第三章 その②

 それから数日後、ジャックはいつものように小汚い東方人に扮してごみごみとした街を急いでいた。情報を仕入れに行きたかったのに、なかなかそれが叶わなかったのだ。

 その代わり、フレールのところに行かずとも、いろいろわかったことがあった。だからこそ、その情報をさらに精査するために別の情報がほしかった。

 東方人街と化しているこの界隈は、相変わらず妙な活気に満ちていた。今夜もいつものように、オレンジ色のランタンが灯された中に屋台が並んでいる。貴族街や労働者街は、頻発する不穏な事件を受けて雰囲気が悪くなっているのに。

 ここはいつだって、表の世事からは切り離されたかのような独特の気配がある。だからこそ、情報のやりとりにはうってつけの場所と言えるのだが。

「よぉ。そろそろ来るんじゃないかと思ってたぞ」

 いつもフレールが立っているあたりに行くと、今夜の彼は酒を片手に上機嫌な様子でいた。酒はなかなか飲めないと言っているから、何かいいことがあったか羽振りがよくなったかだろう。

「ん? 何かやつれてる? お疲れか?」

「ああ。いろいろあって……知り合いに倒れたやつがいたんだが、ヤバイ薬をやってたらしい。たぶん、フレールが言ってたやつだろうな」

 酒臭いフレールの息から逃れながら、ジャックは自分が今知っていることをかいつまんで話した。

 クロエから聞いた話だと、冥界の花樹に寄生されて昏睡していたメアリは、恋人から怪しげな薬をもらっていたのだという。そしてその恋人も昏睡していたというのだから、その薬が原因とみて間違いないだろう。

