺せ殺せ殺せ――男の声が、気持ちが悪いほど響いてくる。

 殺さなければ自分が殺される――強烈な恐怖心で、胸の中が真っ黒に染められていく。

「くっ……」

 大振りな動きのはずなのに、男の斧は素早く空を切ってジャックの頬をかすめた。避けたが、肩を少し掠った。

 間合いを取って暗器を投げたが、それはすべて斧に弾かれた。

 いつもと同じ動きができたなら、きっと手数を重ねるうちに相手を疲労させることができただろう。だが今は、押されているのは完全にジャックだ。

 ジリジリと体力を削られている上に、頭痛と耳鳴りに思考が奪われていってしまいそうだった。

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