「何だ、あんた。薬をやるような碌でもない知り合いがいるのか?」

「いや、知り合いの知り合い? 顔見知りのお針子から聞いたんだ」

「ほー。あんたのガールフレンドはお針子か。なるほどなるほど」

「そういうんじゃなくてさ……」

 面白がるような鬱陶しい絡み方をされてジャックはうんざりしたが、フレールはすごく楽しそうだ。一部の人間はこの手の話題が好きだなと、ジャックはさらに呆れる。

「そろそろ来る頃だろうと思ったのは、面白い話を仕入れたからなんだよ」

「何だ。もったいつけずに教えてくれ」

 ジャックの機嫌を損ねたことを察したのか、フレールはニヤニヤしたままではあるが話を切り出した。本来の目的は情報収集なのだから、ジャックも気持ちを切り替える。

「それがよ、昏睡から目覚める人間が続出してんだと。倒れて目覚めねぇってのも気味が悪いが、医者にもかかれねぇ貧乏人たちが次々回復してるってのもな」

「……回復してんのは、いいことだけどな」

 ピーの薬が効いているのだろうなと、事情を知っているジャックは理解できた。だが、何も知らなければ確かに気味が悪い話だろう。

 普通なら、原因がわかろうがわかるまいが貧乏人が倒れればそのまま死ぬのがほとんどだ。それが一時昏睡にまで陥った人間が自然と回復するなどありえない。

「あとな、例の花売りだけと、宵闇に紛れて人を襲ってるらしい。若い女の子が切りつけられるのを見たってやつがいるんだよ」

「穏やかじゃないな。ちなみに、それはどこで?」

 聞いてすぐ、メアリのことだとわかった。だから、さりげなく探りを入れる。情報がほしいのは間違いないのだが、がっついているとフレールに知られれば足下を見られる。

「どこだったかな……ただ、それを見たって言ってたやつは、三番街の外れにある橋のあたりを寝床にしてるぞ。川が大雨で溢れたりしなけりゃ、存外居心地がいいんだと」

「橋のあたりか。野良犬がたくさんいるって印象しかなかったな」

「野良犬がただで居着くかよ。必ず餌付けしてるやつがいるんだ。手懐けてりゃ、極寒の冬にも暖を取れるからな。覚えとくといい」

 役に立つ日が来ないことを祈る知恵を授けられ、ジャックは何とも言えない気分になった。しかし、聞きたいことは十分に聞けたと言えるだろう。

「いろんな意味で橋のあたりは恐ろしくて近寄れないな。知り合いにもしばらく近づかないよう言っとくよ。ありがとな」

「またな」

 いつもの煙草を渡すと、フレールは上機嫌で手を振ってきた。

 去りながらジャックは、今日はやけにスムーズに情報を手に入れられたし、その中身もまさに自分が知りたいことに通じていたことにやや違和感を覚えた。

 だが、そんなことよりもすっかり遅くなってしまったことが問題だった。フレールとの会話なんてそう長引くものではないと思っていたが、今日は収穫があったぶん時間がかかってしまった。

 夕食後はロランヌもゆっくりしているだろうから不在に気づかれる可能性は低いが、油断はできない。それに何となく、ジャックは嫌な予感がしていた。

「……ロール様、何かご用ですか?」

 使用人用の入口から屋敷の中へ入り、自分の部屋へ帰ろうとしていると、二階へ続く階段にロランヌが腰掛けていた。あきらかに人待ちの顔をした主人を見て、ジャックは自分が待たせていたのだろうことを悟った。

「ジャック……あなた、本当は目が悪かったの?」

「え……あ!」

 物言いたげに見つめてくるロランヌに指摘され、ジャックは慌てて自分の顔に触れた。指先には変装用の眼鏡が当たる。お仕着せには着替えていたが、眼鏡は外し忘れていたようだ。

「変装なんかして、どこへおでかけ?」

「へ、変装なんて……」

「じゃあ、その眼鏡は何? きちんと度は合っているの? 目が悪いのならお医者様に見てもらってちゃんとした眼鏡をお仕事中にもかけたらいいわ。なかなか似合っているし。明日にでもお医者様を呼びましょうか?」

 眼鏡を見られてしまった以上、どんな言い訳も思いつかなかった。というより、ロランヌがこれだけ強く言うということは、あらかたもうバレてしまうのだろう。それならば、今回のことに関してはいっそすべて話してしまったほうがいいのかもしれない。ロランヌにも無関係なことではないし。

「実は……クロエを襲った花売りについて調べていました。もしかしたら、気になっているいろんなことに通じるかと思いまして」

「それで、わたくしに黙ってコソコソ調べた成果はあって?」

 まだ怒ったふりをしながらも、ロールの目がキラリと光るのをジャックは見逃さなかった。おそらく、ここで待ち伏せたときから彼女の心を占めていたのは怒りではなく好奇心だったのだろう。

 こうなればきっと、引き下がってなどくれないし、関わらせなければ黙ってついてくるくらいのことはしそうだ。

「どのあたりに出没するのかまで、見当が付きました。三番街の外れにある橋のあたりらしいです」

 伏せたり誤魔化したりすれば、勘づかれてしまうだろう。だから仕方なく、ジャックは今日仕入れた情報を明かす。

 するとロランヌは、花が開いたみたいに満足げに笑った。

「そう。それなら、明日にでも一緒に行くわよ」



 翌日の夕暮れ時、ジャックとロランヌは連れ立って三番街の外れを歩いていた。

 ジャックは日頃の東方人風の変装ではなく、三番街を歩いてもかろうじて許される平民らしい格好だ。問題は、その隣を歩くロランヌも同じような平民の服装をしているということ。

「これは……可愛らしすぎて逆に危険なのでは?」

 ジャックは大真面目な顔でロランヌを見つめて言う。

 ロランヌが身に着けているのは、レースの襟をつけたブラウスにスカート、それにエプロンというよく見る平民の少女の服装で、普段彼女が着ているものと比べると恐ろしく簡素で貧相だ。だが、それがかえってロランヌの素材の良さを引き出してしまって、ジャックの目には光り輝いて見えている。

「そうは言っても、いつもの服でうろつくわけにもいかないでしょう?」

「それはそうです。でも……どんなボロを着せてもお嬢様の愛らしさを隠してしまうことはできませんね。連れてくるべきではなかった」

「そんなこと言って、わたくしのことを追い帰そうとしてもだめよ」

「いや、決してそういうわけではなく、本当にお嬢様の身を案じているだけです」

「どうかしら? わたくしが気づかずにいたら、まだコソコソしていたでしょうから」

 ジャックの秘密の外出のことをまだ怒っている様子のロランヌは、不満そうな顔をする。だが、それと同時に変装をして街を歩いていることが新鮮で楽しくて、そわそわしているのも隠しきれていない。

 下手な変装をした主人と一緒にいることで気が気ではないジャックと、その隣を落ち着かない様子で歩くロランヌ。きっとこの並びは不自然で人目を引いてしまっただろうが、運良くこの時間帯は出歩いている人が少なかった。

 ロランヌたちが暮らす一番街や店などが建ち並ぶにぎやかな二番街は、夕暮れ時もガス灯の灯りによって真っ暗になることはない。庶民たちが多く暮らす三番街も通りに面したところなら少なくはあるが灯りはあるものの、外れであるこの一帯はそれもなくて薄暗い。

 おまけにまばらに建つ家々はどれも古く貧相で、石畳を敷かれていない剥き出しの道は埃っぽい。

「三番街といっても、寂しい場所ね」

「ここは外れですから。川の近くは、不人気なんですよ。川が氾濫すれば何もかも失ってしまうような危険な場所なので、このあたりに住処を構える人は訳ありということです」

 事件があったからか、まだ暗くなりきっていないというのに本気で人の気配がなかった。もしかするとジャックはいつでも不思議な活気に満ちた東方人街に慣れきっているからかもしれないが、とにかくある種の異様さを感じるほど静かだった。

 だから、それは唐突に訪れた。

「――あたしの商売の邪魔すんのはあんたたちか!」

 怒声と、肌を突き刺すような殺気に振り返ると、上方に飛び上がった人影を見つけた。その人影が高く上げた脚を振り下ろそうとしているのがわかり、ジャックはロランヌを背に庇って後退した。

 対象物を失った人影はしっかりと着地し、すぐさま得物を取り出して構える。

 こちらに害意があるのは確実だとわかり、ジャックも戦いの構えを取った。

(これが、噂の花売りか)

 フリルで顔周りを飾るボンネットに襟ぐりが大きく開いたブラウス、編み上げで腰を細く見せる胴着にくるぶしが見える丈のふんわりとしたスカートを身に着けた人影は、よく見る花売り娘の格好をしている。

 宵闇に紛れて三番街の外れに出没する花売りといえば、フレールがもたらした情報そのままだ。

 できればその花売りが誰かを襲おうとしているところを押さえられればと思っていたのだが、まさか自分たちが襲われることになるとは思ってもみなかった。

 こちらに対して思うところがありそうな口ぶりなのが気になるが、とにかくロランヌを傷つけさせるわけにはいかない。だからジャックはすぐさま次の攻撃を仕掛けてきた相手と向き合うことにした。

「最近、花が採れなくなって困ってんだ! 誰かが邪魔してる! あんたらか!? コソコソ人のこと嗅ぎ回りやがって」

 軽やかに間合いに入り込みながら、花売りにナイフを振り下ろされる。それを手首ごと弾いてやれば、ナイフはあっさり遠くへ飛んでいった。服に手を入れ次の得物を取り出そうとしたのを防ぐため、ジャックは花売りに拳と蹴りを繰り出した。

 不意を突かれたのでなければ、もっと穏便に話を聞くこともできたのだろう。だが、最初から相手がこちらに対して強い害意を持っているからそれもできない。どうやらジャックが探っていたことを察知していたらしい。それなら、多少手荒にしてでも動きを止めさせるしかない。

 細く小さな体のどこにそれを実現する力があるのだろうかと思うほど、花売りはものすごい敏捷さでもってジャックの攻撃をかわし続けた。だが、蹴りをかわすステップに、拳を避ける上体の動きに、少しずつ疲れが見え始める。このまま続ければジャックに分があるのは明らかだった。

 動けなくなったところを取り押さえて話を聞ければと考えたが、花売りはジャックを害することをあきらめられないらしい。

「ああ……! もう、なんで! なんで邪魔するんだ……!」

 ヒステリックに叫んでから、花売りが何かをその手に〝出現〟させた。それは、大鎌。出現と呼ぶしかできないほど、それは突如そこに現れた。

 花売りは、突如出現させた大鎌をブンッと風を切る音がするほど勢いよく振り下ろした。ジャックは飛び退ったが冷たい刃が鼻先をかすめ、それが実体を持っていると理解させられた。

 突然刃物を出現させられるなんて、これまで自分のほかに知らなかった。こんなことできるのは、ガーデナーかランバージャックのどちらかだけのはずだ。

 命を刈り取ろうとする大鎌は、ガーデナーではありえない。つまり、目の前の花売り娘はランバージャックということ。

「お前が切り裂き魔か!?」

 繰り返し振り下ろされる大鎌を避けながら、ジャックは袖口から暗器を取り出してそれを投げた。二度三度、それは大鎌に弾かれるが、その隙を縫って投擲したひとつが花売りの頬をかすめた。

 しかし、それで止まる花売りではない。

「あんなイカれたのと一緒にするな! あたしはただ、高く売れる花ってのを集めてただけだ」

「くっ……!」

 足下を薙ぎ払うように大鎌を振るわれ、ジャックは飛んだ。切られてはいないが、刃先が爪先をわずかに削いだのは感じた。着地を狙ってもう一度同じことをされては敵わないから、暗器を放って花売りの動きをわずかに止めた。

(高く売れる花……やっぱりこいつが一連の騒動に関わっている)

 切り裂き魔であることは否定したが、人々から花を刈り取っていることは認めた。次々と倒れる貧しい人たち。その原因は目の前のこの女なのたと思うと、言いしれない怒りがジャックの中に湧いた。

「〝花〟を刈ったらその人の命が危ういことくらいわかるだろ!? なぜあんなひどいことができる?」

 宙に縫い止めてやるくらいの気持ちで、ジャックは投げナイフを放つ。花売りは大鎌を振るいながらそれを避けるが、だんだんと避けきれないものが増えてくる。

 それでも、その瞳には怒りが燃えていて、決して動きを止める気がないのがわかる。

「生きるか死ぬかの世界で生きてんだよ! あたしは死にたくない! だからって、きたねぇオヤジに体を差し出す生活なんてもうごめんだ! だから他人の花を刈る! それの何が悪い? 高値で買ってくれるやつがいるから仕方ねぇんだよ!」

 花売りは鈍くなった動きでまだ鎌を振るおうとする。腕にも脚にもナイフを受けてボロボロのはずなのに。

 バロー仕込みの暗器を使った格闘術は飾りではないのだ。急所は外したものの狙うことはできた。だから、やろうと思えば仕留められると思い、ジャックは追撃の手を緩める。

「そのために薬をばらまいているのか?」

「薬なんて知らない。ただ中毒患者は高い花を咲かせるみたいけど」

 ジャックの問いに、花売りは肩で息をしながら答えた。どうやら、少しは消耗させることができたらしい。素直に情報を吐けばもう解放してもいいのかもしれない。

「薬については知らないって言いつつ、中毒患者がいることは知ってるんだな。……薬をばらまいてる連中のあたりくらいついてるんだろ? それを教えれば、見逃してやってもいい」

 元より、ジャックたちに花売りをどうこうする権利を持たない。一連のことはガーデナーとして無関係と思えず調べを進めているだけだ。何かわかればロランヌから女王に報告することはあるかもしれないが、それ以上のことはできない。

「ばらまいてるやつら……大きな声では言えない。誰が聞いてるかわかんねぇから」

 花売りは話す気になったようで、大鎌をしまってジャックに手招きする。近くまでくれば耳打ちすると言いたいのだろう。

 だからジャックは、地面に膝をついた花売りのすぐそばまで近づいた。

「定かな話じゃなく、あたしも噂で聞いた程度なんだが……」

 花売りがジャックの耳元に唇を寄せ、かすかな声で話し始める。聞き漏らさないよう、ジャックは神経を集中させた。あと少しでほしい情報が得られると、ただそのことしか考えずに。

「くはっ……!」

 突然、花売りが苦しそうに呻いて地面に倒れた。その手にはいつの間にか大鎌が出現し、そしてジャックの背中側に隠していたはずのロランヌが、花売りの背後に立っている。

「ジャックは女の子に騙されそうだとは思ってたけど、こんなに無防備だなんて」

 呆れた顔で言うロランヌは、何か花の蕾を握っていた。それはただの花ではなく、冥界の花だ。

「その子、あなたを近くにおびき寄せて鎌で傷つける気だったのよ? それもわからずのこのこ近づいていくだなんて……わたくしの護衛を名乗っていながらなんてざまなの」

「すみません。あの……」

「死なせてなんかいないわ。ただ弱らせるために蕾をひとつむしっただけ。花がもとに戻るまで、体を元気に動かすことはできないし、能力も使えないでしょうね」

「そうですか……」

 どうやらジャックに危険が迫っていたのを察知したロランヌが、花売りの背後に近づいてこっそり奪い取ったらしい。ロランヌの能力は接ぎ木だ。枝を接いで命を繋げるということは、その反対に弱らせることも奪うこともできるということ。

 不慣れなロランヌを守りながら問題にあたるつもりだったのに、彼女に命を救われてしまった。それでは護衛としての面目が立たないと、ジャックはひどく落ち込んだ。

「……変なやつら。ちっこい嬢ちゃん守ってるイキった若造かと思ったら、嬢ちゃんのほうが強いのな。尻に敷かれてらぁ」

 花売りがなけなしの体力を使って、ジャックたちから大きく距離を取った。また攻撃してくるのかと思ってジャックは身構えたが、その意思はないと言うように花売りは手で制してきた。

「もう何もしねぇよ。その嬢ちゃんが言うように、何もできねぇ。で、あんたら面白かったから情報をやるよ」

 ひょこひょことした不格好な姿で少しずつ後退りながら、花売りは言う。本人が言うように、もう何もできないのだろう。だが、口だけはまだ達者だった。

「薬をばらまいてるのは、たぶんどっかの宗教団体。救貧院とかやってるところだ」

「え……」

 花売りの言葉に、ジャックもロランヌも驚いた。驚くことは想定済みだったのか、二人の反応を見て花売りは鼻で笑った。

「女王様はお優しいから異教の者を取り締まらない。――そのせいでこの国は内側から食われんのさ」

 捨て台詞のように言って、それから花売りは走り出した。そんな俊敏に動ける元気が残っていたのかと思うほどの逃げ足だった。

 ジャックは追いかけようとしたが、それをロランヌが止めた。

「追う必要はないわ。……これ以上、何か有益な情報を聞けることはないでしょう」

「そう、ですか……」

 静かで冷静なロランヌの声を聞いて、ジャックもどうにか気持ちを鎮めた。しばらく何も言えず、ただじっと隣に立つロランヌの横顔を見つめる。

 表情には何も現れていないが、ロランヌの内心はきっと大荒れだろう。いつも淑女らしい微笑みを絶やさぬよう心がけている人が、それをできなくなっているのだから。

 救貧院が貧しい人々を騙して苦しめていることにもショックを受けたのだろうが、女王のことを悪し様に言われたことが何より堪えているのではないかとジャックは考えた。

 ロランヌは女王を慕っているし、心酔しきっていると言ってもいい。だから、大切な女王を慕わないどころか悪く思っているのが伝わる発言をされれば、穏やかではいられないに違いない。

「あの……さっきはありがとうございました。ロール様がいなかったら、きっと俺はあの花売りにやられていました」

「そうよ。ジャックはもう少しわたくしを信じて、頼りなさい。わたくしだって、クインガーデナーなんですから」

 ひとまず先ほどのことのお礼をと思い口にすると、ロランヌは唇を尖らせて胸を張った。どうやら、ジャックが自主的に助けを求めなかったことを怒っているようだ。はなからロランヌを守る対象としか考えていなかったことは、彼女にとっては不服らしい。

 少し機嫌を直した様子のロランヌは、先ほど花売りから摘み取った蕾を見ていた。彼女が見つめ、何事かを念じると、それはゆっくりと花開いた。クインガーデナーであるロランヌに命じられて咲かない花はないのだ。……一部の例外を除いて。

「……オニユリ。花言葉は『嫌悪』ね」 

 ロランヌの手の中にあるのは、オレンジの花弁に暗褐色のまだら模様が無数に入った毒々しい百合の花だった。その花を見れば、不思議とあの花売りに相応しいと思える。冥界の花樹とは得てしてそういうものだ。だから、得体の知れないジャックの冥界の庭には、得体の知れない植物が植わっている。

「嫌悪ですか。そんな感じの人間でしたね」

「嫌悪の花言葉を持つ花を咲かせるから彼女がああなのか、彼女が世界を憎んだからこの花が咲いたのかは、わからないわ。……少なくとも、生まれや不幸は彼女自身のせいではないもの。努力だけではどん底からはい上がれないことを、忘れてはだめよ」

「……そうてすね」

 ロランヌの指摘に、ジャックは自分の傲慢さを恥じた。たまたまバローに拾われ、ロランヌのもとで従者をやれているからよかったが、そうでなければ今頃どんなふうに生きていたかわからないのに。それを忘れて、花売りのことをどこかで線引きして馬鹿にしていたのだ。それは決してしてはいけないことだった。

「この件には恐ろしいくらいの闇と憎しみと、それに巻き込まれた人の悲しみが渦巻いているのだわ。……倒れる貧しい人々に、薬に、冥界の花樹に寄生する植物、そして救貧院。根が深いわね」

 これまでにわかっていたことと、先ほど花売りからもたらされた情報は見事に繋がった。そしておそらく、ロランヌの言うように根が深い問題であることもわかった。

 知りたくて追いかけ始めたはずなのに、いざその根の深さを感じ取ると、途端に腰が引けるのをジャックは感じていた。自分だけならまだしも、ロランヌを巻き込んでこのまま進むかどうかは、正直悩ましいところだ。

「ロール様……この件は、陛下にご報告して判断をあおぎませんか? 手を出すにしても、陛下からのご指示を待ってからのほうがいいのでは」

 女王の名を出せばロランヌが踏みとどまってくれるのではないかと期待して、ジャックは提案した。本当は、この件からはロランヌには手を引いてほしいとすら考えている。だが、彼女は首を振った。

「問題の一端に触れてしまったのだから、最後まで付き合うしかないわ」

 きっぱりと、強い決意を感じさせる声でロランヌは言う。ジャックを見上げるその目を見れば、生半可な気持ちで言っているのではないとわかる。

「民を苦しめるものは、陛下の敵だわ。そして、陛下の敵と戦うのはわたくしたちガーデナーの務め。ガーデナーが陛下から手厚く保護されているのは、陛下を脅かすものと戦う力を持つからよ。貴族は貴族に生まれたから尊いわけではなく、持つべき者の義務を果たすから尊ばれるのです。それなら、わたくしたちも義務を果たさなければ。――クインガーデナーの名が廃るわ」

 この地上でたったひとりの生き残りのクインガーデナーの少女は言う。

 この小さくて華奢な肩にそんなものを背負っているのかと、ジャックは泣きたくなった。

 ジャックにとって大切なものは、ロランヌを中心とした小さな世界にしかない。両手を広げて届く範囲の中のものを守れさえすればそれでいい。

 というより、ロランヌを危険に晒すくらいなら世界なんてどうだっていいのだ。それなのに、彼女は危険に身を投じるのだと言う。女王のために、女王が治めるこの国のために。

 それなら、どんなに嫌でもジャックはついていくしかない。

「……わかりました。引き続き、調査を進めます」



 

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